私を捨てて逃げた母は
目の前には、血だらけの剣を手にした厳めしい男が立っていた。
髪は赤毛かと見まごう程血を浴びており、灰色がかった青い瞳は凍っているのかと勘違いしそうなほど冷たい色を湛えている。
断言しよう。
いいことなんて何一つない人生だった。
***
私の名前はステラという。
ラドフォード子爵家の一人娘だ。
そんな私の人生は、この国の王女と時を変わらずして生まれ出でた時に、既に決定づけられていたのかもしれない。
子爵家に嫁いでいた母は、私を生んで間もなく乳母として帝国宮に召し上げられた。
皇帝の命令に逆らえるはずなどない。
なので幼少時の記憶に、母が出てくることは殆どない。
乳母となった母は、日夜帝国宮に詰めており、その顔を見るのは父に連れて行かれた帝国宮で言葉を交わすほんのひと時のことだった。
幼い頃は母恋しさに泣いたこともあるが、長じてからは仕方がなかったのだろうと納得もいった。
子爵夫人であると同時に、私の母は遠縁とはいえ皇室とは縁続きにあたる。
私と同じ翡翠色の瞳は、先祖帰りらしく本来なら皇家に受け継がれているものだ。
皇帝から見れば、権力の証ともいえるその目を持つ母を、他の高位貴族に仕えさせるわけにはいかなかったのだろう。
そう。今になればわかる。仕方がなかったのだと。
家を空ける母の代わりに父が愛人を連れ込もうとも、その愛人によって虐げられひたすら孤独な幼少期を過ごしたことも、全ては仕方がなかったのだ。
大切なものを壊され泣き明かした夜も、雨の中家を閉め出されて肺炎で死にかけたことも、全ては仕方がなかったのだ。
父譲りの黒髪を誤って切り落とされたのも、一度や二度ではない。髪が生えそろうまでという理由で、社交界にもほとんど出ることができなかった。
だがともかくとして、そうした危機に何度も直面した私は貴族の中でも特に用心深く疑り深い人間に成長した。
誰のことも信用してはいけない。
人間は平気で嘘をつく。
信用して後から傷つくぐらいなら、最初から誰も信じない方が気が楽なのだ。
そうして十八年が過ぎ、私は適齢期となった。
とはいえ、ほとんど顔も会わせない母が私の結婚の面倒など見てくれるはずがない。
愛人にうつつを抜かしているとはいえ、父にとって娘の私は結婚によって家を繁栄させるための手駒である。まさか忘れているとは思わないが、適齢期と言える今でさえ婚約者がいないとなると、それも怪しくなってくる。
同世代の貴族男性は既に結婚しているか、幼い頃からの婚約者が傍にいるはずだからだ。
「こうなると、年上の方の後妻が現実的かしら」
将来のことを考えていて、思わずため息交じりの声が漏れる。
年上の方というのはかなり控えめな表現で、例えば妻を見送った老人だとか、評判が悪く嫁の来手がない貴族など、思いつくのはどれもあまりいいとはいえない選択肢だ。
ただ唯一救いがあるとすれば、それは結婚さえすればこの家を出られるということだろう。
名字も婚家のものとなり、私の所有権は父から夫へと移る。
そうなれば、父の愛人に虐げられるこの息苦しい日々も終わるのだ。
そう考えると貴族特有の愛のない結婚も、悪くないものだと思える。
だがそうして日々をやり過ごしていた私の元に、ある日帝国宮からの使者がやってきた。
***
千年の歴史を誇るヒストニア帝国。
かつて栄華を誇った大国も、今となっては領地を削られ斜陽の巨人だ。
だが歳月によって培われた技術が惜しみなく使われた白亜の帝国宮は、その美しさから見る者にため息をつかせる。
特に夕日に照らされて黄金に染まる様は、あの場所が母を奪ったのだという憎悪すら一瞬忘れさせてしまう。
私を呼び出す書状を携えていたのは、皇女の暮す白薔薇宮に仕える騎士だった。
そして手渡された書状には、見ることも稀な母のサインが走り書きされていた。
挨拶も用件も書かれていない、ただ呼び出すだけの簡素な手紙だ。
――母らしくないな。
私はそんな感想を抱いた。
礼儀作法に厳しい母は、家族に対してすら回りくどい貴族の言い回しを用いて手紙を書く人だったから。
その上手紙を届けた使者と共に白薔薇宮に上がるようにという指示もまた、私を戸惑わせた。
