第1話 羊の国のシーリンは、猫
「十二支と神鼠は猫に「こい」」第Ⅱ章開幕…!
※「第Ⅰ章:人生の 最後のページで 見えるもの」の続きです
「シーリンさん!こちらの帳簿です!」
「納品確認済みです!シーリンさん!」
ここは神羊コルデール州随一の大商家、ジェイコブ・ハードウィック家。
近々、コルデール王宮で開催されるオスカー王就任10周年記念祝賀会のため、最近は特に活気づいている。
**************
「シーリン?シーリン?
ねえ、シーリンがどこにいるか知ってる?」
ジェイコブの娘…もうすぐ、羊族の名家に嫁ぐ17歳のメアリが、誰かに尋ねている。
「シーリンさんなら、あちらの机ですよ。」
しかし、メアリがそこに行くまでもなく、ひょっこりと一人の女性が顔を出した。
「ここよ!」
空色のリボンで一つに束ねた黒い髪、
夕日のようなオレンジの瞳、
知性の溢れる顔立ち…
それは、3年前、神鼠シリウスのもとを自ら去った猫族リヒトだった。
「働き過ぎよ!シーリン!私とお茶をしなさいな?」
「私はこの家の使用人ですから、働くのが…」
「ハイハイ、休むことも仕事のうちよ……ちょっと、シーリン借りていくわよ!」
メアリが、ここではシーリンと呼ばれている、リヒトの腕を取って歩き出す。
「ねえ、祝賀会のドレス、どれがいいか選んで!」
「フフフ…『休むお仕事』じゃなかったの?」
メアリの部屋に入ると、メイドがお茶の準備をしている。
リヒトは、並べられた3着のドレスを見比べて、「そうね…」と真剣に悩み始めた。
メイドが部屋を出たことを確認すると、メアリはリヒトに近寄った。
「ねえ、こっそり聞いちゃったんだけど…
今度の祝賀会に…シリウス大王がいらっしゃるんですって!」
「えっ!?」
その瞬間、リヒトは並べられたドレスの裾につまずいて盛大に転び、3着のドレスに埋もれてしまった。
「シーリンったら、驚き過ぎよ!!!」
メアリは楽しそうに笑うと、ドレスの山から顔だけ出しているリヒトを助け起こし、
メイドを呼んで3着のドレスを別室に片づけさせる。
お茶の並んだ席に座ると、メアリは再び話し始めた。
「分かるわ!!私も、聞いたときはもう、夜も眠れないくらい興奮したもの!!
…でも、このことは、まだ内緒ね!」
「わ、私は、ドレスの裾につまずいただけ…よ…」
リヒトは慌ててカップをとる。
メアリは、夢を見るように小さなマカロンを口に放り込んだ。
「同じクラスのイザベルが、先月の、春の十二支会議の晩餐会に出たの!
その子、オスカー様の親戚で、私と同じ17歳だから…大王様の花嫁候補として連れていかれたのよ。
ああ!私も婚約してなければ…!」
「は、花嫁…候補…」
リヒトは何とかお茶をこぼさずに、カップを置いた。
「もうね、シリウス様、まともに見られないくらい美しい方なんですって!!
噂なんかと比べ物にならないって!
背も高くて、男らしくて…ダンスをしていただいたときは、イザベル、空を舞っているようだったって…」
リヒトは、襟元を握りしめた。
胸が錐で抉られるようで、呼吸も苦しくなってきたのだ。
**************
神羊コルデール州は、神の山ゴテスベルクを中心とした国土の南南西に位置し、
神馬エクウス州の次に、北の首都ディモイゼから離れた州である。
3年前、大神殿を去ったとき、リヒトは、とにかく遠い場所に行こうとした。
自分がその肉を食べた、シリウスを…この国の少年大王シリウスを殺さないと確信できるくらいに、
遠い場所へ。
しかし、エクウス州は故郷。知り合いに会う可能性がある。
もう、知り合いになど会いたくない。
一方、コルデール州は、ディモイゼから離れている上、繊維業が盛んで、仕事も見つけやすく、
羊の群れのように人口が多い。
残りの人生のページを堅実に、静かにめくっていける…そう考えたのだ。
…リヒトは、何日も飲まず食わずで歩き、
ボロ布のような心と体を引きずって、この州に到着した。
そして、名前も素性も隠して職を探し、今は、「シーリン」として、
この館で大番頭ロムニーの補佐として働いている。




