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幾千もの朝 2

 とてもじゃないけど、私は夫のように稼ぐことはできない。

 だが、私が逃げ出せば、衣食住の全てにおいて、夫はたちまち困るだろう。


 家事も育児もできない夫のもとに子どもたちを置いて出ることはできなかった。

 かといって自分だけで子どもたちを養う自信はなかった。


 だから、歯を食いしばって耐えてきた。




 我慢できないと絶望する時もあった。


 そのたびに、夫の母から(まるで見ていたように!)何か届く。子どもが問題を起こす。進学にお金がかかる。


 子どもたちが自立するまではがんばろう。




 最後の子どもがやっと自立を果たしたとたんに、長年の不摂生がたたって、夫が倒れた。


 人の道として、見捨てられなくなった。


 そうこうしているうちに、とうとう数十年もたってしまった。




 いや、これは言い訳なのだ。

 本当に嫌なら、いつだって飛び出せばよかった。


 私に、自信と覚悟が足りなかっただけ。




 しかしそのおかげで、今の生活がある。


 ぜいたくしなければなんとか暮らしていけるし、親や子どもに心配かけずに済む。かわいい孫にも会える。

 地域にもなじんだ。


 こんな文章を作る時間も持てるようになった。





 狡猾な弱者は、物語のキャラクターとしては好きじゃない。

 いやらしくて、目を背けたい。


 だが、狡猾さは、弱者が生き延びるための知恵ともいえる。


 何かを得ようとしたら、何かを失うものだ。

 得るものと失うものとを天秤にかけて、慎重に見定めることを、だれが責められるだろう。



 人の生き方をあれこれ批評するのは、その人の人生に責任を取らずに済む人物か、責任を取りたくてしかたない要注意人物だ。




 自分をだましだまし生きてきた。


 ひょっとしたら、ある日突然、夫が心を入れ替えてくれるかもしれない。

 明日の朝にでも、ひょっこり夫が死んでいるかもしれない。



 趣味や読書に没入することでも、苦しさを忘れることができた。


 

 しかし現実は、ねばっこい泥沼で、這い出そうとすると引き戻される。



 この生温かい泥沼に生息しているうちに、私の内側も外側も泥に侵食されてしまった。


 私は泥になったのか。

 かろうじて形を保っているのだろうか。






 夫は年を取って、いささか気弱になった。

 やっと、老後の不安に気づいたのかもしれない。

 この頃では、私の意見を聞き入れてくれるようにもなってきた。


 今からわざわざ行動を起こさずとも、自然がそのうち解決してくれるのだろう。


 それが最も円満な解決だと、ずるい私はまた考えている。




 この生活と夫を、いさぎよくカッコよく捨てたところで、私には正直行く当てもないのだ。

 

 旅行カバンを抱えて、きょろきょろとあちこちを見回しながら、途方に暮れて立ちすくむ白髪交じりのおばさん。

 知らない人間たちの中で、すでに後悔している、若くもない体。


 そんな光景がまざまざと思い浮かぶのは、すでに気持ちが萎えているということなのだろう。




 とがって、切り開いて生きることに憧れたが。


 もう、そんな力業は無理なのかもしれない。





 目的のためなら、誰にでも平気で尻尾を振り、お腹を見せて媚びて、恥じるところがない。


 それでいて、小さな体いっぱいに、自分の矜持は保っている。




 そんな風に生きるのもいいのかもしれない。



 自分の中の小さな声を信じて、しなやかに、したたかに。




 あと幾千のときを。

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