09.4.木陰の三人
グループ学習スペースの白い壁に掛けられたアナログ時計の長針が、真上を指そうとしていた。正午。ブラインドの隙間から滑り込む光の色が、午前中の柔らかい白から、じりじりと焼き付けるような強い黄色へと変わっている。
「……よし。これで全体のステップは、きれいに並んだわね」
結衣がキーボードから指を離し、画面を満足げに眺めた。レポート用紙に書き出された『宝探しの地図』に沿って、ひまりのノートの余白には、新しく組み直される文章の順番を示す番号が、鉛筆の黒い芯できちんと書き込まれていた。
ひまりは、自分の力で最初の山場を乗り越えた達成感からか、大きく伸びをして「ふぅ」と小さな息を漏らした。
「ひまりちゃん、お疲れ様。すごく集中して頑張ったね」
湊が声をかけると、ひまりは「うん!お兄ちゃんとお姉ちゃんが教えてくれたから、なんだか頭の中がすっきりした!」と、ひまわりが咲いたような笑顔を見せた。午前中、閲覧室で涙を流していた姿が嘘のようだった。
「ちょうどお昼ね。少し頭を休めないと、この後の清書でまた文字が躍り出すわよ」
結衣がノートパソコンの画面を閉じ、カバンに収めながら言った。
「そうだね。じゃあ、近くのコンビニで何か買って、お昼にしようか。ひまりちゃん、お腹空いたでしょう?」
「空いた!おにぎり食べたい!」
ひまりは元気よく立ち上がり、「お母さんからね、お金預かってるの」と自分のキャラクターものの小さな財布をポシェットから取り出して見せた。等身大の小学生らしいその仕草に、湊の口元が自然と緩む。湊と結衣もそれぞれ自分の財布を確認し、三人は冷房の海から、再びぎらぎらとした熱気が支配する外の世界へと踏み出した。
図書館から歩いて数分の場所にあるコンビニで、それぞれが思い思いの昼食を選んだ。ひまりは宣言通り鮭のおにぎりを、結衣はレタスとハムのサンドイッチに冷たい緑茶のペットボトルを、湊は和風ツナマヨのおにぎりと、小さな唐揚げのパック、少し塩分の補給を意識してスポーツドリンクを手に入れた。
レジでそれぞれが自分のお小遣いから小銭を出して支払う様子は、どこにでもある、夏休みの年の離れた兄妹のようだった。
「どこで食べようか。図書館のロビーは少し狭いし……」
湊がコンビニの自動扉を出ながら呟くと、結衣が日傘をパッと広げ、その影の中から遮るように言った。
「すぐそこに、言の葉公園があるじゃない。あそこの大きな木陰なら、風も通るし、座る場所もあるわ」
「あ、うん。そうだね……」
言の葉公園、という名前が結衣の口から出た瞬間、湊の心臓がどくりと跳ねた。
それは、数週間前のあの激しい夏祭りの夜の記憶を、一瞬にして呼び覚ますトリガーだった。人混みの中で結衣の身体を支え、はぐれないように歩いたあの夜。そして、この高台にある言の葉公園の展望台から、二人で並んで見上げた、夜空を埋め尽くす大輪の花火。陸が撮影したあの写真の背景にある、息が詰まるほどに鮮やかで、どこか甘酸っぱい体温の記憶。
無意識に結衣の方を見ると、彼女も日傘の柄を握ったまま、視線を斜め下の地面に固定していた。白い頬が、夏の暑さのせいだけではなく、ほんのりと赤く染まっている。お互いに下の名前で呼び合うようになったきっかけの場所へ、こうしてまた二人で、いや、今はひまりも一緒だが、一緒に向かうというのは、言葉にできない気恥ずかしさがあった。
そんな二人の微妙な空気の変化に気づく様子もなく、ひまりは「公園!行こう行こう!」と、アスファルトの上を弾むように歩き出した。
言の葉公園は、昼下がりの熱気の中で静まり返っていた。高台にあるため、街を見下ろす景色は相変わらず素晴らしいが、この日差しの下で遊具に触ろうとする子供はいない。
三人は、公園の中央にある大きなクスノキの木陰へと避難した。広大な枝葉が遮ってくれるおかげで、地面には濃厚な、涼しい影が落ちている。時折、桜ヶ瀬川の方から吹き上げてくる川風が、葉をサラサラと揺らし、火照った肌を優しく撫でていった。
備え付けの木製ベンチに、ひまりを真ん中にして三人で並んで座る。
「いただきまーす!」
ひまりが元気よく手を合わせ、おにぎりのビニールを器用に剥いた。小さな口で、ぱくりとおにぎりに噛み付く。その口元に、鮭の身が少しだけついているのを見て、結衣が苦笑しながらカバンからポケットティッシュを取り出した。
「ほら、ひまりちゃん。慌てて食べると溢れるわよ。お口の横、ついてる」
