雑記 残り香
――「“この香り、まだ家に残ってるんです”」
その家は、村の外れにぽつんと立っていた。
朝の空気に、干した布の匂いと、ほんの少しの鉄と煙の気配が混じっていた。
サーシャとミスト=パフュマは、家の前で軽く礼をして、戸を叩いた。
「……どうぞ」
出てきたのは、腰の曲がった老婦人だった。
けれどその目は真っ直ぐで、どこか凛としていた。
「息子が、兵隊でしてね。去年、前線で亡くなりました。
体は戻ってきませんでしたけど……この部屋に、まだ、あの子の匂いが残ってる気がして」
老婦人は案内してくれた。
狭くて、きれいに整った部屋。畳の上に折りたたまれた軍服、古びた木箱。
そこに立った瞬間、ミストはすっと目を閉じた。
「……この香り、あたたかいですね」
「そうかい……?」
老婦人が微笑む。
ミストは小さく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
その瞬間、部屋の空気が、ほんのりと変わった。
石鹸、金属、少しの革と、古い本。
たしかに、それは「誰かが暮らしていた」匂いだった。
老婦人が、指先を口元にあてる。
「ああ……これ……あの子の枕の匂いと、同じ……
……夜、寝る前に、いつも……私、あれが安心だったんですよ……」
サーシャは静かにそばに立ち、肩をそっとさすった。
その傍らで、部屋の入口に立っていたカリナが、ぽつりと呟いた。
「……この子のスキル、戦えはしないけど。
“戦争で壊れたもの”の、隙間を埋めることはできるのかもな」
サーシャが、静かに微笑んで答えた。
「香りって、手紙よりも、絵よりも、人をその場に連れていける。
この子の匂いは、“帰れなかった人の最後の居場所”を、ちょっとだけ照らしてくれるのかもしれない」
老婦人は、鼻をすすりながら、それでも泣き笑いのような顔で言った。
「……ありがとう。香り、また思い出せてよかった。
……忘れるのが、こわかったから……ほんとうに、ありがとうね」
ミストは黙って、深く頭を下げた。
その香りは、やがて消えるかもしれない。
けれどその日、その部屋だけは、たしかに記憶の中に戻っていた。