第6話 — 前編「大地の涙」
「この畑では、泣くのは人間だけじゃない。」
ぬかるみに沈む足音が、旅の公式BGMになっていた。 そして、道が畑に変わるのに、そう時間はかからなかった。
最初は、ぽつぽつと茂み。 次に、傾いた木の柵。 そして──畑。
玉ねぎ。 たくさんの、玉ねぎ。 だが、普通の玉ねぎではない。
背の低い植物。 ねじれた葉。 土に埋まった白い球体が、ぷるぷる震えている。 そう、震えていた。 中には、鼻をすするやつもいれば、しゃくりあげるやつもいた。 そして──明らかに泣いているやつも。
畑の端に、男がひとり。 立ち尽くしていた。 何も見ていない目で、虚空を見つめながら。 人生の選択肢すべてを後悔しているような顔。
ぼさぼさの髭。 麦わら帽子。 「もうどうでもいい」と言わんばかりの服。 腕を組み、敗北した戦士のような目。 ──玉ねぎに、負けた男の目だった。
カエルは濡れたマントを肩にかけ直し、近づいた。
「えっと……こんにちは」 首の後ろをかきながら、声をかける。 「泣き玉ねぎの依頼を出した農家さんを探してて……」
男はゆっくりと振り向いた。 目は真っ赤。 泣きすぎた証拠だった。
「……俺だ」 七つの人生を背負ったような溜息とともに、そう答えた。 「ケボルだ」
鞘の中から、サロンと金属音が鳴る。
「よし。少なくとも話は早い。レタスに尋問する羽目にならなくて済んだな」
ケボルは無言で、震える手を畑の方へ向けた。
「……俺は……頑張ったんだ。ほんとに……でも、あいつら……」 彼の声が震える。 「芝居をするんだ。泣き出すんだ。頼んでくるんだ……『夢がある』って……『玉ねぎになりたくない』って……『ダンサーになりたい』とか、『詩人になりたい』とか……」 目をこすりながら、すすり泣く。 「そしたら……俺も泣いちまって……もう無理なんだよ……無理なんだ……」
カエルは目を見開いた。
「……冗談だろ」
カエルが呟いた。
鞘の中で、サロンと金属音が鳴る。
「これは呪いよりタチが悪い。農業テロだぞ、これ」
ケボルは袖で鼻を拭き、深く息を吸い込んで、少しだけ姿勢を整えた。
「……任務で来たんだよな?」
カエルは頷いた。
「うん。で……ああ……」 また首の後ろをかく。 「タルガ婆さんがさ、もし可能なら、泣き玉ねぎを何個か分けてほしいって」
ケボルが顔を上げた。 その目が、一瞬だけ光を取り戻す。
「タルガ……? あの頑固婆さん、まだ生きてたのか」 苦笑いとも、懐かしさともつかない笑みを浮かべる。 「ったく、あの魔女め……サラマンダー酒の一本、三十年前から借りっぱなしだぞ……」
指を折って数えながら、ぼそっと言った。
サロン。
「なるほど。じゃあ、同じ時代の害悪ってわけか。納得した」
「今でも客に悪態ついて、情報を売ってるのか?」 ケボルが笑いながら尋ねる。
カエルは肩をすくめて、苦笑い。
「たぶん、前よりひどい。最近は、話の途中で咳も混ざる」
「ははっ!」 ケボルは太ももを叩いた。 「あの婆さん、ほんと変わらねぇな。よしよし、あいつのためなら、何個か分けてやるよ」 もう一度鼻をすすりながら、続けた。 「……ただし、あんたらが収穫できたらの話だけどな」
サロン。
「うんうん。泣き玉ねぎを倒す……これが俺たち冒険者としてのキャリアの頂点か。感動だな」
ケボルは深く息を吐き、数歩後ろに下がると、泥だらけのズボンで手を拭き、畑を指さした。
「……全部そこにある。収穫できたら……幸運を祈るよ」
ケボルがそう言い残し、静かに後ろへ下がった。
カエルは深く、深く息を吸った。 目の前の畑を見つめる。 そこに広がるのは──こちらを見返してくるような、玉ねぎたち。
「……よし。行くか」
鞘の中で、サロンと金属音が鳴る。 サラサラと震えるような音。
「もし一個でも『剣さま』とか呼んできたら……俺、近くの鍛冶場に飛び込むからな」
カエルはため息をついた。
「俺もだ。ほんとに」
そして、畑へと──一歩、足を踏み入れた。
まだ二十、三十メートルは離れている。 それでも、もう聞こえてきた。