「あう、ありがとおねえちゃん」
結衣が優しくティッシュで拭ってあげる姿は、部室でのトゲのある姿からは想像もつかないほど、柔らかかった。
湊もおにぎりを口に運びながら、その様子を眺めていた。ゆったりとした、穏やかな時間が流れていく。普段のライティング部の活動では、常に『Writia』の数字や、ターゲットへのデリバリー、ロジックの正確さといった緊張感に追われている。しかし、こうして夏のノイズに包まれながら、コンビニの昼食を三人で食べていると、自分がただの等身大の高校生であることを思い出させてくれる。
「お兄ちゃんの唐揚げ、美味しそう……」
ひまりが、湊の持つパックをじっと見つめていた。
「あはは、一個食べる?」
「いいの!?やったあ!」
ひまりは嬉しそうに、湊が箸でつまんだ唐揚げを口を開けて待った。そのまま放り込んであげると、「もぐもぐ、おいしい!」と、指についた油をぺろりと舐めて笑う。
「ちょっと、湊。甘やかしすぎよ。自分の分は自分で食べさせなさい」
「いいじゃないか、これくらい。ひまりちゃん、午前中あんなに頭使ったんだから、エネルギーが必要なんだよ」
湊が弁解すると、結衣は「ふん、相変わらず締まりがないんだから」と、サンドイッチを小さく口に運びながら、少しだけ呆れたように、でもどこか楽しそうに目を細めた。
クスノキの頭上からは、ミンミンゼミの声が断続的に降ってきていた。その騒がしいはずの声も、この静かな木陰では、心地よいBGMのように空間に溶けている。
「ねえ、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
おにぎりを食べ終え、冷たいお茶をゴクゴクと飲んだひまりが、ふと二人の顔を交互に見つめながら、無邪気な声を上げた。
「なにかしら?」
結衣が緑茶のペットボトルを置きながら問いかける。
「二人のこと、ずっと見てたんだけどね。お兄ちゃんとお姉ちゃんって、お付き合いしてるの?」
「ぶふっ――!?」
湊は、まさにスポーツドリンクを飲み込もうとした瞬間だった。激しくむせて、ゲホゲホと咳き込みながらボトルを押さえる。
「な、なな、何を言っているのよ、ひまりちゃん!?」
結衣の反応は劇的だった。いつも冷静沈着で、どんなときも論理的な言葉を返す彼女が、まるで熱湯を浴びせられたかのように跳び上がり、顔を真っ赤にしてうろたえている。手元のお茶が危うくこぼれそうになり、慌ててそれを机の上に置いた。
「だって、お名前で呼び合ってるし、さっき公園の名前が出たとき、二人ともなんだか顔が赤くなって、もじもじしてたから。前の学校にいた、付き合ってる二人もね、あんな風になるんだよ!」
ひまりは、大発見をした探偵のような目で、嬉しそうに胸を張った。小学生の、一切の悪意のない、純粋で鋭い観察眼。
「それは……その、違うのよ!私はこの、ただのパッとしない同級生の教育係をしているだけであって、下の名前で呼んでいるのは、その、前回の記事の、ペルソナの憑依というか、ハプニングの処理の過程で、不可抗力というか……!」
結衣の口から、見たこともないような支離滅裂な専門用語が早口で飛び出してくる。論理的という彼女の最大の武器は、ひまりの無邪気な一言によって、完全に瓦解していた。
「そうだよ、ひまりちゃん。僕たちは、高校のライティング部っていう部活の同級生で……その、付き合ってるとか、そういうのじゃなくて」
湊も、耳の裏まで真っ赤にしながら、必死に手を振って弁解した。しかし、そうして弁解すればするほど、自分たちの間にある、あの夏祭りの夜の熱量が、嘘ではない事実として胸の中に生々しく蘇ってくる。
結衣のブラウスの袖から、微かに香る石鹸の匂いが、川風に乗って再び湊の鼻腔をくすぐった。隣に座る彼女の体温が、いつもより近くにあるような気がして、湊は慌てて視線を遠くの桜ヶ瀬川の川面へと逃がした。川面は、正午の強い光を反射して、きらきらと眩しく明滅していた。
「ふーん、そうなの?でも、お兄ちゃんとお姉ちゃん、すっごくお似合いだと思うな」
ひまりは、二人の慌てぶりに満足したのか、くすくすと笑いながら、残った唐揚げを口に放り込んだ。
クスノキの大きな木陰の下、真っ赤になった高校生二人と、無邪気に笑う小学生。
桜ヶ瀬の長い夏休みの一日は、正午のチャイムの音と共に、ゆっくりと、しかし確実に、二人の心の境界線を揺らしながら過ぎていこうとしていた。




