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「大丈夫」は、だいたい大丈夫じゃない。

排泄介助から中央カウンターに戻ってきた長井を、大量のファイルを抱えた主任の遠藤が呼び止める。


遠藤「あ、長井さん」


長井「はい」


遠藤「14時から、余暇活動の映画上映あるでしょ? 準備、お願いしてもいいかな? 俺、ちょっと送迎に行かなきゃいけなくなっちゃって」


長井「分かりました」


遠藤「DVDは俺の机の上にあるし、スクリーンは男子更衣室にあるし、それから……」


長井「大丈夫です。分かってます」


長井はにこっと愛想笑いをして、話を切り上げる。

 

長井<倉本主任は悪い人ではありません。朗らかだし、主任という立場で横柄な態度をとるタイプでもない。自らよく動きますし>

長井<ただ、効率が悪いせいで、空回り感が半端ない。いつも何かに追われて焦っている。だから、なるべくその足を引き留めたくない>


長井「後はやっておくので、主任は送迎に行ってください」


遠藤「ありがとう。行ってくるわ」


走り去る遠藤と入れ替わるように、犬山君が長井の前に現れる。


犬山君「長井さん。着替え介助が終わりました。これから何かありますか?」


長井「えっと……」


長井<映画上映の準備、教えながら手伝ってもらおうか……でもなあ>

長井<もう1人の待機者―藤原さんなんだよなあ。マイペースな彼女に、1人待機は絶対させちゃいけない。おそらくコールの嵐が起こるだろから。利用者を待たせるわけにいかない……>


長井「犬山君。私、これから映画上映の準備があるから離れるね。今からは藤原さんの指示に従って、このままフロアの待機をして」


てきぱきと指示を出す長井。犬山君はすぐに返事をせず、少し困ったような顔を見せる。


犬山君「え、でも。長井さんは1人で大丈夫なんですか? 映画上映の機材を運んだりするの、けっこう大変だって聞きましたけれど」


長井「大丈夫。何度もやっているから」


即座に答えて、手の平で制する。


長井「じゃあ、行ってくるね。このフロア、お願いね」


            ※


スクリーンを両手で抱え、息を切らしながら歩く長井。


長井<この施設では、余暇活動と称したレクリエーションが存在します。楽しく一緒にクッキングをしたり、足浴をしたり、カラオケをしたり……>

長井<そして、映画上映>

長井<利用者さんを映画館に連れて行くことはけっこう困難なので、月に2度、リビングの電気を消し、カーテンを閉め切って映画館のように真っ暗にして、レンタルしてきた最新のDVDを流します。映画好きの方もけっこういらっしゃるので、この企画の評判は上々です>


長井<ただ準備には非常に手間がかかります。映画上映のためのスクリーンを、1階の男子更衣室から3階のリビングルームにまで運ぶ。この運搬作業は、非常にきつい……>

長井<スクリーン自体が長いし、重いし、正直1人で運ぶものじゃない>


長井<それに今日の私は、女の子の日で、めちゃくちゃ体がだるく腰も痛い。しかしそれを言い訳にすることはできないので、両手で抱え、懸命に運びます>


廊下やフロアを歩く途中、何人かの男性職員ともすれ違う長井。


倉本「……ふん」


施設長「今日、映画の日なんだ? 頑張れ、頑張れ。あとちょっとだぞ」


岸本「長井さん。この前の書類、まだ出てないよ。はやく出してね」


長井「……」


エレベーターに乗り、無表情で階数の表示される電光掲示板を見つめる長井。


長井<おかしいですよね。誰ひとり、「重そうだね。手伝うよ」の一言がないんですから>

長井<まぁ、いいですけど>

長井<スタッフルームで「男たちは気が利かない」とみんなイライラしていますが、私は気持ちをコントロールする術を見つけました>


3階でエレベーターを降り、再び重いスクリーンを抱えながらリビングルームに向かって歩き出す。


長井<それは、「はじめから期待しない」です>

長井<余計な期待をするから、裏切られた気分になってイライラする〉

長井<たとえ1人でスクリーンを運ばされて、通りかかる男どもが何も手伝ってくれなくても、私は全然平気です!>


            ※


長い道のりを経て、ようやく3階リビングにたどりつく。

スクリーンの設置を行う長井。

画面シートを伸ばして、固定のためにシートの先端に付いている輪っかを、支柱の金具に引っ掛けようと椅子に乗って必死に腕を伸ばす。


長井<この作業が、身長が154センチしかない私には苦行過ぎる……>

長井<さすがに助けを求めたい。だけど、ここのリビングルームは、みんながいるカウンターから離れた奥の位置にあって死角になっている。それに、この時間は用がないかぎりだれも来ない>