いくら皇族であろうが、このような突然の呼び出しはそうあることではない。まして私は子爵令嬢で、母が皇女の乳母であったとて、そう簡単に帝国宮に上がれる身分ではないのだ。
そういうわけで、私はひしひしと非常事態であることを感じていた。
使者が待つ中手早く支度をして、最低限の化粧で馬車に乗り込む。
飾り立てることが貴族令嬢の武装であるとするなら、今の私は鎧も身に着けず戦場に駆り出されているようなものだ。
こんな格好で登城するなんて、よほど貧しいのねと笑われても仕方ない。
そんなことを考えながら、使者に導かれるまま帝国宮の奥にある白薔薇宮へと向かう。
騎士のまっすぐに伸びた背を見ていると、そういえば騎士が下働きのように使者に甘んじていることも妙だなと思えた。
上位貴族ならばまだしも、私のようなものを呼び出すのに騎士を使うのは明らかにやりすぎだ。
今までこんなことは一度もなかったのに、一体は母はどういうつもりなのだろう。
どれくらい歩いたのか。
足に鈍い疲れを覚え始めた頃、いくつかの回廊を経由してようやく白薔薇宮にたどり着いた。
帝国宮内でそれほど大きい建物ではないものの、何代か前の皇帝が愛妾のために建てさせた宮殿は、薔薇の蔦が絡まる瀟洒な建物だ。
いよいよだと思いつつ、私は騎士に続いて中に入った。
宮殿の中は、意外と静かだ。
行きかう使用人の数も少なく、なんとも寂しい風情だ。
そんな中、ひときわ大きな扉の前でようやく騎士が立ち止まる。
彼は切れのいい動きでこちらを振り返ると、伏し目がちに言った。
「セニア様を呼んでまいりますので、少々お待ちを」
セニアというのは、私の母の名前だ。
私は虚を突かれた。
応接室にすら通されず、この扉の前で待っていろと言われているのだと、理解するのに少しの時間が必要だった。
立ち尽くす私を置いて、騎士はさっさと扉の中に入ってしまう。
部屋の中が見えないようにするためか、必要最低限にしか扉を開かないで中に入ったのも何か妙だ。
それからしばらくその場に立ち尽くしていると、目の前の扉から慌てた様子で痩せた女が飛び出してきた。
母だ。
前に見た時よりも、随分痩せた気がする。
目の下には隈が浮いているし、その顔は皺が寄って引きつっている。
「お母……様?」
反射的に問いかけると、目の前の私を見た母は、追い詰められた顔に引きつった笑みを浮かべた。
「ああ、ステラ。よく来てくれました」
その声からは、安堵と薄っぺらい親しみのようなものが感じられた。
今まで一度も、こんな言葉を掛けられたことなどない。なので嬉しいよりも、一体何事だという驚きの方が勝った。
そんな私の戸惑いなど構わず、母は私の背を押して今出た扉とは違う扉を開け、その中に私を押しこんだ。
「お母様?」
訳が分からず問いかけるが、母は私の問いに答えるつもりはないようだ。
扉の中には沢山のドレスがかけられていた。
おそらく皇女の衣裳部屋だろう。
どのドレスも屋敷一軒建ちそうなほど豪華なものだ。
母は慌ただしくそのドレスの海に飛び込むと、あれでもないこれでもないと品定めをしていく。
そして呆気に取られてその様子を見守る私に、先ほどとは打って変わって乱暴な言葉を投げる。
「なにをぼうっとしているの! 早くその服を脱いで」
ますますもって、訳が分からない。
「お母様、一体どういうことですか? 皇女様の宮殿でドレスを脱ぐなんて……」
「早く脱いで、このドレスを着るのです」
そう言って、母は沢山のドレスの中からサイズの調整が利きそうなデザインのものを選び出し、私に向かって突き出した。
だがいくら何でもこの言葉には従えない。
「そんな、これは皇女様のドレスですよね? それを私が着るなど不敬になってしまいます」
下手をすれば処罰されかねない。
皇女に対する不敬に人一倍敏感な母とは思えない暴挙だ。
しかし私の反論など見越していたかのように、母は冷めた口調で言った。
「許可は頂いております。いいから早くしなさい! 時間がないのです」
母がそう言い終わるか終わらないかの内に、遠くでドォオンという大きな音が響いた。
