第14話 — 影と馬鹿のはじまり
カエルは、誘拐犯に拒絶された。
剣は笑った。世界は答えなかった。太陽は、まるで個人的な怒りを燃やすように照りつけた。
二人が、砂埃と絶望の中で迷っている間——宇宙のどこかで、何かが動き始めた。
でも、それはドラゴンじゃない。予言でもない。新たな任務の始まりでもない。
ただ…世界が、いつも通りに続いているだけ。
英雄たちが自分のエゴにつまずいている間も、アンセルムの街は生き続ける。そして、その命を支えているのは——選ばれし者でも、常習者でも、喋る剣を持つ者でもない。
それは、「その他」の人々。
歌に名前が出ない者。報告書に載らない者。いつもそこにいるのに、中心にはいない者。
この巻は、彼らの物語。
見られずに観察する者。礼も言われずに酒を注ぐ者。誰も読まない書類に判を押す者。他人が流した血を拭く者。
世界を救う者ではなく、世界を支える者たち。
ここにあるのは、断片。切り取り。横からの視点。
一直線の物語はない。明確な運命もない。ただ、主人公の影から一瞬だけ逃れた声がある。
もし、カエルが違う目で見られたら?
たぶん、ただの一人に過ぎない。通り過ぎる顔。失敗する任務。居心地の悪い存在。
でも、もし世界が違う目で見られたら?
冒険では描かれないものが見えるかもしれない。疲れ。皮肉。日常。剣より重い沈黙。
これは、第一巻と第二巻の間の「1.5巻」。
続編でも、番外編でもない。
これは、視点の転換。
背景にも、ひびがある。
そして時に——そのひびから、光が差し込む。
「誰もが英雄になりたがる。 でも、世界を動かすのは、よく転ぶ奴と、それを笑う剣だったりする。」
中央広場に到着した。
壁際には、音を外したバードたちが泥のコップを差し出して座り込んでいた。 コインよりも称賛を求めてるような、そんな哀れな様子だった。 樽に顔を突っ込んだまま眠るドワーフが一人。 その洞窟のようなイビキは、周囲のレンガを震わせるほどだった。
祝祭はなかった。 けれど、混沌そのものが自分を祝っているかのような雰囲気だった。
カエルはその樽を避けて歩いた。 ドワーフは笑顔で眠っていて、自分の拳に涎を垂らしていた。
「幸せそうだな」 カエルがぼそりと呟く。
「羨ましいね。たぶん夢の方が、お前の現実より面白いぞ」 サロンが返した。
カエルは広場を抜けて歩き続けた。背中には太陽、汗がじわじわと重たくなる。
「……それで、あの手紙は?」 突然呟いた。
サロンは答えるまでに時間をかけた。 まるでその問いに噛みつくように。
「誰も届けたくない手紙を、誰も知らない場所へ持っていく。 そりゃ頭を失うための完璧な計画だな。文字通り。」
「でも、クロットが大事だって……」
「クロットが言ったことなんて山ほどある。 全部、“ネズミが罠にかかるまでの距離を測ってる”って顔つきだったけどな。」
「じゃあ、なんで断らなかったんだ?」
「お前がバカだからだ。しかも、俺はお前にくっついてる。」
カエルはため息をついた。
「……ありがと。再確認できた。」
二人は歪な石畳の通りを進んだ。 歩みは疑念に沈み、手紙はポケットの中。 行き先は、くしゃくしゃになった未来のように遠く、そして曖昧だった。
カエルはバードたちの前で足を止めた。 彼らのみすぼらしい姿に、目が釘付けになる。
三人の男たちは、芸術性より裂け目が目立つ服を身にまとい、 歌とは到底呼べないものを口にしていた。 それは、メロディーと謝罪を混ぜたような、人間の耳への拷問に近かった。
足元に置かれた泥のコップは空っぽ。 まるで貧困さえも、彼らを見捨てたかのようだ。
「……あいつら、コインをもらえるのかな。石とかじゃなくて」 カエルが首をかきながら呟く。
サロンが鞘の中で震え、金属音が笑いのように鳴った。
