湯加減②:気づかれないくらいの優しさ
――食堂・水回り当番記録
記録官:サーシャ=ベルモンド
その日、ヌル=ユカゲンは水回り当番だった。
配膳や下膳の合間に、手洗い場の水温を調整してまわる。
ほとんど誰にも気づかれない。
でも、それでよかった。
──気づかれないように、
でも、ちゃんと誰かが“気持ちよく過ごせる”ように。
彼は、静かに蛇口に手を添えた。
“ぬるめ”にしておく。それだけ。
「……あれ? 今日のお水、あったかい……?」
昼休憩のタイミングで、何気なく手を洗っていた訓練生がつぶやいた。
「昨日まで、冷たくて指ちぎれそうだったのに……なんでだろ」
「えっ、ほんとだ。やさしい……」
ヌルはその声に振り向かない。
むしろ、気づかれないように動きを遅くする。
でも、なんだか──
少しだけ、うれしかった。
食後、食堂の奥でひと息ついていたとき。
「……ユカゲンくん、だよね?」
声をかけてきたのは、いつも無口な訓練生だった。
彼は自分のカップを差し出しながら、ぽつりと言った。
「ありがとう。……たぶん、君がやってくれてたんだと思う。
俺、寒いの苦手でさ。今日、手を洗ったとき、ちょっと泣きそうになった」
「……え?」
「“あ、誰かが気にしてくれてた”って思ったんだ。
たぶん、その一瞬で、今日一日分の元気出た」
ヌルは言葉が出せなかった。
でも、自然と頷いていた。
自分のしたことが、
誰かの“あったかさ”として届いた。
それだけで、十分だった。
【訓練所記録 第79期生:ヌル=ユカゲン】
スキル名:湯加減
分類:微温調整スキル → 精神的快適支援スキル(候補)
実務観察記録
対象:水回り/共用設備環境でのスキル応用
結果:本人の特性と合わせて“快適空間維持係”として評価
他者反応:複数名から“地味だけどありがたい”という証言あり
教官メモ(サーシャ=ベルモンド)
「“ぬるい”って、時に否定的に使われるけど──
本当は、緊張も痛みも和らげてくれる魔法の温度なのよね。
ヌルくんはそれを、自然にやってのけてる。
この子が“そこにいてくれること”が、誰かの安心になるのよ」