(七)
「ヒョヒョヒョ。よう気づいたの、カリガネ」
笑ったのか、ただ息をしただけなのか。よくわからない音が、薄暗い岩屋のなかに響く。
カリガネが人の子を診せたいと連れてきたのは、森の奥深くに暮らす、イヒトヨさまの祠だった。
イヒトヨさまは、ボクのじいさまのじいさまの、そのまたじいさまのじいさまのじいさまが生まれた頃から森で暮らしてるとか、元々は神様にお仕えしていたとか、いろんなことがウワサされる、とんでもなく長生きな鳥人族。
「そうじゃな。この女の子の喉は、どこも悪くなっとらん」
どれだけ生きてるのか、誰も知らないほど長生きなイヒトヨさま。そのしわがれた手が、人の子の喉を何度もなぞる。
「じゃあ、ボクたちとしゃべりたくないから黙ってるんですか?」
「それは違う。ほれ――」
「ーー! ーー―ー!」
グッと押さえつけられた喉。息が出来なくなった人の子が、苦しげにもがき、しわがれた手を振りほどく。
「今のでわかるじゃろ。この子は息はするが、音は出しとらん。普通なら首を押さえられれば、『ガッ』とか『グッ』とか音がもれる」
「た、たしかに」
今も喉を押さえ、何度も何度も息をくり返すけど、ヒューヒューと、風の音しかあふれていない。
「でも、どうしてそんなことに」
「それは、ワシにもわからん。ただ、どうしようもなくつらいことが、この女の子の身の上に降りかかったんじゃろうなあ」
イヒトヨさまが、羽根の薄くなった翼を震わせた。
「かわいそうに。砕けた心が喉に詰まって、声を出せんのじゃ」
砕けた心が喉に。
「じゃ、じゃあ、その砕けた心を取り除いたら、またしゃべりだすのか?」
ノスリがたずねる。
カゼをひいて、喉が痛くて声が出ないのなら、ハチミツを舐めて治す。けど、砕けた心がふさいだ声は、どうやったら治せる?
「わからん。心なぞ、取り除くこともできなければ、もとに戻してやることもできぬ。起きてしまった出来事は、なかったことにはできぬからのう」
「そんな……」
「心の傷が癒えれば、また喋るようになるかもしれんが、こればかりはどうにもわからん」
「じゃあ、ずっとこのままなのかよ?」
「それもわからん。明日にでも喋るようになるかもしれんし、一生このままかもしれん」
イヒトヨさまが、深く息を吐いて、シワに埋もれかけた目を、何度もしばたたかせた。
「神ならざる身で、わかることはそれだけじゃ。もどかしいが、治してやることもできん」
神代から生きてる(かもしれない)、叡智に富んだイヒトヨさまでも無理なことがあるのか。
驚きと落胆を三人で交わし合う。
「ぬしら、ワシを全知全能とでも思っておったか?」
イヒトヨさまの口角が、ニッと持ち上がった。
「ワシはなあ、ちょっと長く生きただけのババじゃて。神様方から見たら、……そうじゃのう。尻に卵のカラを付けた、頼りないひよっ子じゃよ。ヒョヒョヒョヒョヒョ」
イヒトヨさまが、歯の少ない口を開けて笑う。
「なあ、イヒトヨさまでひよっ子だとするとさ、ボクたちって、神様から見たら、何なんだろうな」
「巣に産み落とされた卵?」
「生まれてもねえのかよ」
「ヒョヒョヒョ、そう残念がらずともよい。卵から生まれてもないお主らは、まだ世の中というものを知らぬ、無垢なる存在じゃ。ゆえに、臆病でもあり、大胆でもある。もしかしたら、そのような者こそ、この女の子の心を治す道を見つけることができるかもしれぬて」
「本当ですか?」
カリガネが食いつく。
「カリガネ、お前……」
「惚れたのか?」
「違うよ。僕は、一度でいいから、人の声ってやつを聞いてみたいんだ。人って、鳥や獣と違って、どんなふうに鳴くのか、気になるんだよ」
「それは……」
「普通……なんじゃないのか?」
ノスリと顔を見合わせる。
人の子っていっても、姿形は翼があるかないか、それだけの差しかないし。
「ええーっ。でも人は〝歌う〟って聞いたよ? ね、イヒトヨさま」
カリガネが、イヒトヨさまに加勢を願う。イヒトヨさまが「うむ」と頷く。
「歌って、ようするに、鳥の〝さえずり〟でしょ? だったら、それがどんなものか、さえずりとどう違うのか、聞いてみたいじゃないか」
「ホント、知りたがりだよなカリガネは」
「な」
ノスリと共感しあい、ともに頷く。
「そういうノスリは何か、この子にないの?」
「うえっ!? オイラっ!?」
驚いたノスリが自分を指差すと、カリガネがウンと頷いた。
「オイラは別に……、そうだなぁ。さっき、この子がオイラからじゃ見向きもしなかったのに、ハヤブサからだと美味そうに食べたのが気に食わねえから、いつかオイラがあげたやつでも『おいしい』『ありがとう』って笑ってくれたらうれしい」
「なんだよ、それ。ボクに対する挑戦か?」
人の子ウンヌンではなく。
「負け嫌いだよね、ノスリって」
「一番体が小さいくせに」
「うるさいなあ。年下なんだからしょうがないだろ。今に見てろよ、オレはハヤブサよりもカリガネよりも、誰よりもデカくなってやるからな」
「ええ~、それは無理だよ。ハヤブサはともかく、僕まで抜くのは無理だよ」
「こら、なんでボクは抜かれる前提なんだ」
「だって、ハヤブサは、ノスリよりちょっと大きいだけじゃないか」
「だからって、ボクだってこれからもっと大きくなるんだからな!」
ノスリが背伸びをすれば、ボクもつま先で立つ。ノスリが翼を広げれば、ボクも負けじと羽根を広げる。カリガネは僕らの頭の上で、背を計るように、手をヒラヒラと動かす。
「えーい。やかましいわ。話が終わったのなら、とっとと祠から出てゆかぬか!」
イヒトヨさまの一喝。
「すみませ~ん」
人の子を抱え、スタコラサッサと祠を出る。
「……ねえ、ハヤブサ」
三人で森の空に飛び上がってから、カリガネが言った。
「キミは、その子に何を思うの?」
カリガネが歌を聞きたいと思ったように。ノスリが、「ありがとう」って言ってもらいたいと思ったように。
ボクは――。
「別に。こうして空を飛ぶのに担ぐのも面倒だから、サッサと元気になって、自分の里に帰ればいいのにって思ってる」
空を飛ぶのにも、こうしていちいち抱き上げなきゃいけない。こんな面倒な人の子なんて、いなくなればいい。妹なんていらない、元の普通な生活に戻ればいい。
そう思うことにした。