足音識別②:異変
――訓練所・夜間当番記録
記録官:カリナ=ラインベル(担当教官変更)
夜の訓練所は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
エコー=ステップは食堂の扉をそっと閉めると、足音を立てないように廊下を歩く。
──“何も起きない夜”を見守るだけ。
今日の任務は、それだけのはずだった。
けれど、彼の耳は休まなかった。
「……ん?」
寮棟へ続く中廊下で、彼は立ち止まった。
廊下の奥から、ゆっくりと歩いてくる足音。
重すぎず、軽すぎず。靴底は薄い。
この時間に起きているのは、当番の教官と、数人の補佐職員だけのはず。
──でも、何かがおかしい。
「昼間と、足音が違う……」
そう思った瞬間、背筋がひやりとした。
──その音には、わずかに“引きずるようなリズム”が混じっていた。
「この音……食堂で会話した、職員さんの足音…かな。
でも、さっきは……もっと均等だった」
左足がわずかに遅れていて、踵の落ち方が不安定だった。
階段を下りるときも、リズムに乱れがあった。
本人が気づいていないだけで、どこかに不調を抱えている可能性があった。
エコーは迷わず“異変通報用の結晶”に手を伸ばし、静かに警報を送った。
翌朝。面談室。
「適切な通報だったわ。……よくやったね」
カリナ教官が、まっすぐに彼を褒めた。
それがただの形式じゃないと、エコーはすぐにわかった。
「けど──どうして、異変だと判断できたの?」
「……昨日の昼、その職員さん、食堂で話してて。
そのときは、歩幅も均等で、踵からしっかり踏んでたんです。
でも夜は……爪先が先に鳴ってて、左足が少しだけズレてました。
階段を下りるときも、普通より間が長くて、リズムが崩れてて……」
カリナは、ふっと口元を緩めた。
「──言葉にできてるじゃない、ちゃんと」
「……え?」
「君、ずっと“うまく言えない”って思ってたでしょ。
でも今の説明、立派な“報告”だったわよ」
エコーは、小さく息を呑んだ。
「“気づける”だけじゃ、他人は守れない。
“伝えられる”から、守れるの。──君は、ちゃんとそれができた」
言葉が返せなかった。
けれど、胸の奥が、あたたかかった。
【訓練所記録 第79期生:エコー=ステップ】
スキル名:足音識別
分類:知覚型スキル(感覚/警戒系)
実地訓練記録(夜間当番)
異常通報:夜間巡回時、職員の歩行異常を察知し即通報
観察内容:左脚の挙動・リズム変化・段差処理パターンのズレによる体調不良検出
判定:未然通報により転倒リスクを回避。反応・判断ともに優良
教官メモ(カリナ=ラインベル)
「異変に“気づける”だけじゃ、任務は果たせない。
それを“伝える”──その一歩を、彼はちゃんと踏み出した。
あとは、経験の中で磨くだけ。
静かに、でも確実に、“頼られる存在”になっていく子だと思う」