才能という言葉が嫌い
という言葉が嫌いだ。
才能ある者はそれを信じず、我々のような才なき者はそれが存在するのを当然のように知っている。
この世に不可能はある。そりゃあもう、山ほどある。エベレスト4個分はある。縦にね。
才能ある者は言う。
「それはあなたが僕がしてきた努力を知らないからです」
私は努力でなんとかなるものを才能とは呼ばない。才能ある者は壁の向こうにいるのだ。努力ではどうにもならない壁の向こうに。
また、努力できること自体が才能という見方もある。これについては「そんなの怠け者の言い訳だ!」と言われてしまうことが多いが、私はそうは思わない。
人はそれぞれ生まれ持った性格というものがあり、しっかり者かどうかは生まれた時点である程度決まっていると思うのだ。
小学校の宿題を数回しか提出したことの無い私はヤンキーだったのかというと、答えはノーだ。私はものすごく真面目で、授業中も積極的に手を挙げて発言し、テストでも好成績を収めまくっていた。
にもかかわらず、宿題だけは出来なかった。理由はいろいろある。
まず第一にめんどくさい。これが95%を占めている。「テストで100点ばっか取ってたんだから、全部分かってたんだから宿題なんてただの作業だからやりたくなかったんだ」という「だから」3連発の言い訳も思いついたが、これはただの後付けの理由でやはり本心は「めんどくさい」だったように思う。
次に、「誘惑が多すぎる」だ。
ゲームに友達、あとなんだったかな⋯⋯ゲームと友達とのサッカーくらいしか私の遊びってなかったのか?
まぁとにかく、楽しいものの誘惑だ。
私が宿題をする理由は「先生が怖いから」に他ならなかった。しかし、楽しいものの誘惑は毎回その恐怖を超えてくる。その度に私は負けていたのだ。
いや、やっぱこれ怠け者の言い訳だな。
ただ、思ったことはないだろうか。「あの子はなぜあんなに宿題をしっかりやれるのだろう」と。あの子にも友達はいるし、ゲームも持っている。それなのに、ちゃんと毎日宿題をやってくる。あの子と自分の違いはなんなのか。それが才能なのではないか。
才能という言葉を使うから嫌がるのだろうか。「向き不向き」と言ったらどうだろうか。
また、私はひとつ疑問に思っていることがある。
例えばすごいミュージシャンが冒頭の言葉を言ったとして、じゃああなたはミュージシャンの道を選ばなければサッカー選手にもなれたし、政治家にもなれたし、ソムリエにもなれたんですか? と聞きたくなる。
ミュージシャンになったのが才能ではなく努力によるものなのであれば、その人は努力すればなんでも出来ると言っているのと同じことになると思うからだ。
大谷翔平より努力している野球選手はいないのか?
私より成績が悪かった子は全員努力0人間なのか?
これらは全員の努力を数値化してみないと分からないことだが、なんとなく違う気がしないだろうか。
才能は存在する。
この文章を書いている中で思ったのだが、おそらく「才能という言葉が嫌い」勢は才能という言葉が嫌いなのではなく、「才能ある奴はなんちゃらかんちゃら」と言って動こうとしない人間が嫌いなのだろう。
禿同。
もう1つ。
才能のある人間が「俺は才能ある!」と発言すると一気に雑魚キャラになってしまうような気がするので、やはり才能という言葉は使わない方がいいのかもしれない。パチンコ屋行きたい。おわり。