婚約破棄劇を嗤っていたら親友の婚約者に惚れられました〜仮面つけて紅茶飲んでただけなのに〜
貴族学園。それは貴族階級の子女たちが学び、育ち、恋愛と策略と裏切りを学習するという、実に高尚かつ滑稽な舞台。
その学園において、私ことレイナ・グリムスローンの一日は、実に優雅で文化的に始まる。朝は紅茶と共に日課である「婚約破棄劇」の観察、昼は小芝居の批評、そして夕刻には心の平穏を保つための書物と記録整理。
「断腸の思いだが、君との婚約は破棄させてもらう!」 「そ、そんな……あなたぁ!」
ああ、素晴らしい。今日も清々しいほどの定型文。
中庭に響くそのセリフに、私はティーカップを持つ手の角度をほんのわずかに調整する。完璧な観賞ポジションであるソファ席から見下ろすそれは、まるで学園が一丸となって提供する無料劇場。
「今週で四件目かしら。学園の婚約制度もずいぶんと回転が速いこと」
私はひとりごちる。いや、正確には私の皮肉を聞くためにそこにいる存在がいる。
「レイナ、また見てるの? 婚約破棄なんて、人の不幸で楽しむのはよくないよ?」
天使のような声でそう言ってくるのは、我が唯一にして貴重な友人、ルシア・フォンティーヌ嬢。伯爵家の一人娘にして、純真無垢を絵に描いたような人物。彼女がこの学園にいること自体が、もはや慈善事業と言っていい。
「楽しんでるんじゃないのよ、記録してるの。これは社会的研究よ。文化的保存活動と呼んでほしいわ」
「でも、そのティーカップ、すっごく楽しそうな角度で持ってない?」
「気のせいよ」
そう。気のせいに決まってる。
ちなみに私は、侯爵令嬢。名家でありながら、この学園ではまるで背景の壁紙のように存在感を消している。それもそのはず。
私の見た目は“くすんだ茶髪”に“凡庸な茶色の瞳”。身につけるのも地味な制服と最低限の装飾品。目立つ要素は一つとしてない。
……が、それはあくまで“表面上”の話である。
私の本当の姿は、金糸のように輝く髪、透き通る瑠璃色の瞳、華やかなドレスが似合う容貌。いわば、社交界で噂になるレベルの「美貌」だ。
それを、魔道具によって隠している。
理由は簡単。美しいというだけで群がってくる虫どもにうんざりしたからである。
「君の瞳は星よりも輝いているね」 「その髪、触れていい?」
……ええ、何度“髪を触ろうとした手首を折りたかった”ことか。
だから私は地味な仮面を被り、“静観者”として生きることに決めた。他人の恋愛やら婚約破棄やらを、遠巻きに笑いながら観察する。
最低の趣味? 最高の娯楽よ。
「ねえ、レイナ」
そんな私の紅茶タイムに、水を差す声が降ってきた。ルシアである。
「最近ね、シリル様の様子がちょっと変なの……。ぼんやりしてたり、どこかよそよそしかったりして」
おっと。これはただの雑談ではない。
「それはまさか、婚約破棄フラグの足音かしら?」
冗談めかして返したけれど、ルシアの顔は真剣だった。
「……好きな人ができた、って。本人は言わないけど、私、気づいてるの」
静かにティーカップを置いた。
まさか、あの王子様然とした完璧婚約者が、そんな凡俗なムーブを?
いや、それよりも何よりも。
このセリフ、この展開、既視感がある。
「……まさかね」
私は紅茶を少し強めに一口啜った。
◆ ◇ ◆
夜の学園というのは、昼間の喧騒とは打って変わって静謐で、まるで恋の予感を立てる誰かのために世界がひとときだけ呼吸を止めているかのようだった。
その夜、私はいつものように、誰にも見つからない裏庭の通路を歩いていた。理由は実に単純。図書館に借りていた本を、返却期限をうっかり過ぎていたことを思い出したからである。
夜の風は心地よく、昼間の喧騒から解き放たれた空気が、私の頬を優しく撫でていた。美しい夜だった。少なくとも、あの“事件”が起こるまでは。
しかも、この時間帯であれば寮の門限も近く、生徒たちはほとんど自室に戻っているはずだった。だから私は油断していた。
──ぷつん。
軽やかに響く破裂音。耳元の魔道具が、突然その機能を終える音だった。
「……え?」
思わず声が漏れた。
次の瞬間、視界にちらついた金色の光。それが、私自身の髪の色だと理解するまで、ほんの数秒。
変装、解除。
「まずい……でも、この時間、誰もいないはずよね?」
必死に自分に言い聞かせる。そう、こんな夜遅く、外をうろつくような変人なんて――
「あ……」
いた。
よりにもよって、いた。
薄闇の中に立つ、制服姿の青年。高貴な雰囲気をまとい、整った顔立ちに、目を細めるような仕草。そんな彼が、まっすぐに、こちらを見ていた。
その瞳には、明らかな既視感。
(まさか……)
数日前、変装が一瞬だけ解けた時。裏庭で遭遇してしまった、あのときの“誰か”。
今、すべてが繋がった。
「……また会えた」
その声は、思いのほか柔らかくて、やけに詩的だった。
「あなた……」
言葉が出ないまま、私はただ彼を見つめ返す。
「やっぱり、本物だったんだ。夢でも幻でもなかった」
(いやいやいや、待って、なんでそんなロマンチックモードなの!?)
