ステップ1 いらっしゃい! 彼女の家はこんな場所
「いらっしゃいませ」
床に敷かれた布団の上にちょこんと座った女の子が、横の戸棚から急須とお茶っ葉を取り出す。
保温ポットのボタンを押し急須にお湯を注ぎ、ゆっくりと湯飲みにお茶を淹れる。
そして座布団に座っている僕の前に、そっとその湯飲みを差し出してくれた。
「少しぬるいかもしれないけど……」
「あ……ありがとう」
緊張しながら僕はその湯飲みに手を伸ばし、お茶をひと口味わう。
確かにちょっとぬるめだけど、とても美味しい、と思う。
でも、状況的にしっかりと味わうことなんかできはしなかった。
☆☆☆☆☆
僕は富永波徒。今年、高校に上がったばかりの高校一年生だ。
僕の通う桜草学園は、初等部、中等部、高等部が敷地内にまとまっている、いわゆるエスカレーター式の学校となっている。
学力レベルは中の上、といったところだろうか。
一般入試も行われているので、初等部からずっと同じ顔ぶれだけ、というわけではない。
僕もそんな一般入試で入学したうちのひとりだ。
もともと女子校だったこの学園は、数年前から共学となったのだけど、まだ女生徒の比率のほうがかなり高い。
もっとも、僕はべつに、(まったくないとは言わないけど)それを目当てに入学したわけではない。
この学園の理事長が親戚に当たるため、強く勧められたのだ。
理事長は僕が入学したら、学園のすぐ近くに建つ自分の家に空いている部屋があるから、そこに住んで通えばいいと言ってくれた。
なんでも、住まわせてあげるつもりだった人が申し出を断ったため、空いたままになっているのだとか。
住む部屋が用意されているのはよかったのだけど、さすがに理事長の一存で無条件に学園に入学させるわけにはいかず、普通に入試を受けて無事入学するに至った。
そんなわけで、僕は今、理事長の家にご厄介になりながら、この学園に通っている。
長男である僕の下にはまだ、弟ひとりと妹ふたりも控えていた。長女が今年中学校に入学、次男が小学校五年生、次女は小学校三年生だ。
景気は長いこと底這い状態が続き、そろそろよくなるなどと言われながらも、実際には悪くなる一方という苦しい現状。
父さんの給料が十パーセントカットで、ボーナスもほとんど出ないこんなご時世では、経済的に厳しいは紛れもない事実だった。
もちろん、質素な暮らしではあっても家族一緒にいられるのが一番と、両親は必死に頑張って僕たちを育ててくれていたし、僕もそれなりに幸せを感じて生活してはいた。
だけど今後は、もっとお金が必要となってくるだろう。
そう考えた僕は理事長からの申し出を快く受け入れ、お世話になることに決めたのだ。
学園に入学して驚いたのは、聞いていたとおりの女子の多さと、中学からエスカレーター式に上がってきた人の多さだった。
男女の比率は、二対八という感じだろうか。
自己紹介を聞いている限りでは、八割くらいの生徒がこの学園の中等部からそのまま上がってきているようだ。
そんなクラスの中、僕には気になっている女の子がいた。
それが星奈詩穂さんだ。
入学したての新たなクラスでは、ひとりずつ自己紹介させられるのが一般的だろう。
ご多分に漏れず、このクラスでもやっぱりそうだった。
最初だから目立つのが肝心と、気合いの入った自己紹介をする人もいたけど、それはごく少数派。ほとんどの人が、名前と出身校を言う程度で済ませていた。
かくいう僕自身もそうだったのだけど。
星奈さんの自己紹介も、名前と桜草学園の中等部から上がってきたことを伝える程度の、当たり障りのない感じだった。
少しおとなしい印象を受ける雰囲気で、外見的にも、確かに可愛いとは思うけど、美人というわけではない。
