03.6.四人のグループ通話、リライトの夜
二泊三日の喧騒が、嘘のように遠のいていく。
夕刻、山中湖からの帰りのバスが翠明高校の校門前に到着し、解散が告げられた。湊は柏木と別れ、重いボストンバッグを肩に食い込ませながら、住み慣れた街の景色の中を歩いた。家の玄関を開けると、鼻を突いたのは煮物の匂いと、変わらない家族の生活音。
「おかえり。楽しかった?」
母親のその問いに、「まあ、いろいろあったよ」と短く返し、湊は逃げるように自室へ駆け込んだ。
シャワーを浴びて着替えを済ませ夕食を食べ終えると、心地よい疲労感がずしりと身体にのしかかってきた。ベッドに倒れ込みたい衝動を抑え、湊はデスクの上のタブレットを手に取った。
画面を点灯させると、メッセージアプリの通知が狂ったように跳ねている。
『家着いたけど、マジで足死んでる』――凛
『みんな、生きてるか?俺は今、特盛牛丼食って完全復活したぜ!』――太陽
『……無駄口を叩いている暇があるなら、執筆を開始なさい。今夜中に仕上げるわよ』――結衣
湊は思わず口元を緩め、グループ通話のボタンを押した。スピーカーから、三人の賑やかな声が溢れ出す。
「あ、湊!お疲れ!今、志乃先輩から『5W1Hのチェックリスト』が送られてきて、絶望してるところだぜ」
太陽の明るい声が、静かな部屋に響く。
「ウチも。写真選びすぎて、どれが『What』のメインなのかわかんなくなっちゃったし。アルバム、富士山だらけだし」
「情報の優先順位を決めなさいと言ったでしょう」
結衣の、いつもの凛とした声が割って入る。
「佐倉くん、あなたのノート、少しは見られるようになったのかしら。パノラマ台での『Why』は、見つかった?」
「……うん、なんとかね。今から、それをPREP法に流し込んでみるところだよ」
湊はタブレットのキーボードを展開し、指を滑らせた。
通話の向こう側から、衣擦れの音やキーボードを叩く音、そして太陽がコーラを飲む音が聞こえてくる。一人で部屋にいるはずなのに、隣で仲間たちが一緒に戦っているような、奇妙な感覚。
ふと、湊の指が止まった。
去年の自分を、思い出したからだ。
中学三年の時の修学旅行、あの時も、帰宅した後は今日と同じように疲れ果てていた。けれど、あの時の僕は、カバンを放り出したままベッドに潜り込み、ただ天井を眺めていた。
スマートフォンに流れてくる、誰かが撮った写真に「いいね」を押し、誰かが書いた感想に同調するだけ。
自分自身の中には、何の言葉も残っていなかった。
見たはずの景色も、食べたはずの料理も、誰かの視線を借りた借り物の記憶でしかなかった。
あの日の僕は、本当に「空っぽ」だった。
けれど、今は違う。
湊は、霧に濡れて端がヨレたあのノートを、デスクのライトの下で開いた。
そこには、湊の拙い字で、湊だけの「5W1H」が刻まれている。
ジャージの背中越しに感じた仲間の体温。
霧が晴れた瞬間の、刺すような光の強さ。
それは、世界をただ消費するだけでは決して得られない、僕が自分の手で「固定」した事実だ。
「……ねえ、市川さん、ここの具体例(Example)、もっと詳しく書いたほうがいいかな」
湊が問いかけると、凛が少し考えてから答えた。
「んー、ウチ的には、その時の空気感っていうか、『冷たかった』とか具体的な感覚を一つ入れるだけで、5W1Hの網の目が細かくなる気がするし」
「なるほど……。太陽、レポートはどう? 結論(Point)決まった?」
「おう!『カレーの隠し味は、煙の目に染みる痛さだった』に決めたぜ!」
「……それは結論じゃなくて、ただの感想よ、中野くん。やり直し」
結衣の容赦ないツッコミに、通話越しに笑いが起きる。
湊は、画面に向き直った。
PREP法という「型」があるから、迷わずに済む。
5W1Hという「杭」があるから、感情に流されずに済む。
ライティングという技術は、空っぽだった僕の心に、世界を整理するための「棚」を作ってくれた。
オリエンテーリングのレポート記事。
湊は、結論を打ち込んだ。
『五月の山中湖で、僕たちが見つけたのは絶景ではない。それは、霧の中でも足を止めないための、お互いへの信頼という事実だった』
一文字ずつ、昨日の自分を上書きしていく。
孤独な作業のはずなのに、耳元では仲間たちの呼吸が聞こえる。
やがて、時計の針が日付の変わる直前を指した。
「……よし、とりあえず形にはなったわ。私はもう寝るわよ」
結衣が、少しだけ疲れた、けれど満足げな声で言った。
「俺も!腹減ったし、寝て夢の中でリライトの続きやるわ」
「ウチも限界。スマホ落としそうだし。……じゃ、月曜日ね」
「うん。みんな、お疲れ様。月曜日の放課後、部室で会おう」
湊がそう締めくくると、一人、また一人と通話が切れていく。
最後に残った静寂。
湊は、書き上げたレポートの最終行を確認し、「保存」ボタンを押した。
窓の外には、夜の街が静かに広がっている。
かつての湊にとって、この夜の闇は、自分に何もないことを突きつけてくる空白でしかなかった。
けれど、今の湊にはわかる。
この闇の向こうには、明日書くべき新しい世界が待っている。
5W1Hという杭を打ち込み、PREPという型で形を与えるのを待っている、無限の物語たちが。
湊は電気を消し、ベッドに横たわった。
まぶたの裏には、あの霧の向こうで輝いていた、青い富士山が浮かんでいた。
その光景を、僕はもう二度と忘れない。
なぜなら、僕はそれを、自分の言葉で「リライト」し終えたのだから。