夕刻の鐘とは違うくぐもった音だ。一体何事かと、思わず後ろを振り返る。
「早くなさい!」
焦ったような母に怒鳴りつけられ、私は戸惑いつつもドレスを脱ぎ始める。
こうなってくると、一人で脱ぎ着できるデイドレスで来たのは正解だったかもしれない。
もっとも、社交界に無縁なので贅沢なイブニングドレスなど持っていないのだが。
私がそうしている間、母は落ち着かない様子で何度も扉の外を覗き見ていた。
落ち着いて周囲の様子が分かるようになってくると、隣室からなにやらガタゴトと荷物を運び出すような騒がしい音がしていることに気が付いた。
隣の部屋といえば、先ほど母が出てきた大きな扉に繋がる部屋があるはずだ。
ドレスを身に着けると、母が速足で私に近づいてきた。
姫のドレスには、ボタンなどついていない。体にフィットさせるために仕上げとして背中の布を縫い付けるのだ。
母は慣れた調子でドレスの背中を塞ぐと、私を鏡台の前の椅子に無理やり座らせた。そして涎掛けのように布のカバーをかぶせ、見たこともないような透明なガラスに入った化粧品を私の顔に塗りたくっていく。
最高級のものであることは疑いようもない。そもそもこんなに透明で不純物のないガラスなど、初めて見た。容器ですらそうなのだ。中に入っているのがただの水や粉であるはずがないではないか。
またしても困惑するが、母の質問を許さないような鋭い表情に、口を開くことすら億劫になる。
そもそも共に過ごした時間すらほとんどない。私と母は血がつながっているだけで、ほとんど他人のような間柄なのだ。
「これでいいわ」
最後に口紅を差して満足したのか、母はカバーを取って私を立ち上がらせた。
鏡を見ていたが、美しくするためというより目鼻立ちをくっきりさせるための、やけに濃い化粧だった。
途中なんて粉を叩かれすぎて思わず咳き込んでしまったほどだ。金髪をより淡く見せるため髪に小麦粉を叩くというのは聞いていたが、黒髪の私の髪にそれをしても灰色のみすぼらしい髪になるだけだと思うのだが。
それから母は適当な宝飾品を私につけさせると、これまたひどく高価そうな繊細なレースのベールをかぶせる。
全身どれをとっても、おそらくは皇女の持ち物だ。
今この瞬間を誰かに見咎められようものなら、厳罰に処されてもおかしくない。
それをどういうつもりで母は私に施しているのだろう。
母は私の出来栄えに満足したのか、私の手を引いて部屋を出た。
いや、手を引いてなんて生ぬるいものではない。手首を握る母の手には痕が残りそうなほど強い力が込められていたのだから。
私はその痛みを堪えつつ、されるがまま隣の部屋に入る。
先ほどは騒がしい物音がしていたが、気が付くとその部屋の中は音もなく静かだった。
狭い部屋だ。おそらく侍女が取次のために用いる小部屋だろう。つまりこの小部屋は、侍女が仕える高貴なお方の私室に繋がっているということだ。
私は母に手を引かれるまま、その小部屋を通り過ぎた。
そして部屋の反対側にある扉が母の手で開かれる。
その先には想像通り、寝室と思われる広い部屋が広がっていた。
想像と違っていたのは、絢爛豪華であるはずの皇女の寝室から調度品が持ち出され、がらんとしていたことだ。
さすがに天蓋付きの大きなベッドは残されているものの、他にあるはずの家具や小物は一切が持ち去られている。
そして部屋の真ん中には、見覚えのない黒髪の女が私の脱いだドレスを着て立っていた。
「姫様」
女に向かって、母が呼びかける。
ここまでくると、流石に母の意図を察せざるを得ない。
振り返った女は、美しい顔に私と同じ色の目を持っていた。
皇室の証明ともいうべき、翡翠の瞳を。
「ああ、セニア」
女はよろけるように母にしなだれかかる。
母は私の手を離すと、優しい手つきで皇女を抱きとめた。
「何も案ずることはありません。姫様にはセニアがついております」
気遣うように女の方を撫でながら、母は言う。
それは今までに聞いたことがないほど優しい声音だった。
「でも……うまくいくかしら?」
そう言って皇女はちらりと私に目をやる。
目の色こそおなじでも、他にはちっとも似たところなどない。