私の中の冷静さが、急速に音を立てて崩れていく。
「君の名前を、聞いてもいい?」
わぁ、出た。少女漫画の第3巻あたりでヒーローが言いがちな台詞。
だけど現実なんですけど。しかもよりによって相手は、親友ルシアの婚約者。やめて、爆弾投下するなら予告して。
「通りすがりの……ただの学生です」
ぎこちないお辞儀と共に、私はその場をそそくさと立ち去る。
「待って!」
いや、待たない! 追いかけるな!
そう心の中で絶叫しつつ、私は裏路地を駆け出した。ああ、もしこの世に時を戻す魔法があるのなら、今すぐ5分前に戻って変装の充電を確認していたい。
(ダメよ、こんなの──関わっちゃいけない)
そう思いながらも、鼓動は不自然なほど高鳴っていた。まるで、全身で「何かが始まってしまった」と言っているかのように。
そして翌朝。
「昨日の夜、信じられないくらい綺麗な女の子を見たって、シリル様が……」 「まさか本物の妖精じゃないかって話よ」
うん、妖精じゃなくて人間だし。夜更かしして本返してただけなんですけど。
教室に広がるその噂に、私は内心で突っ込みを入れながら、紅茶を一口。
そして、教室の中心に座る“その人”――そう、シリル=アルヴァートの表情が目に入った。
あの完璧婚約者が、夢見る少年のような顔で、教室中をゆっくりと見渡していた。
そう、彼はまた“あの子”を探している。
笑ってしまう。彼の言う“あの子”は、今この教室で最も地味で、誰からも注目されない令嬢──つまり、私だというのに。
私はそっと、カップの縁に口をつけた。
今日の紅茶は、ほんの少し甘く感じた。
「レイナ、ちょっといい?」
昼休み、私はいつものようにお気に入りの窓際の席で紅茶を楽しんでいた。日差しは柔らかく、花壇の花々も春の陽気に揺れている。そんな中、場違いなほど真剣な声が、私の紅茶タイムに水を差した。
案の定、声の主は我が親友、ルシア・フォンティーヌ。
「また婚約破棄でも起きたのかしら? それとも新作の恋愛劇の開演?」
茶化してみせたものの、彼女の顔は笑っていなかった。
「実はね……シリル様が、最近ちょっと様子が変なの」
ああ、来たわね。
「昨日の夜もずっと上の空で、私が話しかけても生返事ばかりで……だから、思い切って聞いたの。『もしかして、好きな人ができたの?』って」
私はこの時点で、カップの紅茶を飲み干したくなった。いっそ今すぐこの窓から飛び出して、紅茶片手に空へ逃避行したい。
「そしたらね、『そんな気がする』って……」
はい、完全にアウトー。満場一致で有罪判決。浮気宣言にしてはあまりにおぼろげで不誠実。
「で、その“気になる人”って誰なの?」
問いかける私の声に、かすかに棘が混ざっていないといいけれど。いや、混ざっていた方がむしろ誠実。
「聞いたけど教えてくれなかったの。でも……とっても綺麗な人らしいの」
……その“綺麗な人”は、昨日あなたの婚約者に妖精扱いされたこの私ですって言ったら、何点?