長井<わざわざ他の業務を止めて来てもらうのは申し訳なさ過ぎる。自分で頑張るしかない……>


足先に力を込めて、さらに腕を伸ばす。

その瞬間、激しい腹痛が長井を襲う。


長井「うっ……」


長井<痛い、痛すぎる……腰も痛いし、頭もがんがんする……>


痛みのあまり、椅子から落ちて床にうずくまる。


長井<大丈夫。すぐに治まる。きっと落ち着く……>


床にへばりついた右耳に、カウンター付近にいる職員たちの会話が聞こえる。


川端「やばい……この段ボールめっちゃ重い……」


男性職員「大丈夫?おれ、持つよ」


川端「え?いいですよ、悪いですよ」


男性職員「いいって。これ、どこに運べばいいの?」


長井<あぁ、ほんと、男ってバカだなぁ>

長井<分かりやす過ぎるんだよ。興味のない女と、興味津々な女の区別のつけ方が>

長井<べつに、興味を持ってほしいわけじゃない。私は、川端さんのように可愛くないし>


長井<けっこう口うるさい方だし、怒っているときは分かりやすいし、愛想もないし。男からすれば、いいところなんて全然ないと思う>

長井<ただ一言、「持とうか?」と言ってほしいだけ>

長井<でもやっぱり、期待するだけ無駄なんだな……あぁでも、犬山君だけは、「大丈夫ですか?」って言ってくれたっけ>

長井<なのに、私が「大丈夫」って答えたんだ>


長井<でもね、「大丈夫?」と聞かれたら、「大丈夫」としか答えられないんだよ。この10年の間に、そういう癖をつけてきてしまったから>

長井<私は、本当は弱くて、脆い。だけど、それだと潰されちゃうから。大丈夫じゃなくても、大丈夫なフリをするんだよ>


長井<まあ何よりさっきは、フロアに藤原さんを1人にして業務が滞る方がよっぽど恐ろしかったから……>

 

長井「痛い……」


長井<それにしても、こんな時にかぎって、痛みがなかなかおさまらない>

長井<誰かに、こんなカッコ悪いところを見られたくない。お願いだから、はやく治まって―>


犬山君「長井さん!」


顔の位置をずらして、少し上を向く長井。

そこには心配そうに見つめる犬山君の姿があった。


長井<なかなか戻って来ないから、呼びに来たんだ>

長井<せっかくの教える時間を無駄にしてしまった。私は、犬山くんの教育係なのに>

長井<こんなところでうだうだ言ってないで、しっかりしないと>


長井「ごめん……大丈―」


犬山君「大丈夫じゃないじゃないですか!」


長井の肩に優しく手を添えて、体調を確認する。


犬山君「すごい汗だ……長井さん、行きますよ」


長井「え? どこに……?」


犬山君「まずは医務室です。もし必要なら、救急車を呼びましょう!」


そう言うやいなや犬山君は、長井の肩と膝下に自分の両腕を回してお姫様抱っこをした。


長井「!」


長井の顔の筋肉は突然の行為に硬直しつつ、肌の色はみるみる赤く染まっていく。


犬山君「ちょっと揺れますね」


長井<いや……揺れますねじゃなくて! どういうこと⁈ この状況!>


長井「犬山君! お、おろして! 私、大丈夫だから!」


とにかく足をばたつかせて、下りようと試みる長井。しかし犬山君は、落とさないようにさらに力を込める。


犬山君「暴れないでください」


長井「おろしておろして! 自分で歩けるから!」


犬山君「倒れてたじゃないですか!」


長井「ちがうよ! そんなたいしたことじゃないし……それに、私重いでしょ⁈ 犬山君に申し訳ないから……」


犬山君「ぼく、こう見えて力持ちで移乗介助得意なんで!」


長井「それはフォローになってない!」


結局長井は犬山君に抱きかかえられたまま、医務室に緊急搬送される。

その間、長井は自分の真っ赤な顔を両手で覆いながら、唸っていた。


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