香りの記憶②:忘れられない香り
――訓練ログ:感覚再現テスト
記録官:マール=エトワール
「この香りを再現してみなさい」
そう言ってマールが差し出したのは、半年前に使用された古い手紙だった。
香料がしみ込んでいるわけではない。ただ、わずかに、空気の中に何かが残っている。
「これ……香り、するにはしますけど……」
ミスト=パフュマは手紙を両手に挟み、そっと目を閉じる。
――甘い。けれど、単純な甘さじゃない。
熟した果実の奥に、少しだけスモーキーな苦味。
あと、木の香り。雨の日の書斎のような……静けさ。
ミストの眉がひくりと動く。
空気が、ふっと変わる。
訓練室に、たしかに“あの時”の空気が戻ってきた。
マールが思わず、片眉を跳ね上げた。
「……これは」
ふわりと漂うその香りに、教官の表情がわずかに崩れる。
ミストはそっと目を開けて尋ねた。
「再現……できてましたか?」
マールは答えなかった。
ただ、その手がわずかに震えていたことを、ミストは見逃さなかった。
しばらくの沈黙のあと、マールは小さく笑う。
「……驚いたよ。まさか“あの人”の香りまで再現できるとはね」
「“あの人”……?」
「かつて王都の研究室で一緒だった同僚。彼女がよく使っていた香水の香りだ。
もう何年も前に亡くなった。記録も、声も、写真も残っていない。
でも、いま、思い出した。……あの人が、この匂いを纏っていたことを」
ミストは、言葉を失った。
「香りは、記憶の裏道から入ってくる。
頭では忘れていても、体が覚えている。……それを掬える君のスキルは、
間違いなく“記録”よりも深く、感情に届いている」
そう言って、マールは深く息を吐いた。
「いいかい、ミスト。これはただの調香じゃない。“再現”という行為は、
ある意味で“記録されなかったものを、もう一度現実に引き出す”行為だ」
「……記録されなかったものを……」
「そう。香りは、君だけが引き出せる“目に見えない記憶”だ。
癒しにも、証言にも、別れにも、再会にも使える。
それが君の強さであり、役割だ」
ミストはゆっくりと頷いた。
「……僕のスキル、使えるんですね。誰かの、何かの、助けになるんですね」
マールは、にやりと笑う。
「“君自身が信じている限り”な。疑いなく、誰かの役に立てるさ」
【訓練所記録 第79期生:ミスト=パフュマ】
スキル名:香りの記憶
訓練記録:感覚再現テストにて、記録されていない香料を実質的に復元。香りの記憶を通じ、記憶想起・情緒安定反応を確認
教官メモ(マール=エトワール)
「彼のスキルは“香りを再現する”ことにとどまらない。
記録の残らなかった存在を、もう一度“そこに在った”ものとして可視化する。
これは調香の技術ではない。“記憶の錬金”に近い」