それでもなんとなく、一瞬見せたちょっとはにかんだ笑顔に惹かれた、と言えばいいのだろうか。
とにかく気になったのだ。
話しかけたいとは思っていたけど、僕のほうも積極性に乏しい性格で、なかなかそばにも寄っていけない。
せめて席が隣だったりすれば、話しかけやすかったかもしれないのだけど。
「なぁ、富永。お前さっきから、星奈さんのほうばっかり見てないか?」
ホームルームが終わり、一時間目の授業が始まる前の時間に、後ろの席の男がニヤニヤしながら小声で話しかけてきた。
「な……っ!? い、いや、そんなこと……」
「照れるなよ。べつにいいじゃないか。周りは女の子ばっかりだしさ。目を奪われるのもわかるって」
「ほんとに、そういうわけじゃ……」
と言いつつも、語尾が弱まっていく僕。
星奈さんのほうばかりを見てたのは事実だったのだから、反論できるわけもない。
「とりあえず、数少ない男同士、席も前後になったわけだから、これからよろしくな! 俺は鳥河狩人。ま、ホームルームで自己紹介したから覚えてるか」
「あ……うん。この学園に初等部からずっと通ってて、中学から新聞部なんだよね」
「そうそう。ちゃんと聞いてたんだな。そういうわけだから、学園でわからないことがあったら、なんでも聞いてくれよ。俺自身が知らなくても、新聞部の情報網だってあるしな!」
鳥河はそう言ってウィンクしてくた。
最初はいきなり心の中を見透かされたようなことを言われて驚いたけど、結構なじみやすい奴なのかも、と思ってホッとした。
「そうだな、例えばこの学園、数年前まで女子校だったけど、そのさらに前は共学の中学校だったらしい。エスカレーター式の総合学園になるときに女子校にしたって話だ。かなり昔の話だけどな」
「へ~、そうなんだ~」
鳥河は、学園のことをいろいろと僕に教えてくれた。
新聞部員というのは、そうやって知識を披露することに喜びを見い出す人種なのだろう。
「はーい、みなさん静かにしてね~~。授業を始めますよぉ~~」
そのうちに、小学校の先生のような明るい口調で、ひとりの女性が教室に入ってきた。
琴崎里子先生だ。
こんな喋り方をしているのは、去年まで初等部の教師だったかららしい。
中学・高校の国語の教員としての資格もあり、もともとはそちらを望んでいたそうなのだけど、人手が足りなかった関係で初等部の担任をしていた琴崎先生。
今年からようやく、念願の高等部の担任としてこのクラスを受け持つことができるようになったのだという。
「それじゃ、話はまたあとでな」
鳥河の声を背中に受けつつ、僕は高校時代最初の授業に集中し始めた。
☆☆☆☆☆
休み時間になると、僕はまた後ろの席の鳥河と話をした。
「実はお前と俺は親戚に当たるんだ。だから理事長とも面識があって、あらかじめ話を聞いてたんだよ」
さっき鳥河が僕に話しかけてきたのは、席順がひとつ前だからというだけではなかったのだ。
親戚とはいっても、親の都合であまり親しく交流を持っていなかったようで、僕はまったく知らなかったのだけど。
「それにしてもお前、ほんとに星奈さんのほうばっかり見てるよな。ま、気になるのはわかるけど、あまりにもわかりやすすぎるだろ」
鳥河はまたそんなことを言って僕をからかい始める。
「う……、でもさぁ……」
反論しようとするけど、言葉が続かない。
「ははは! いいじゃないか。できれば協力してやりたいとも思うんだけどな。でも、俺もあまり星奈さんとは親しくないんだ」
「そっか、残念」
「それに、星奈さんはちょっと……」
少し目を伏せて声を落とす鳥河。
「え?」
星奈さんはちょっと、なに?