なにせ化粧を施して豪奢なドレスを着ていても、先ほど鏡で見た自分より目の前の姫の方が何倍も魅力的に見えた。
皇女に倣って、母もベール越しに私を見る。
「うまくいかせるのです。幸い娘は姫と同じ翡翠の目をしております。いくばくかの時間は稼げるかと」
ああ。
先ほどから震えが止まらない。
空っぽの部屋。金髪を黒く染め私のドレスを着た皇女。
一方でベールをかぶせられ、ドレスを脱げないよう背中に縫い付けられた私。
先ほどから何度も、遠くで騒がしい声がしている。
その中に時折怒号や悲鳴が混じるようになってきた。
まだ遠いが、その声がここまでやってくるのもそう先の事ではないのだろう。
母はそんな私に構わず、皇女の肩を抱いて足早に部屋を出ようとする。
取り残された私など、気にならないとでも言うように。
そして部屋を出る瞬間、立ち尽くす私にこう言った。
「できるだけ時間を稼ぐのですよ……」
その言葉が、母と交わした最後の言葉となった。
***
目の前に、冷たい目をした男が立っている。
鎧を血に染めた大男だ。
白銀のはずの髪は返り血で濡れている。
初めて会うはずだが、その身体的特徴から私は男の正体に見当がついていた。
先の皇帝の孫。
先の皇太子の息子であるにもかかわらず、父が毒殺されたために辺境の地に封じられた飼い殺しの狼ともあだ名される男だ。
その名もアレクシス・メルウィ・ルー・ヒストニア。
大柄だとは聞いていたが、まさかこんなに大きいとは思わなかった。
その手には使い込まれた大剣が握られている。
あれを振り下ろされたら、私などひとたまりもない。
だが、だからと言ってどうしようもない。
ここで私は皇女ではないと言ったところで、誰がそれを信じるというのか。
社交界に出ない私の顔を知っているのは、父と愛人くらいだ。
そしておそらく、彼らも今頃宮殿の騒ぎに気付き、逃げるなり立てこもるなりしている頃だ。
危険を冒して宮殿になど来るはずがない。来る理由もない。
なにより、最後に母の発した言葉がまるで呪いのように私の体を縛っていた。
できるだけ時間を稼げという言葉。
私は捨て石にされたのだ。同じ色の目を持つ皇女の身代わりとして。
その行動が何より雄弁に、母にとっての自分がどれほど不必要な存在であったかを教えてくれる。
別れの間際、母は涙ひとつこぼさなかった。ただただ傍にいる皇女の心配をしていた。
実の娘である私の事など、こんなこともなければ忘れていたに違いない。
誰も惜しむことのない命だ。
目の前の男に抵抗する気も起きない。
抵抗すれば時間稼ぎになってしまう。それよりも素早く殺されて、皇女に追手を出してもらうのだ。
私は震える体でその場に留まり、せめて母の最期の言葉に抗おうとした。
それが私にできる精一杯の意趣返しだった。
ヒュンという音がして、大剣が信じられない速さで私の頭上からベールを吹き飛ばす。
思わず死んだかと目をつぶったのに、私の意識はまだ継続していた。
「……皇女の髪の色は金色だったと思ったが」
それは呟きだったのか、問いかけだったのか。
返事をしようかと思ったのだが、震えで歯がカチカチと鳴るだけだった。
でも、震えるだけで死んでいくのはいかにも惨めで、私は最後の気力を振り絞って笑った。
きっと歪に口元が歪んだだけだろうが、それでも。
「なぜ笑う?」
どうやら笑っていることが伝わったようだ。
以外に冷静なのだなと、私は不思議に思う。これほど返り血を浴びていれば、血に酔っていてもおかしくないだろうにと。
「わ、笑って死にたいのです」
どうにかそう言葉にできた。
おそらく次の皇帝になるであろうこの人が、私の最後の笑顔を覚えていてくれると思うと悪くない。
「……なるほど」
男は少し考えた後、私に近づいてきた。
いよいよだと思い体を固くしていると、私の手首をひいて立ち上がらせる。
そしてじっくりと私の目を覗き込んだ。
皇室由来の翡翠の瞳。
こんな色などなければと、何度思ったことか。
「いいだろう」
呆気にとられる私を前に、男は口元をゆがめて笑った。
そして片手に抜身の剣を持ったまま、私の手を引いて部屋を出る。