「石を投げた方が、少なくともテンポは良くなるだろうな」
カエルはため息をつき、気を紛らわせようとした。
「で、あの手紙なんだけど……」 視線を漂わせながら小声で言う。 「なんか変なんだ。わかんないけど……あの手紙を手に入れてから、誰かに見られてる気がしてさ」
一秒ほどの沈黙。 サロンが黙ってるなんて、奇跡に近い。
「間違ってないぞ、間抜け」 声は低く、鋭くなっていた。 「俺も感じてる。目だ。 お前が瞬きする瞬間を狙って、喉を裂こうとしてるような視線がな」
カエルはごくりと唾を飲み、周囲を見渡した。 さっきまで騒がしかった広場が、急に遠くなった気がする。 太陽に引き伸ばされた影は、どれも自分を指差しているようだった。
「……ここ、出たほうがいいかも」
「ようやくまともな案だな。 さっさと行こうぜ。ヘタな歌に刺されて死ぬのはごめんだ」
カエルは歩みを速めた。広場を横切り、小道へと進む。 人々の声は遠ざかり、食べ物と汗のにおいは冷たく乾いた空気に置き換わった。
――その時、気づいた。
静かすぎる。
前方の路地には、行き止まりが見える。 気づいた瞬間、後ろから三人の男たちが影から現れ、出口を塞いだ。
誰も大柄ではない。 誰も、躊躇していなかった。
皮肉が溢れるサロンの声が響く。
「見ろよ、カエル。 みすぼらしい三匹のネズミが穴に引きずり込もうとしてるぞ。 どうする?何かするのか?それとも叫び続けて、誰かに墓に花を添えてもらう気か?」
カエルは一歩後ずさり、汗ばんだ手でサロンの柄を握りしめた。
「……誰かもわからないし、目的も……」
「それがどうした、カエル! 剣は水晶玉じゃないんだぞ。 振らなきゃ、無観客のピエロショーにしかならん!」
カエルは深く息を吸い、目を閉じて――攻撃した。 振り下ろした二撃は、風を斬るばかりで、まるで戦っている気配がなかった。 男たちは舞うように回避した。 素早く、無駄がない。
「素晴らしい!影の剣士様ご登場!」 サロンが皮肉たっぷりに叫ぶ。 「“太陽の光団”もお前の姿を見たら、感動で泣くだろうよ」
カエルはイラつきながらため息を吐く。
「黙れ、サロン!」
男の一人がカエルの腕を掴み、もう一人が足を押さえ、 あっという間に彼は縛られて地面に投げ出された。
「最高だな」 サロンはまだ鞘の中で震えていた。 「剣士の名誉は、その情けない一撃と共に死んだ。 せめて恥をかくなら、見栄え良くやれよ」
カエルは地面を見つめながらぼそり。
「……お前、本当に役立たずだよな」
「俺は剣だぞ。ベビーシッターじゃねぇ」
カエルが返す暇もなく、男たちは彼を古びた荷車へと引きずっていった。 木製の骨組みが、罪を悟ったように軋む音を立てる。 カエルは中へ放り込まれ、扉がバタンと閉じられた。
荷車が動き出す。街の喧騒は遠ざかっていった。
「素晴らしいな」 サロンがぼやく。 「影の剣士から誘拐荷物への転職とは。 さて、次は何だ?屈辱の歌でも作ってほしいか?」
「黙ってくれ……」
「金もらっても黙らん」
荷車は揺れながら進んだ。 カエルは闇の中で身を縮め、誘拐犯への怒りと、サロンの口の悪さ―― どちらにイライラしているのか、自分でもわからなくなっていた。
車輪の振動は、世界の構造そのものを壊そうとしているかのようだった。
道の穴に突き当たるたびに、カエルは思わず声を漏らす。
「これが拷問じゃなかったら、もう何が拷問なのか……」 カエルが頭を荷車の天井にぶつけながらぼそりと呟く。
サロンが金属音を響かせる。皮肉の塊のような音色だ。
「拷問? これって休日だろ。俺的には“バカ向けのオールインクルーシブツアー”って呼んでる」
カエルは深く息を吸った。
「オールインクルーシブって……その単語、どこで拾ってきたんだよ」