僕は気になって訊き返していた。
だけど、
「いや、なんでもない。ともかく、お互い楽しい高校生活になるように、頑張ろうぜ!」
言葉を濁してそう締めくくった鳥河の声に合わせるかのように、始業のチャイムが鳴り響いてしまった。
すぐに先生が教室に入ってくる。僕は仕方なく前に向き直った。
星奈さんのことが気にはなったけど、鳥河は結局それ以上なにも話してはくれなかった。
ともかく入学初日に、面識はなかったとはいえ親戚と同じクラスで、しかもこんなすぐに打ち解けられたのは、幸先のいいスタートだったと言えるだろう。
楽しい高校生活になりそうな、そんな予感がした。
☆☆☆☆☆
昼休み、鳥河は購買に行くと言ってすぐに席を立った。
僕はお弁当持参だったので教室に残っていた。
理事長である伯母さんは忙しいのでお弁当なんて作っている時間はないのだけど、なんと伯母さんの家にはお手伝いさんがいる。
といっても、家自体はべつに豪邸というわけではない。
理事長をやっている人だし、裕福な家庭をイメージしていた僕も、最初見たときには少々驚いた。
伯母さんの家はごくごくありふれた普通の住宅だったのだ。
お手伝いさんも住み込みというわけではなく、朝早くに出勤し、伯母さんの家の台所を使ってお弁当の準備をしているのだという。
当然ながら、お手伝いさんは僕のために雇われたわけではない。
伯母さんにもふたりの子供がいる。幼稚園の男の子と小学校に上がったばかりの女の子だ。
そのふたりの面倒を見てもらうのと、幼稚園のお子さんや伯母さん用のお弁当作り、さらには家の掃除・洗濯などを任せるために雇っているそうだ。
ありがたいことに、僕のお弁当もそのお手伝いさんが作ってくれていた。
伯父さんのほうはなにをしているのかというと、とあるIT系企業のロサンゼルス支社で働いており、現在はアメリカに住んでいるとのこと。
なので、僕は一度も伯父さんには会っていない。
さすがに伯母さんは寂しい思いをしているのではないだろうか。
ともかく僕は、持参したお弁当を広げてひとり食べ始める。
教室を見回すと、女子はいくつかのグループがすでにでき上がっているのか、机をくっつけてお喋りしながらお弁当を食べているのが、そこかしこで見られた。
どうも男子はこの女子だらけの空間にいるのが居心地悪いのか、ほとんどの人が食堂へ行ったり、お弁当を持ってきていても教室の外で食べたりしているようだった。
女子たちの喋り声や笑い声が響く中、僕はひとり、窓から外を眺めながらお弁当を食べていた。
窓からは、校門を入るとすぐ目の前に広がるロータリーが見渡せる。
噴水を真ん中に配置したロータリーの周りには、たくさんの桜の木が植えられていた。
桜の花びらが舞い散る光景を見ながら、僕は黙々とお弁当を口に運ぶ。
ふと教室に目を向けると、星奈さんと目が合った。
僕はなんとなく恥ずかしくて、すぐに目を逸らし、お弁当を食べ続けた。
「あの……」
不意にかけられた声に顔を上げてみる、星奈さんがすぐそばまで近寄ってきていた。
「あっ、えっと……。ども……」
どんな対応をすればいいのかわからず、わずかに微笑みながらも、僕の顔はちょっと引きつっていたかもしれない。
そんな様子はわかっていただろうけど、あまり気にする様子もなく、というより星奈さんのほうも気にする余裕がないような感じで、視線も合わせずに言葉を続けた。
「突然こんなことを言うのも、変かもしれないけど……」
そこで一旦区切り、息を吸い込んで呼吸を整えるかのように間を取ったあと、星奈さんは確かにこう言った。
「放課後、一緒に私の家まで来てください!」
☆☆☆☆☆
そんなわけで僕は、星奈さんの家に招待されて、今この状況になっているというわけだ。
湯飲みに口をつけながら星奈さんに視線を向けると、彼女も顔を伏せて上目遣いでこちらを見ていた。
僕の視線に気づくと、星奈さんはすっと視線を逸らしてしまう。
どうしたらいいのかな……。
というより、すごく気になる、というか、え~っと、なんと言っていいのやら……。
だって、ここは……。
不意に、足音が響く。
「でさ~、そのとき、あいつが……。あっ」
僕が後ろを振り向くと、制服姿の女子生徒と目が合った。
友人と三人で階段を下りてきて、この先の家庭科室に向かうところなのだろう。
家庭部、という部活があるのも、この学園が女子の多い高校だからと言えるのかもしれない。
「あ……どうも……」
困ったような愛想笑いを浮かべる僕を見て、女子生徒たちは軽くお辞儀をし、廊下を歩き去った。
そして僕は、再び前に向き直る。