外に出ると、あちこちから火の手が上がっていた。
逃げ惑う文官が目の前で追ってきた兵士によって切り殺される。
この宮殿にはもはや安住の地などどこにもないのだ。
そのまま男は、私を引っ張ってどこかへ行こうとしていた。
「どこへ行くつもりですか?」
思わず尋ねると、男は言った。
「お前にはまだ利用価値がある」
***
窓際のベンチに腰掛けて微睡んでいると、膝の上に重いものが飛び込んできた。
何かと見れば、それは人間の頭だった。
驚くほど整った顔をした、自らの叔父を屠った狼。
今は新たな皇帝として、帝国の指揮を執るアレクシス・メルウィ・ルー・ヒストニアその人だ。
あの日彼は、皇女の身代わりとして残された私を連れ出しこう言った。
お前には皇室の血を引く姫として妃になってもらう―――と。
皇室の血とはいっても、ただ先祖返りで翡翠の目をしているだけで、傍系も傍系だ。
だが男にとってそんなことはどうでもよかったらしい。
王太子であった彼の父が殺された後、帝位が彼の叔父に移ったのはこの翡翠の目も関係していた。
前述のようにアレクシスは、直系であるにもかかわらず灰色がかった青い目をしている。
なので彼がいくら優秀だろうが、皇室の血統に拘る人々は翡翠の目がないことを理由に彼の即位を拒否したのだ。
更に、彼の叔父は仕返しを恐れてアレクシスを辺境の地へと送った。
あの日手勢を引き連れて帝国宮を急襲したアレクシスは、己の皇族としての正統性を主張するため皇女を娶るつもりだったのだそうだ。
少なくともそうすれば、皇室に皇女の持つ翡翠の目が受け継がれ、うるさ方を黙らせることができる。
血が近すぎるからと部下には反対されていたらしいが、皇女娶ることで多くの貴族を説得できるものなら安いと考えていたらしい。
元々先代皇帝の評判は良くなかった。ただでさえ斜陽の帝国が、先代皇帝の散財のせいで歴史を閉じかけていた。
それを武力で奪い取ったアレクシスは、送られた辺境の地で国境を侵す異民族を打ち破り、平民たちには英雄と呼ばれていた。
放蕩の皇帝を英雄が打ち破ったのだ。皇都の民は狂喜した。
民衆の支持を勝ち取った彼は、更に皇女を娶って貴族を納得させる計画だった。
ところが彼が白薔薇宮にたどり着く前に、皇女は逃げていた。同じく翡翠の目を持つ私を身代わりとして。
結果として彼は、翡翠の目さえあれば同じだと私の事を妃とした。
もっとも今は子爵家の娘ではなく、遠方の国に嫁いだ皇室の姫の孫ということになっている。
そうして弑逆という血なまぐさい一夜を超え、英雄と呼ばれる皇帝と翡翠の目を持つ皇妃は驚くほど好意的に迎え入れられた。
まるでずっと夢の中にいるみたいだ。
膝に置かれた綺麗な顔を見下ろしながら、ぼんやりと思う。
ふとアレクシスが目を開ける。
青にも灰色にも見える冷たい瞳が、私を見上げる。
「そう言えば、お前にいい知らせがある」
男は手を伸ばして私の頬を撫でつつ、獣のように獰猛に笑って言った。
「国境のセイリス川を渡ろうとした盗賊団を捕縛した」
「盗賊?」
それがどういい知らせに繋がるのかと、私は不思議に思った。
「盗賊団は皇室の宝と思われる金品を多数所持しており、自分は皇女とその一行だと騒いだらしい」
冷たいアレクシスの目が、私を探るようにじっとこちらを見ていた。
「その、一行は……?」
「皇室の宝は押収した。盗賊団はその場で始末して川に流した。今頃は魚の餌にもでもなっているだろうさ」
「そうですか」
自分でも驚くほど、何の感情も沸いてこなかった。
本当にただの盗賊が捕まって、そして死んでいったのだろう。
女性のいる盗賊なんて珍しいというだけの話だ。
「それはようございましたね」
微笑みかけると、アレクシスは獣じみた笑みを収めて静かに笑った。
「俺はお前のそういうところが気に入っている」
「ありがとうございます」
この獣じみた男が、私の前でだけは少し穏やかに笑う。
口にしたことはないが、私も彼のそういうところを気に入っていた。
感想や評価、リアクションをくださった皆さんありがとうございます
久々に短編を書いたのですが、反応の大きさに驚いております