「お前が勇気を拾ってくる場所と同じさ……あ、そういえば拾ってこないな」
カエルは天井を見上げた。 まるで神様に助けを求めるかのように。 しかし、落ちてくるのは祈りじゃなく、ただの埃だけ。
「信じられねぇ……誘拐されたんだぞ。 しかも顔だけで“放棄された市民”ってわかるような奴らに。 そして今、唯一聞こえてくるのが……お前の毒舌だって?」
「違うな。誘拐されて、屈辱を味わって、縛られた。 これぞ無能コンボ。まさに失敗芸術の頂点だ、カエル」
「黙れよ……」
外から、誘拐犯の一人が、短くて少し引きつった笑い声を漏らした。
「おい、そこの二人……少し静かにしてくれねぇか?」
サロンがさらにビリビリと震えた。 その音には、金属製の挑発がたっぷり詰まっていた。
「なら、お前らが中に来いよ。 カエルの“迷子牛のため息”を五分間聞いて耐えられるか試してやるぜ」
カエルは目を見開いた。
「挑発すんなって!今俺たち、誘拐されてるんだぞ?!」
「で、奴らがどうするって?殺すか?結構だね。 お前の背骨ゼロのボヤキ聞くくらいなら、その方がマシだ」
「俺には背骨ある!」 カエルが怒って反論する。
「ゼリー並みにな。それどころか、あいつらが縄を解いたら、お前は勝手に地面に倒れるな」
外では別の誘拐犯が鼻で笑った。
「言っただろ、ボス。あの剣、ずっと喋ってるんだってば!」
「ってか、剣が喋るってなんなんだよ!?」 三人目の誘拐犯が限界の声で叫んだ。
「お前らの会話聞くより、ずっとマシだってことだよ!」 サロンが金属を吐くような振動で返す。
カエルは荷車の壁を蹴った。
「サロン! 死にたいのか!?」 カエルが叫ぶ。
「むしろ尊厳を求めてるんだ。 お前がさっき、名誉と一緒に地面に落としてきたやつな」
「名誉って何さ!?」
「それだよ」
荷車が急に曲がり、カエルは転びかけた。 外では誘拐犯の一人が荷車の側面をドンと叩く。
「おい、うるさいと扉開けるぞ!」
「で? 剣に説教でもするつもりか? 汚れた手で殴るか?」 サロンが割り込む。
「このクソ車潰すぞォォォォ!!!」 誘拐犯が絶叫する。
「そしたら俺、爆笑するけどな」 サロンが平然と返す。
カエルは頭を抱えた。
「もう無理だ……」
しばらく時間が過ぎて――でも沈黙は続かない。
「なあ、カエル……」
「やめてくれ」
「お前さ、面白いよな。 誘拐犯にもナメられてんの。 お前のこと、荷車に詰める重りとしか思ってないぞ」
カエルはため息をつき、地面を見つめる。
「泣きそうだわ……」
外から、手綱を放り投げる音が聞こえた。
「もう限界だァァァァ!!!」 誘拐犯のリーダーが絶叫し、空気を切り裂いた。
荷車がガクンと止まる。
カエルは顔を上げる。
「な、何が起きた……?」
後部の扉がバンッと開き、顔を真っ赤にしたリーダーが現れる。 汗だく、怒りで震えながら――
「出ろ。今すぐ。」
カエルは目を瞬かせた。
「……出ろって、俺らをどうする気――」
「何もしねぇよ!!」 男が吠える。 「俺はトロールと添い寝してでも、この剣の声を聞かずに済む方を選ぶ!」
サロンが金属質の高笑いを響かせた。
「やっぱ俺、精神攻撃の才能あるな」
サロンが鞘の中で小さく鳴った。 満足そうな金属音だった。
「見ただろ?犯罪者ですら、お前の顔を運びたくないんだよ」
荷車はギシギシと音を立てながら遠ざかっていく。 砂ぼこりを巻き上げながら、運転手たちの悪態が遠くに消えていく。
カエルは道端に座り込んだまま、現実を整理しようとする。
「……今の、マジだったのか?」
「その通りさ。おめでとう、カエル。 人生最大の偉業だよ。誘拐犯に拒絶されるなんてな」
カエルは口を半開きにしながら、 遠ざかる砂煙を見つめていた。 まるで、全部が悪夢だったらいいのにと願っているように。