「……それってつまり、“ルシアはその綺麗な人じゃない”って彼が言外に伝えたってことよね」
私の皮肉は届かない。彼女は、清らかな瞳で微笑みながら首を傾げる。
「え? どういう意味?」
ああ、この天然。悪意がない分、逆に致命的。
「……なんでもないわ。で、私にどうして?」
「レイナって人の顔覚えるの得意でしょ? だから、その“綺麗な人”を見かけてないかなって……」
笑顔で期待の目を向けてくる親友に、私は最大限の演技で答える。
「最近、妖精の目撃談は増えてるわね。もしかしたらその“綺麗な人”も、人間じゃないのかも」
「ふふっ、レイナったら冗談上手」
ええ、冗談よ。誰がまさか、自分の婚約者が親友に惚れたなんて、笑うしかないでしょ。
でもね、ルシア。冗談の中に、本音って意外と詰まってるものなのよ。
婚約破棄観察者として、私はこれまで数々の修羅場を目撃してきた。
涙と裏切り。暴露と絶叫。そこには貴族社会の縮図があり、ある種の芸術性さえ感じていた。私にとって、それらは舞台であり、私は観客席の端に座る批評家だった。
他人の恋愛がどうなろうと関係ない。
むしろ、その不条理さや滑稽さに、静かに紅茶をすするのが日課だった。
でも、今回は違う。
「……なんで、私が」
呟いた声は、驚くほどかすれていた。
私は、観察者だった。
傍観者として、自分の立場を選んできた。だから、変装してまで“自分”を隠していた。
それでも、踏み込まれてしまった。
シリル=アルヴァート。
親友の婚約者。
そして今、私の正体も知らぬまま、誰かに心を奪われた男。
いや、正しく言えば、“私に”心を奪われた男。
「はぁ……」
深く息を吐く。まるで心の奥から、濁った感情を一つずつ外へ追い出すように。
私は、悪くない。そう思いたい。
けれど、どうしたってルシアの顔が脳裏にちらつく。
彼女の笑顔。
「レイナって、いつも冷静で素敵だよね」 「レイナの言葉って、私、すごく好きなんだ」
あんなふうに私を信頼してくれていたのに。
なのに私は、その婚約者に一目惚れされて、しかも、それを自分の目で確認してしまった。
「どうすればよかったの?」
逃げる? 黙ってる?
いいえ、それは違う。
だって──私は知ってしまったのだ。
ルシアが、今どれだけ悩んでいるか。
彼が、もう彼女を見ていないこと。
その理由が、自分だということ。
「だったら、せめて。見せてやらなきゃ」
ぽつりと呟いた言葉は、誰にも聞こえない。
だけど、その瞬間、私の中で何かが決まった。
──魔道具を外そう。
あの“綺麗な人”が、どれだけ危うくて、近づけば崩れる幻想か。
あの男が追いかけた存在が、どれだけ“現実”に冷たいか。
それを見せる。
それが、せめてもの誠意だと思った。
私は親友のために動く。
そして、自分がもう“無関係”ではいられないことを、ようやく受け入れる。
「舞踏会、ね……」
週末、貴族学園最大の社交イベント。
誰もが仮面を外すその夜。
ならば、私も例外ではない。
妖精の仮面をつけたままではいられない。
仮面を脱ぎ、微笑み、そして静かに断罪する。
それが、レイナ・グリムスローンの“役目”なのだから。
◆ ◇ ◆
舞踏会の夜は、魔法のようだった──などと、よくある恋愛小説の冒頭のようなことを考えてしまう自分が、少しだけ滑稽だった。
けれど実際、今夜の会場はそれにふさわしいほどの豪奢さだった。
光り輝くシャンデリア、絹と宝石に包まれた貴族の子女たち。そして、仮面をつけた者も、外した者も、皆どこか夢の住人のように浮世離れしていた。
そんな中、私は“本当の姿”で現れた。
金糸のような髪。深海のような青い瞳。
この姿を見た者たちは皆、決まってこう言う。
「まるで妖精のようだ」と。
ええ、どうぞ。妖精でも女神でも好きに呼んで。
でも覚えておいてちょうだい――その“妖精”が、今夜は毒を持って舞台に上がるのだから。
「……誰あれ?」 「初めて見る顔……え、転校生?」 「いや、まさか、仮面舞踏会のスペシャルゲスト?」
ざわめきは耳に心地よかった。
けれど、その中でも、ただ一人の足音だけが、私の鼓膜を鋭く打ち抜いた。
「……やっと、会えた」
それは、感動の再会でも、再び巡り合う運命でもない。
シリル=アルヴァート。
ああ、あなたって、本当にどうしようもないほど正直なのね。
「君の名前を……」
「名乗る必要はありません」
その瞬間、彼の顔に浮かんだ驚きの色。
……楽しい。ちょっとだけ。
「あなたは今、自分が何をしているか分かっていますか?」
「……え?」
「その言葉を聞いたら、あなたの“隣”にいる人はどう思うでしょうね?」
私は微笑んだ。優しげに、でもそれはたぶん、剃刀を包んだ微笑み。
「でも君は、あの夜の……夢じゃなかった……」
「夢のままでよかったのに。そうすれば、皆幸せだったかもしれないわ」
彼の表情が曇る。
「君が、誰なのか知りたい。もっと……知りたいんだ」
「その前に、あなたは“誰を”知らなければいけなかったのかしら」
沈黙。
いいわ、その沈黙。じわじわと効いてくるその表情。
「この恋は、誰かを幸せにするものだと思いますか?」
私の問いに、彼は答えられなかった。
……そう。だってこれは“恋”じゃない。
夢の中の少女を、現実に引きずり下ろした瞬間に終わる幻想。
それでも彼は、震えるように言った。
「僕は、君を選ぶ」
「では、私はあなたを選ばないわ」
静かに、けれどはっきりと告げる。
「理由は単純よ。誰かの涙の上に立つ恋は、私には似合わないもの」
私は踵を返した。彼の手が伸びかけたが、それは虚空を掴むにとどまった。
私が立ち去るその背中に、彼の声は届かなかった。
──だって、これはよくある“ザマァ”じゃない。
これは、幻想に囚われた男に贈る、最後の現実。
夢から覚めたとき、甘い紅茶が苦くなるように。
ねえシリル、あなたの恋の味は、ちゃんと現実に戻れたかしら?