音が。
風でもない。鳥でもない。
──泣き声だった。
「……これ、マジで起きてるのか?」 カエルは目を細めながら、現実を疑うように呟いた。
鞘の中から、カン、と乾いた音。
「マジだな。そして、これ一回聞いたら……もう二度と耳から消せないやつだ」
近づくにつれて、音はどんどん大きくなる。 もはや、ほぼ騒音。 いや、合唱だった。 玉ねぎたちの──悲鳴の合唱。
「やだぁぁぁ……抜かないでぇぇ……まだ赤ちゃんなのにぃぃ……!」
「うちには芽が三つもあるのよ!育てなきゃいけないのよぉぉ!」
「お願いぃぃ……私、観賞用になりたかっただけなのぉぉぉ!」
カエルは顔を覆った。
「……これは現実じゃない。現実なわけがない」
鞘の中で、ガリッと音が鳴る。 サロンと震えるような金属音。
「これ……これはもう犯罪だろ。 精神に対する……いや、存在そのものに対する犯罪だ」
一番近い端から始めることにした。 慎重に。 まるで、正体不明の猛獣が入った檻に近づくように、一歩ずつ。
カエルはしゃがみ込んだ。 目の前には──大きくて、まるまると太った玉ねぎ。 ぶるぶる震えていて、皮の表面には小さな目がきらきらと光っていた。 そして、彼の存在に気づいた瞬間──
「ひぃぃぃっ!た、助けてぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」 まるで今まさに殺されているかのような叫び声だった。 「わ、わたし何もしてないのにっ!お願い、神様ぁぁぁ!!」
カエルは飛びのいた。 尻もちをつきかけながら、胸を押さえる。
「な、なんだこれ……想像以上にヤバいぞ……」
鞘の中から、カン、と乾いた音。
「さっさと抜け。野菜の弁護士が来る前にな」
だが、玉ねぎは止まらない。
「ぜ、喘息持ちなんですっ!煮られたら死んじゃうぅぅぅ!!」 咳き込みながら、土の中でじたばた暴れる。 「それに……妊娠してるのっ!!」
カエルは茎をつかんだまま、目を見開いた。
「はっ……?」
「三つ子なのよっ!三つの芽があるのっ!残されたら孤児よっ!!」
「切れ、カエル。どうせハッタリだ。子宮なんてない、玉ねぎだぞ」
カエルは力を込めて──ぐっ、と引き抜く。
──スポンッ!
玉ねぎは土から抜けた。 まだ震えていた。しゃくりあげながら。
「ひ、ひどいぃぃぃ……モンスター……っ!!」
カエルはそれを袋に放り込み、深く息を吐いた。 すでに冷や汗が背中を伝っていた。
「……よし、一個目。次いこう」
歩き出す。 次の玉ねぎは──一見、落ち着いているように見えた。 カエルがしゃがむまでは。
目を開ける。 もう片方も開ける。 そして、細く、甘ったるい声で囁いた。
「……あなた、こんなことする人じゃないでしょ……? 見てよ、その顔……イケメンで、強くて、勇敢で…… ヒーローって感じ…… そんな人が……家族を引き裂くなんて、しないよね……?」
カエルはまばたきをした。
「い、今……口説かれてる……?」
サロン。
「おい兄弟。玉ねぎの色仕掛けに引っかかったら、俺は道に寝転んで馬車に轢かれるからな」
「こっちに来て、イケメンさん……その剣、捨てて……わたしを……このままにして……」 玉ねぎはまたウィンクした。 「あなたのサラダになれる……丸ごとでも、スライスでも……」
カエルは手を伸ばした。 震える指で、茎をつかむ──
「やめてぇぇぇっ!!ウソだったの!!大っ嫌いよぉぉぉ!!」
突然、玉ねぎが泣き叫び始めた。
カエルは一気に引き抜く。
──スポッ!
玉ねぎは土から抜け、しゃくりあげながら袋に放り込まれた。
「……二個目。よし、次、次、次……!」
歩き出す。 少し先に、眠っているような玉ねぎがあった。
カエルはそっと近づき、茎に手をかける。
その瞬間──ぱちっ、と目が開いた。
「見えなければ……見られてないっ!!」
葉っぱで自分の顔を隠しながら、ぶるぶる震える。
「透明化っ!私は今、透明なんだからっ!!」
サロン。
「有機的に完璧。潰すのが惜しいレベルの天才だな」
カエルは無言で引き抜く。
──スポッ!
