07.2.数学(数学Ⅰ・数学A)―条件という名のファクトチェック
期末テスト期間二日目。火曜日放課後の空き教室は、昨日利用した翠明ラウンジとは対照的に、どこか張り詰めた静寂に包まれていた。
西日が差し込む窓際で、四人は、机を四つ向かい合わせに並べていた。ガタついた木製の机の上には、数学Ⅰの教科書と、数字や数式が乱雑に書き殴られたルーズリーフが散乱している。廊下からは、他のクラスの生徒たちが家路を急ぐ声や、遠くで雨樋を伝う水の音がかすかに聞こえていた。
「あーもう、完全に脳みそがオーバーヒートした……。不等式まではギリ耐えたけど、場合の数に入った瞬間、数字がゲシュタルト崩壊してきた」
太陽がシャーペンを放り出し、椅子の背もたれに大きく体重を預けた。部活で鍛え上げられた彼の身体も、高校に入って急激に難化した数学の波には抗いきれず、疲労の色を隠せない。
「ウチも同じ。この『正の整数となる確率を求めよ』とか『ただし、重複を許さないものとする』とか、問題文が長すぎて何を言ってるのか全然頭に入ってこない。適当に公式に当てはめて計算すると、大体いつも数字がズレちゃうんだよね」
凛もまた、自分の長い爪の先で問題集のページをめくりながら、うんざりしたように唇を尖らせた。
二人の横で、結衣は淡々と自分の複素数の問題を解き進めていたが、彼らの嘆きを聞いて視線を上げた。その瞳には、昨日と変わらない冷静な光が宿っている。
「公式を暗記して数字を放り込むだけの作業をしているからよ。問題文をちゃんと読まずに解き始めるなんて、ソースの事実確認を怠ったまま記事を書くのと同じ。そんなの、ただの勘に頼ったギャンブルだわ」
「ギャンブルって……でも、読んでも意味が分からないものは分からねぇ!」
太陽が頭を掻きむしる。そんな二人の様子を、湊は手元のノートを見つめながら静かに窺っていた。
文章を書くことに関しては、自分はいつも結衣に赤入れをされる側だ。特別な才能も中身もない。けれど、数学の、特に与えられた条件を一つずつ整理していく作業に関しては、湊の真面目で几帳面な性格が、不思議と味方をしてくれていた。
「あの……もしよかったら、僕のノートを見てみる?」
湊は少し躊躇しながらも、自分の数学のノートを太陽と凛の方へと差し出した。
「え、湊のノート?」
太陽が身を乗り出し、ノートを受け取る。隣から凛も覗き込んだ。
そこに書かれていたのは、ただの数式の羅列ではなかった。問題文の横に、いくつかの要素が綺麗に色分けされ、整理されていたのだ。
「何これ、めちゃくちゃ見やすい……。問題文がそのまま箇条書きになってる?」
「うん。ライティング部で『5W1H』を学んだじゃない? 誰が、いつ、どこで、何をって、事実関係を正確に把握するやつ。あれをそのまま数学の問題文に応用してみたんだ」
湊は、自分のノートの余白に書かれた文字を指差した。
「数学の問題って、実はすごく厳密な『ファクト』の集まりなんだ。例えばこの問題なら、ただ『整数』って覚えるんじゃなくて、『Who(何が)』に当たるのが『正の整数』なのか『自然数』なのか。『When(どんな条件で)』に当たるのが『重複を許さないとき』なのか『同時に取り出すとき』なのか。そうやって、問題文に隠されている前提条件を5W1Hみたいに切り分けて、ファクトチェックしていくんだよ」
結衣が、湊のノートをじっと見つめ、小さく実直な笑みを浮かべた。
「悪くない着眼点ね。多くの生徒が数学で失点するのは、計算ミスよりも、問題文の条件を読み落とす『ファクトの誤認』が原因よ。書き手が都合のいいように事実を歪めてはいけないように、解き手もまた、問題文に提示された事実を完璧に把握しなければならないわ」
「なるほど……」
凛が湊のノートを自分の手元に引き寄せ、感心したように呟いた。
「ウチ、いつも『異なる二つのサイコロ』ってところを読み飛ばして、同じサイコロとして計算してた。これも一種のファクトチェック漏れってことじゃん」
「そうなんだ。問題文に書かれていることは、すべて文章のルールであり、絶対に動かせない事実なんだよ。だから、解き始める前に、まずはその条件をノートの端に抜き出して、チェックリストを作るんだ。そうすれば、自分が今、どの前提条件に基づいて計算しているのかが迷子にならなくなる」
湊の言葉に、太陽はもう一度シャーペンを握り直した。
「前提条件のチェックリストか……よし、俺も一回やってみる!」
太陽は新しいページを開くと、これまで拒絶反応を示していた複雑な確率の問題文を睨みつけた。そして、湊のやり方を真似て、「①カードは戻さない(重複なし)」「②偶数のみを対象とする」と、条件を一つずつファクトとしてノートに書き出していった。
教室の冷房が、低い音を立てて冷気を送り出している。四人が向かい合うテーブルの上で、シャーペンが紙を削る規則正しい音だけが響き始めた。
「……あれ?条件をこうやって並べるだけで、どの公式を使えばいいのか、勝手に選択肢が絞られてくる気がする」
太陽が驚いたように声を漏らす。
「当然よ。条件という名のファクトを整理すれば、進むべき論理の道筋は一本に決まるわ。ライティングの記事構成と同じね。骨組みが正確なら、あとはそこに数字を当てはめるだけ」
結衣が、太陽のノートを覗き込んで短く言った。
「湊、マジで天才かも。ウチ、この方法ならケアレスミス激減する気がする!」
凛が弾んだ声で笑い、湊の肩をぽんと叩いた。
自分の言葉が、そして自分が工夫したやり方が、誰かの役に立っている。その事実が、湊の胸の奥をじんわりと満たしていく。自分は空っぽな人間だとずっと思っていた。けれど、ライティング部で泥臭く学んできた「事実と向き合う技術」は、いつの間にか自分を支え、仲間を助けるための確かな武器になっていた。
「ありがとう、湊。これで数学もなんとかなりそう!」
太陽が白い歯を見せて笑う。
「ううん、僕も二人に説明することで、頭の中が整理できたから」
湊は照れくささを隠すように、自分の眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
窓の外では、夕暮れのオレンジ色の光が、雲の隙間からかすかに教室へと差し込み始めていた。長く伸びた四人の影が、床の上で静かに重なり合っている。
「じゃあ、数学のファクトチェックはここまでね」
結衣が自分のノートを閉じ、パチンと小気味よい音を立てた。
「明日は英語の対策よ。凛、あなたのテンポのいい言葉選びのセンスを、少しは湊たちに分けてあげなさい」
「任せてよ!ウチの英語のリズム、バッチリ叩き込んであげるから!」
凛がウインクをしてみせると、太陽が「頼むっ!」と応じた。
タイピング音のない空き教室。けれど、そこにある熱量は、部室で一つの記事を作り上げていくあの放課後と、完全に同じだった。一歩ずつ、目の前の一行を正しく埋めていくために、四人は再びそれぞれの教科書へと視線を落とした。




