06.6.受け取られた招待状
翌日の放課後、翠明高校の部室棟は、雨上がりの湿り気を帯びた熱気に包まれていた。
ライティング部の部室の重い扉を開けると、そこには昨日よりもさらに張り詰めた、けれどどこか清々しい空気が漂っている。
湊は自分の席に座り、昨日深夜まで結衣とリライトを繰り返した原稿の最終版を、タブレットの画面に呼び出した。
タイトルは『【保存版】地元民しか知らない、桜ヶ瀬夏祭りを120%楽しむための「3つの招待状」』
「……よし」
湊は小さく呟き、送信ボタンをタップした。データは部内の共有サーバーを経由して、顧問である國分悟の端末へと送られる。
これから始まるのは、この部活で最も緊張する時間。「國分の検印」と呼ばれる最終校閲だ。
「佐倉くん。……手が震えているわよ」
隣の席で、結衣が自身の原稿を整えながら、こちらを見ずに言った。彼女の声はいつも通り毅然としていたが、キーボードを叩く指先に微かな力みが混じっているのを、湊は知っていた。
「あ、いや……。昨日あんなに書き直したのに、いざ出すとなると、まだ『正しい』自信が持てなくて」
「正しさの責任は、國分先生が負ってくださるわ。私たちは、自分たちの『誠実さ』の責任を取ればいいの。……あれだけリライトしたんだから、堂としていなさい」
結衣の言葉に、湊は短く息を吐き出した。
その時、部室の奥にある顧問用デスクで、スリーピースのスーツを完璧に着こなした國分が、ゆっくりと顔を上げた。黒縁眼鏡の奥の鋭い瞳が、モニター越しにこちらを射抜く。
「佐倉くん、瀬戸口さん。……読みましたよ」
國分の低い、重みのある声が部室の静寂を切り裂いた。湊の背筋が、勝手に真っ直ぐに伸びる。
「今回のタイトル、特に佐倉くんのそれは……今までの君の書き方とは一線を画していますね」
國分は手元の赤ペンを置き、一瞬だけ沈黙した。湊は心臓の鼓動が耳元まで響くのを感じる。ボツだろうか。それとも、また「独りよがりだ」と切り捨てられるのだろうか。
「事実関係、5W1Hの網羅、そして何より『読者を動かす意図』。……合格です。このまま『Writia』に公開しましょう」
「……っ!」
湊は、隣の結衣と顔を見合わせた。結衣もまた、驚いたように目を見開き、それから静かに、満足げに微笑んだ。
「ただし」と、國分が言葉を継ぐ。
「言葉には責任が伴うと言ったはずです。この記事を読んで祭りに足を運ぶ人々が、君の書いた『3つの招待状』に嘘がなかったと感じるかどうか。本当の校閲者は、公開された後に現れる読者だということを忘れないでください」
「はい。肝に銘じます、先生」
湊が力強く答えると、國分は満足げに頷き、検印の電子署名を入力した。
それから数分後、Webメディア『Writia』のトップページに、湊の記事が正式に掲載された。
「よっしゃあ!湊、公開おめ!俺も光速でシェアしたぜ!」
いつの間にか背後に忍び寄っていた太陽が、湊の肩を叩いてスマホを突き出す。SNS『Li-NK』の画面では、太陽が投稿した記事のリンクが、すでに数十件の「いいね」を集め始めていた。
「『招待状』ってワード、マジでエモいってコメントついてるぞ。凛の『エモ死』はボツになったけど、結果オーライじゃん?」
「うるさい。……でも、まぁ、クリック数は伸びてるみたい」
凛もガムを噛みながら、自身の管理画面をチェックして小さく頷く。
部室のソファでは、部長の神崎涼香が優雅にティーカップを置き、柔らかな笑みを湊に向けた。
「佐倉くん、あなたのその『空っぽな視線』が、少しずつ色彩を帯びてきたようね。今回のタイトル、とても温かいパスだわ」
「……ありがとうございます、神崎部長」
憧れの部長からの言葉に、湊は胸がいっぱいになる。
さらにそこへ、二年生の早乙女志乃が事務的な足取りで歩み寄り、國分に一枚のプリントアウトを差し出した。
「國分先生。先ほど、桜ヶ瀬夏祭り実行委員会の事務局から、部活宛てにメールが届きました」
「ほう、実行委員会から」
國分がプリントを受け取り、眼鏡をかけ直す。
「『今年の記事は、例年のような報告書形式ではなく、一人の若者の視点で祭りの魅力が語られており、大変感動した。特に、歴史的背景を『招待状』と捉える感性に、保存会のメンバーも喜んでいる。ぜひ、当日の取材もお願いしたい』……とのことです」
部室が、一瞬の静寂のあと、温かな空気に包まれた。
発注元である地域の人々に、言葉が届いた。
ただの情報を並べただけの「下書き」だった文章が、リライトを繰り返すことで、誰かの心を温める本物の「言葉」に変わったのだ。
「……瀬戸口さん。僕、書いてよかった」
湊の呟きに、結衣はふい、と窓の外へ視線を向けた。
夕暮れの桜ヶ瀬川を渡る風が、彼女の黒髪を優しく揺らしている。
「当然の結果よ。……でも、勘違いしないで。これは、昨日のグラウンドでのパス回しと同じ。次の誰かに繋げるための、最初の一歩に過ぎないんだから」
彼女の頬が、夕陽のせいか、それとも別の理由か、ほんのりと赤く染まっているのを湊は見守った。
公開された記事には、次々と新しいコメントや反応が寄せられている。
『地元の祭りだけど、歴史なんて知らなかった。行ってみようかな』
『招待状、受け取りました。当日が楽しみです』
画面の中で点滅する通知の一つひとつが、湊の「空っぽ」だった心に、確かな色を与えていく。
僕の言葉は、今、誰かの世界へ届いている。
六月の放課後。梅雨の晴れ間に吹き抜ける風は、少しだけ夏の匂いがした。
リライトされた物語は、まだ始まったばかり。
湊は、新しい白紙のドキュメントを立ち上げ、力強くキーボードを叩き始めた。