だが、違った。 何もない音のない世界が、それを証明していた。
「……俺ら、今……捨てられたのか?」 カエルがぽつりと呟く。
サロンがクスクスと震える。
「おめでとう、カエル。誘拐犯すらお前を要らないってさ。 このレベルの拒絶は、俺も初体験だ」
カエルは荒く息を吐き、 まだ腕に食い込んでいる縄を見てぼやいた。
「くそっ……まだ縛られてるし……」
「で?魔法のハトでも飛んできて救ってくれるのを待ってるわけ?」
カエルは這いながら、サロンを引き寄せて、 縄を刃にこすりつけ始めた。
「お前が自分で切ってくれれば、だいぶ助かるんだけどな……」
「俺が切るのは肉。 無能の誇りは対象外だ。 てかこの縄、お前の勇気より丈夫そうだぞ?」
カエルは息を整えて、剣を睨む。
「お前って、本当に黙らないよな……」
「黙ったら、誰かが代わりに喋らなきゃいけなくなるだろ? それがお前だったら、誰も得しない」
力を込めて縄をこすり続ける。 ようやく、縄が切れた。 手首がヒリヒリと痛む。
「やっとだ……自由だ」
「縄からはな。バカからは解放されてないけどな」
カエルは立ち上がり、周囲を見渡す。
風景は―― ただの砂、岩、そして枝を突き上げる歪んだ木々ばかり。 枝はどれも、助けを求める手のように見えた。
道はない。目印もない。
「……で、どうすんだ?」 カエルが眉をひそめて呟く。 「荷車の道を辿るか、それとも……あいつらが向かった先に進むか?」
「どっちでもいいさ。どうせ迷うだろうからな」
「……役に立たないな」
サロンが皮肉混じりにカチンと震えた。
「最初から言っただろ?失敗するってな。 でも誰が剣の言葉なんか聞くもんか。 “影の剣士”様を信じた結果が、浮浪者にボコられるっていう」
カエルは拳を握った。
「その調子だと、穴にぶち込むぞ」
「いいねぇ、そのプラン。 独りぼっちで迷って死ぬにはちょうどいい」
カエルはもう一度辺りを見回す。 文明の気配はゼロ。煙すら見えない。
「……なんで誘拐されたんだっけ?」
「俺に聞くな。もしかして誰か有名人と間違えられたんじゃね? ありえないけど、まぁなくもない」
「じゃあ、なんでこんな辺境で捨てられたんだよ」
「俺らの会話が、金より価値ねぇからさ」
カエルは深くため息を吐き、そのまま硬い地面に身を投げた。
「……人生、嫌いだ」
「俺もだよ。お前と共有してるってだけでもな。 これでチャラだな」
しばし、風だけが二人に返事をした。
カエルは空を見上げた。 太陽が、焦げるように彼の忍耐を焼いていく。
そして叫んだ。
「なぜええええええええええええええええっっっ!」
その声は虚空に消えていった。 返事はなかった。 運命すら、気にしていなかった。
カエルは乾いた地面に座り直した。 肩は落ち、ポケットの中の水晶と手紙が、まるで石のように重たく感じられる。
サロンが鞘の中でくすくすと笑ったように震えた。
「方向もなく、目的もなく、扉並みに頭が弱い―― これは楽しくなりそうだな」
カエルは目を閉じた。 一瞬だけ、静寂を欲した。
でも、静寂は訪れない。
彼には静寂は来ない。 彼女――剣がいる限りは。
そして、二人はそのまま彷徨う。 目的もないまま、どこへ向かうかも知らず。
その頃――宇宙のどこかで、何かが動き始めていた。 おそらく、彼らですら壊せない何かが。
「で、どうする?ヒーロー」
「知らねぇ。ただ……後悔するのは間違いない」
Volume I 完。
物語は、よくある冒険譚ではない。 カエルとサロンが歩く道は、間違いだらけで、 うるさくて、 でもなぜか止まれない。
書いている自分も、 その混沌を追いかけている途中だ。
この巻の最後に至って、 やっと始まりが見えた気がする。
――続きは、少し遠くの風景から。