そう、目の前にいる女の子、星奈詩穂さんの『家』というのは、ここ、高等部の特別教室棟一階、東側の階段下だったのだ。
沈黙が続いた。
放課後を迎えた特別教室棟の廊下は、とても静かだった。まだ夕方の、日も沈んでいない時間だというのに。
学校内には部活のために残っている生徒も多いはずだけど、その声はこの場所までは届いてこない。
僕の発するお茶をすする音だけが、微かに響く。
その静寂を止めたのは、星奈さんの小さな声だった。
「あの……。ごめんね。変でしょ? こんなところに住んでるなんて」
本当に申し訳なさそうに顔を伏せたまま、星奈さんは震える声でつぶやいた。
「いや……、ちょっと驚いたけど……。でもいろいろと事情があるんだよね? 聞いたら悪いかなとは思うけど……」
「そんなことないよ。……えっとね、私はここの元理事長の娘なの」
星奈さんは、淡々と話し始めた。
「校舎内に理事長室があるでしょ? ……あっ、入学したばかりだから場所まではわからないかな? とにかく理事長室はちょっと広めの部屋で、さらに奥にもうひと部屋あるの。そこで生活もできるようになっていて、私たち家族はそこに住んでたんだ。でも、両親とも、死んでしまって……。
私は小学生だったんだけど、理事長室も次に来た理事長さんが使うことになるから出ていかなくてはならなかったの。頼れる親戚もいなくて、どうしていいかわからなかった……。だけど両親の思い出が詰まったこの学校からは離れたくなくて。それで、新しい理事長さんに頼み込んで、学校の一角で住まわせてもらえることになったの」
僕は、ただ黙って聞いていた。
かける言葉が見つからなかったのだ。
つい困ったような表情もしてしまっていたのだろう、星奈さんは努めて明るい声で喋り続けた。
「あっ、でも、気にしないでね。私は今の生活、結構気に入ってるんだ。両親とずっと一緒だったこの学園にいられるんだもの。学費も、そのうち返さないといけないけど、今は理事長さんが出してくれているの。本当に助かってるわ」
……あれ?
そこまで聞いて、僕は気づいた。
今の理事長といえば、僕の伯母さんじゃないか。
でも伯母さんは、僕がご厄介になっている、学園のすぐ近くに建っている家で生活している。
理事長室に住み込んでいるわけではないと思うけど……。
さすがに夜だけ理事長室の奥の部屋を星奈さんに使わせる、というわけにはいかなかったのかな。
そういえば、部屋を誰かに貸すつもりだったけど断られた、とも言っていた気がする。
それってもしかしたら、星奈さんのことだったのかもしれない。あとで伯母さんに訊いてみよう。
「あまり生徒の学園生活に支障がない場所で、とは言われていたんだけど、でもやっぱり屋根はないとダメだし、校舎内をいろいろ探してみて、ここに決めたんだ」
僕がいろいろと考えを巡らせているあいだも、星奈さんの話は続いていた。
複雑な表情を浮かべながら語る星奈さん。
今の生活が気に入ってるとはいっても、大変なのは確かだろう。
なにか僕でできることがあるなら、力になってあげたいな……。
そこで思い出した。
星奈さんはどうして僕をここに呼んだのだろう?
今話している内容を伝えるため、というわけではないと思う。
いくら人通りが少ない場所とはいえ、ここに住んでいるというのは中学からこの学園にいる人にはわかっているはずだし、僕もどこかで知ることにはなったと思う。
あらかじめ、どうしても自分から話しておきたい、という内容でもないはずだ。
「あの、星奈さん。……どうして僕をここに呼んだの?」
ストレートに訊いてしまうのもどうかとは思ったけど、やはりはっきりさせておきたかった。
なにか心に引っかかる感じがあったからだ。
星奈さんは話を止め、黙ってしまった。
しばらく考えているようだったけど、やがて僕のほうに顔を向ける。
「あのね。……私、なんだか富永くんのことが気になってしまって……。それで……」
星奈さんは頬を赤く染めながらそう言った。
それって……。
僕は鼓動が高鳴るのを感じた。
僕も星奈さんのことが気になっていたんだ、そう声にする前に、星奈さんはさらに言葉を続ける。
「それに、れーこちゃんにも言われて……」
言ったあと、あっ、と小さな声を上げて目を逸らす星奈さん。
「れいこちゃん?」
「あっ、うん……。私の……友達」
ともあれ、クラスメイトには「れいこ」という名前の女の子はいなかったように思う。
全員の名前をフルネームでしっかりと覚えているわけではないため、確実とは言えないものの、自己紹介を受けたのはまだ今日だし、おそらくは正しい記憶のはずだ。
とすると、他のクラスの子なのだろうか?