「三個目」
次の玉ねぎは、静かだった。 ただ、すすり泣きながら、虚空を見つめていた。
カエルがしゃがむと、ゆっくりとこちらを見て、ぽつりと呟いた。
「……もう連れてって……この残酷な世界には、もう耐えられない…… 私は、生まれながらにして不幸だったの……」 鼻をすすりながら、続ける。 「せめて……せめて、ちゃんとした……スープになりたかった……」
カエルはまばたきした。
「……なんか、深いな」
サロン、皮肉たっぷりに。
「そうだな。ちょっと丁寧に煮込みたくなる。……いや、やっぱりならない」
──スポッ! 袋へ、ぽい。
少し先に、ひときわ太った玉ねぎがいた。 そして──明らかに、態度がデカい。
「おっと、ストップ。そこの三流冒険者、近寄らないでくれる?」 「……あんた、私が誰だか分かってるの?この畑で一番の玉ねぎよ? “年間最優秀オニオン賞”三年連続受賞者。私を抜くなんて、グルメへの冒涜よ」
カエルは腕を組んだ。
「……で、抜いたらどうなる?」
「ギルドのレビュー、星一つ減るわよ? “野菜の扱いが雑”って噂されて、依頼も減って──」
──スポッ!
袋へ、ぽい。
サロンが一言。
「口は達者だったが、命は短かったな」
二人は息を整えた。 汗だく。神経もすり減っている。 畑はまだ、植物精神病棟のようにざわついていた。 すすり泣き、叫び、嘆き、そして芝居。
だが──すでに五つ。 あと数個……勇気があれば、いけるかもしれない。
カエルはサロンを見た。
「……これ、人生で一番ひどい日かもしれない」
額の汗──いや、もしかしたら涙かもしれない──を拭いながら、深く息を吸う。 その瞬間、視界の端で何かがバタバタと動いた。
また一つ、玉ねぎ。 葉を必死に振り回し、まるで飛ぼうとしているかのように。
「やだやだやだっ!!夢があったのにっ!! わ、わたし……なりたかったの……」
震える声。 ぎゅっと閉じた目。 全身で訴えるドラマ。
「……バレリーナにっ!!」
「……は?」 カエルは思わず立ち止まった。
玉ねぎは葉をくるりと回し、茎に引っかかって転がった。 そのまま、しゃくりあげながら横たわる。
「毎日、ピルエットの練習してたのに…… なのに……生まれた場所が……違ったのよぉ……!」
サロン、即座に突っ込む。
「おめでとう。今度は存在意義に悩む玉ねぎだ」
カエルは顔を覆い、膝をつき、そっと茎をつかんだ。
「……ごめん。本当に、ごめん」
カエルがそう呟いた瞬間──
「やだぁぁぁっ!!わたしじゃないっ!! 隣のスミカにしてっ!!あの子のほうがずっと辛口よぉぉ!!」
サロン、毒気たっぷりに。
「スミカは苦手だ。お前でいい」
カエルは引き抜いた。
──スポッ!
袋に入れる前、一瞬だけ手が止まった。 喉の奥が詰まるような、そんな感覚。
「……あの子、ただ踊りたかっただけなのにな……」
サロンが金属音を鳴らしながら、皮肉たっぷりに返す。
「今ごろ、フライパンの上で踊ってるさ。 人生ってのは、そういうもんだ」
歩き出す。 そして──次の玉ねぎは、明らかに年季が入っていた。
葉は黄ばんで、皮はしわしわ。 目は小さく、声はかすれていた。
「はぁぁ……また来たのかい…… 最近の若いもんは、すぐ引っこ抜こうとする…… 昔はね、土の中で自然に枯れるまで待ったもんさ…… 今はもう、せっかちで、乱暴で……」 弱々しく咳き込む。
カエルはサロンを見た。 目を見開き、動揺を隠せない。
「……年寄りだよ。これ、もう犯罪じゃん……」
サロン、冷たく一言。
「そうだな。これはもう、植物界の高齢者虐待だ。 さあ、やれ」
「やめておくれ……お願いだから…… ああっ、坐骨神経が……いたた……」
葉っぱを腰に当てながら、苦しそうに呻く。
カエルはそっと茎を握った。 その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「……ごめんなさい、おばあちゃん……」
「分かってたよ……こうなるって…… うちの孫たちに伝えておくれ…… あんたたちは……モンスターだよ……モンスター……」
最後の咳とともに──
──スポッ!
袋へ、ぽい。
カエルは深く息を吐いた。 目は赤く、声も出ない。
サロンも、しばらく沈黙していた。 そして、鞘がわずかに揺れた。
「……あれは……キツかったな。認めるよ」
「……まだ、いくつか残っていた。 ──たぶん、最悪のやつらが。」
ここまで読んでくれて、ありがとうございます。
はい、読んだ通りです。泣く玉ねぎ、誘惑する玉ねぎ、嘘をつく玉ねぎ、哲学する玉ねぎ。 そして、はい。自分でも「どうしてこうなった?」って思ってます。
ただの簡単な依頼のはずが、気づけば感情と植物のトラウマ収穫祭に。
笑ってくれたなら嬉しいです。 もし泣いたなら……カエルにちょっと共感しすぎかもしれません。
後編もすぐ始まります。 畑は、まだ彼らを許していません。