なろうへの批判に対する再批判
以下は単なる私見である。
世の中になろうに対して批判する人、或いは快く思っていない人は少なからずいる。彼らの主張はだいたい以下のようなものだ。
文章が稚拙だ。内容が薄っぺらい小学生の日記だ。ストーリーが行き当たりばったりだ。感情表現がなってない。キャラクターが立ってない。読者をひきつける魅力がない。技術的背景や時代考証をほとんど調査していない。細部に誤った内容が多い等々。こんなゴミ屑みたいな素人小説は読むべきでない。
しかしながら、そんなゴミ屑みたいな小説を好んで読んでいる人はたくさんいますし、書籍や漫画の購入者も一定数存在します。批判者はそういう読者を馬鹿と呼びます。馬鹿な作者が馬鹿な読者を増産していると。
たしかに普通の小説家の書く小説と比較すると大半がゴミ扱いされても仕方がないのも事実でしょうし、書籍化やアニメ化された作品でさえ比較されれば稚拙なものが多いと判断されるのも理解できます。素人が書くものなので当たり前といえば当たり前なんですけど。
ただ小説に対してこだわりの無い一般読者にとって小説は単なる消費物にすぎません。仕事もうまくいったし今夜は鰻でも食べようとか、仲が良いとは言えない友人の結婚祝いは安いものでいいかとか単なる選択の問題です。疲れずにすらすら読めるなろうが好まれるのは消費者の需要にマッチしたからです。単なる選択行動の問題です。素人が書いたものでも問題ありません。
一方、批判者の方々は小説に対し並々ならぬ拘りがあると思います。小説とはかくあるべきだと。だからそれに反するなろうを読む読者は馬鹿なのだ。感情的にはすごく理解できます。誰だって大事にしているものを軽んじられたり、否定されたら許せないですよね。ただ再度言いますけど一般人はそんなこだわりは無いです。
世の中馬鹿が多いというのは賛同します。私の馬鹿の定義は自分の頭で考えない人です。メディアや人が言う事を鵜呑みにする人のなんと多い事か。最近ではウクライナ紛争です。一切の異論を許さない同調圧力で違和感を感じた人がどれほどいた事か、成年男子を有無を言わさず皆兵にし、各国首脳に高圧的に乞食をする大統領に異常だと感じた日本人がどれほどいた事か。結局賢い選択をしたのはハンガリーとインドでした。世の中馬鹿で溢れています。学歴の高い馬鹿も溢れています。為政者にとって馬鹿が多い事は好ましいのでこの流れは変えられません。