また、沈黙の時間が続いた。
西陽が窓から差してきて、星奈さんの顔を照らす。
僕のほうをじっと見つめている星奈さんの瞳が、不思議なほど、きらきらと輝いているように見えた。
さっきの話で、わずかに涙がにじんでいたのかもしれない。
「あ……ごめんなさい、もうこんな時間……。帰ったほうがいいよね、すぐに暗くなっちゃうし。今日はお話を聞いてくれてありがとう」
すっと立ち上がって言う星奈さん。それに合わせて、僕も立ち上がる。
まだ一緒にいたい、なんて言えはしなかった。
「また、来てね」
階段のそばから廊下を歩く僕に手を振り、星奈さんは笑顔で見送ってくれた。
僕も大きく手を振り返すと、名残惜しく思いながらも、その場をあとにした。
☆☆☆☆☆
「伯母さん」
十時過ぎ、僕は帰宅したばかりの伯母さんが居間のソファに座るなり、質問をぶつけてみた。
「星奈詩穂さんって知ってるよね? 部屋を貸すつもりだった人って、もしかして星奈さんのこと?」
「ん?」
伯母さんは意外にも首をかしげる。
「誰だい、それは?」
「えっ!?」
僕にはなにがなんだか、よくわからなかった。
確かに伯母さんが、星奈さんのご両親のすぐあとを継いで理事長になったわけではないかもしれない。
だからあの場所に住むことを許可したのは、別の人なのかもしれないけど。
星奈さんは、今も理事長さんが学費を出してくれていると言っていた。
それを知らないというのは、どう考えてもありえない。
星奈さんが偽名を使っているのかもしれない、とも考えてみたけど、そんなことをしてもあまり意味はないだろう。
「ん? どうしたんだい? その子がどうかしたの?」
「い……いや、なんでもないよ」
僕は思わず黙り込んでしまう。
伯母さんは「なんだい、この子は?」とでも言いたげに、こちらをじっと見据えていた。
「伯母さんって、いつから桜草学園の理事長をやってるんだっけ?」
「ん? どうだったかねぇ。もう六、七年くらいは経ったと思うけど」
そうすると、ちょうど星奈さんのご両親が亡くなった頃になるわけだから、そのあと理事長の地位を継いだのが伯母さん、ということになるはずだ。
それなのに、どうして星奈さんのことを知らないなんて言うのだろう?
「それがどうかしたのかい? 今日は疲れててね。用が済んだのなら、もう休ませてもらうよ」
そう言って伯母さんは部屋に入ってしまった。
ひとり取り残された僕は、ただ黙ってその場で立ち尽くす。
その後、数分くらいは経ったていただろうか、急に寒気を感じ、僕は急いで部屋へと戻った。
春になったといっても、まだ夜は涼しいな。……気温だけの問題ではなかったのかもしれないけど。
部屋に戻ってからも、僕はあれこれと考え込んでいた。
伯母さんにもっと細かく訊きたいとは思った。だけど、深く立ち入ってはいけない話なのかもしれない。
伯母さんが嘘をついていると考えるのも怖いけど、星奈さんが嘘をついていると考えることのほうが怖かった。
……そうだ、きっとどちらかが思い違いをしているとか、そういう感じなんだよ。
僕はそれ以上考えないようにして、布団を頭からかぶる。
すぐにでも眠ってしまいたかったけど、頭が冴えてしまったのか、なかなか寝つけなかった。
とはいえ、何度も布団をかけ直したりしながら時間だけが過ぎていくと、夜も更ける頃には、僕はいつの間にか眠りの世界へと落ちていた。