◆ ◇ ◆
舞踏会の夜が明けた朝、学園には妙な静けさが漂っていた。
いつもなら喧噪と噂話でにぎやかなはずの廊下が、まるで昨夜の夢を醒ますことをためらっているかのように沈んでいた。
「昨日の妖精、誰だったのかしら……」「仮面をつけてなかったって話、本当?」
そんな声が教室内を漂う中、私はいつも通り、紅茶の香りを楽しんでいた。地味な茶髪、茶目、控えめな制服──つまり、いつもの“私”として。
正体なんて、誰にも悟られていない。
もちろん、シリルにも。
「レイナ」
親友、ルシアがそっと声をかけてきた。
彼女の顔は、笑顔だった。けれど、その瞳の奥にあったものが何か、私は知っていた。
「私ね、シリル様と話したの」
私は頷く。彼女の口から、あの名前が出ることは分かっていた。
「やっぱり、好きな人がいるみたい。でも……誰かは教えてくれなかった」
「それは……つらかったでしょう?」
そう聞くと、ルシアはふっと肩の力を抜いて笑った。
「ううん、なんだかね……綺麗な人だって聞いて、ちょっとだけ、安心したの」
その笑顔に、胸が少し痛んだ。
ごめん。たぶん、それ、私です。
でも私は、何も言わなかった。言えるはずがない。
「だから、私……婚約、解消しようと思うの」
その言葉は、静かだった。
でも、確かに届いた。
「シリル様も、きっとその方が楽になれると思うの。お互いに、無理に縛られるより、ね」
私はただ、「うん」とだけ返した。
それが、ルシアへの精一杯の答えだった。
そしてその日の放課後。
廊下で偶然すれ違ったシリルが、ふと足を止めて私を見た。
その瞳に、何か探るような色が浮かんだのは気のせいだろうか。
「……失礼。どこかで、お会いしましたか?」
一瞬、息が止まりそうになった。
けれど私は、静かに首を振って笑った。
「いいえ。人違いかと」
シリルは、少しだけ残念そうに微笑んで、そのまま立ち去っていった。
彼は、妖精を追い続ける。
でも、その正体には、最後まで気づかない。
そういう“終わり方”も、悪くない。
だって私は、誰にも気づかれずにこの物語の観客席に戻れる。
それが、私の選んだ、唯一のご褒美だった。
舞踏会の熱狂も、婚約破棄の波紋も、いつかの日常へと静かに溶けていった。
私の席。私の紅茶。私の静けさ。
変わったのは、彼と彼女の隣にある空白。そして、その空白を誰も詰めようとしないという事実。
「シリル様、最近静かだよね」「ルシア様も……笑顔は変わらないけど、なんとなく」
教室には、あいかわらずの噂が流れる。
けれど誰も、“あの夜の妖精”と、地味令嬢レイナ・グリムスローンを結びつけようとはしない。
それが、この物語の終わり。
私が望んだ通り。
私が仕組んだ通り。
「……ふふっ」
紅茶を一口。今日は少し、香りを強めに淹れてみた。
そろそろ桜の季節だ。風に舞う花びらが窓の外を流れていく。
あれから、ルシアとは変わらず仲良くしている。
彼女は婚約を解消し、少しだけ大人びた表情を見せるようになったけれど、本質は変わらない。
「新しい出会いがあるといいね」
なんて笑って、紅茶を飲んでいた。変わらず、優しく、真っ直ぐだ。
そして彼──シリルは、誰かを探すように、今も時折、窓の外を見ている。
あの夜の、妖精の幻影を追いかけて。
でも、それでいい。
夢は夢のまま。
現実は、現実のまま。
私はその狭間で、静かに微笑んでいる。
だって私は、地味で、目立たなくて、どこにでもいる令嬢。
だけどその紅茶は、今日もほんの少しだけ、苦かった。
お疲れさまでした!!
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます!