水小人(みずこびと)の恐怖
仕事から帰っては倒れるように眠る、とはなかなか行かなかった今年の夏。
冷房の不調が原因であった。
ここの備え付けの冷房は旧式で、微妙な風量調節ができない。
つけると強風が吹き付けて来て、そのまま寝ては風邪を引きかねなかった。
ならば、タイマーを使えば良いとなるが、残念ながらそれは故障しておった。
それで俺は工夫をして、つまり夜、冷房で充分部屋と体を冷やしてから、冷房を消して寝につくようにしておったのだが。
ただ当然夜の間にも部屋の気温は上がる。
寝苦しき夜と戦いながらの夏となってしまっておった。
その夜は特に寝苦しかった。
その眠っているのか、起きているのか、定かならぬ中。
ポタポタ・・・。
音が聞こえておった・・・。
そして朝。
起きる。
パンをトーストする時間も惜しんで、口に放り込み、コーヒーで流し込む。
ワイシャツとスーツのズボンを身につけ、ネクタイを締め、靴下をはく。
それから上着を手に取り、革靴に足を入れた。
瞬間、俺はウヘェとすっとんきょうな声を出すことになった。
靴がびしょ濡れだったのだ。しかも中までである。
そのせいで靴下も濡れてしまった。
昨夜雨の中を帰った記憶もなかった。
ただ昨夜の音を想い出すを得た。
上から水漏れしておるのか。
恨めしげに、玄関の天井を見るも、特に今は漏れていないようであった。
俺が住んでいるのは築四十年以上のおんぼろアパート。
まあその分、家賃は安いのだが。
大家に文句を言わなければと想うも、それをやっていて遅刻しては元も子もない。
何より、今、漏れていないようだからと、俺は後回しにした。
その夜、帰宅した。
当然、俺は真っ先に玄関の天井を見た。
漏れていなかった。
こうなると、ややこしい。
昨夜のみかもしれないとも想う。
当然修理をなすとすれば、業者を呼ぶことになる。
こうしたものは、修理するしないにかかわらず、料金が発生するのを知っておった。
つまり大家が業者を呼んで、見ましたけど、壊れていませんでしたとでもなれば、かえって面倒臭い。
料金も発生するし、大家にも手間を取らせたのに、となる。
まずは俺の目で水漏れを確認する必要があった。
俺はいつもの如く冷房で部屋と体を冷やしてから、寝についた。
やはり寝苦しき中のこと。
ポタポタ・・・。
また音が聞こえておる・・・。
俺は無理矢理目を覚ました。
無論、水漏れを確認するためである。
天井灯を点けると、早速玄関の方に向かう。
そこの天井を見るも、正直よく分からなかった。
この部屋の造りもあって、そもそも玄関の方は暗く、その天井となれば尚更であった。
一応、玄関の扉の上には、明かり取りの透かしガラスがはめ込んであり、朝の方が良く見えた。
あの時は漏れておらなかった。
懐中電灯は・・・。車の中に入れっぱなしであったのを想い出す。
当然、取りに行くのは面倒と、俺の性格ならば、そうなる。
しかし既に二夜続けて、このポタポタに眠りを邪魔されておるのだ。
これが明日の夜も、そしてその次の夜もと、ずっと続くのは、たまったものではなかった。
確認さえできれば、大家に修理を依頼できるのだから。
俺は玄関横のキッチンの台の上に置いてある箱の中に手を伸ばす。
そこから玄関の鍵を取る必要もあって、ろくに下も見ずに、サンダルがあるらしきところに足を伸ばした。
狭い玄関である。
それほど大きく外すことはあり得ないし、外したとして何があろう、固い床しかないと言う奴である。実際これはいつものやり方であった。
ぬめり。
確かにその感触があった。
俺は再びウヘェとすっとんきょうな声を出すことになった。
しかも昨夜の数倍の音量とならざるを得ない。
俺・・・何で・・・はだし。
たまがり上がってそこを見ると、ぬらぬらとした素っ裸の小人がおった。
俺は絶叫することになる、いや、そうしたかったのだが、声が出ない。
俺は後ずさり、いや、そうしたかったのだが、そうすることもできない。
腰が抜けておったのだ。
へなへなとそこに腰を落とす。
お前・・・何で・・・はだか。
そこへあろうことか、その者が口を開き、しかも人の言葉を話し始めた。
「止めてくれ。」
と叫ぶも、やはり声が出ない。
喉から出るのは、ヒーヒーとの音ばかりである。
こちらの様子に何の気遣いも憐憫も、その者が示すことはなかった。
「貴方に危険をお伝えに来ました。重大な危険です。」
おまけに随分と事務的な口調である。
「お前のせいで、心臓が止まりそうなんだが。これ以上の危険があるのか。」
そう言い返した積もりであったが、相変わらず俺の口から出るのはヒーヒーとの音のみ。
「貴方は水生人間になります。地上では息ができなくなります。水の中でしか生きられなくなります。」
その言葉に続きがあったのか、それともそいつは言いたきことの全てを伝えたのか。
いずれにしろ俺が気絶する前に、聞くを得たのは、そこまでであった。
次の日の朝。その透かしガラスから入り込む光により、俺は目を覚ました。
玄関でひっくりかえっておった。
足下を見る。
サンダルがびしょ濡れになっておった。
急ぎあの小人の姿を求めるも、見つからなかった。
当然すがるような想いで、天井を見る。
水漏れであってくれと、そう願う。
しかし、そうではなかった。
といって、それで昨夜のことが信じられるはずもなかった。
何らかの理由で、例えば上の住人の水の使い方により、夜だけ水漏れしておるのではないか。
そしてその水の音のせいで、随分と変な夢を見たのだろう。
そう考えると納得できた。
小人なんてそもそもおるはずがない。更には俺が水生人間になる。
そんなのありえんだろう。
当然、俺は仕事に行く。
ただ昼を迎える前には、随分と息苦しくなっておった。
小人の言葉を想い出さざるを得ない。確かにこう告げておった。
『地上では、息ができなくなります。』
俺は課長に早退を願い出た。
無論、小人の言葉を信じた訳ではない。辛抱できぬほど、息苦しくなったのだ。仕事どころではなかったし、やりたくても、全くできない。
一端、アパートに帰って病院に行くことにしたのだ。
普段は部下の体調を気遣う上司ではないが、やけにあっさりと認めてくれた。
よほどに俺が顔面蒼白になっておったのかもしれぬ。
俺は何とか最寄り駅までたどり着いた。
具合は更に悪くなっておった。
そのまま病院に直行すべきではないかと想うほどに。
ただ俺には妙に几帳面なところがあった。
やはり保険証を取りに行くことにする。
アパートの方へ向かう。
それほど遠い訳ではない。
十分ほど。
おんぼろで、しかも駅から遠いとなれば、いくら家賃が安くても、俺も借りぬ。
何とか・・・たどり着けそう。
とはいえ、意識は半ばもうろうとしておった。
駅からアパートの間には〈幸いにして〉川がある。
幸い?。何を考えているんだ。とにかくアパートに戻らなくては。
〈そこまで行く必要は無い〉
何だ。これ。
〈すぐ、そこに水がある〉
水ってドブ川じゃねえか。
〈早く飛び込め。〉
2メートル以上あるぞ。
しかし次の瞬間、俺の体は、既に橋の手すりの上にあった。
怖えよ。よく見たら3メートル以上あるじゃねえか。
〈早くしろ。死ぬぞ。〉
俺の体は宙に舞っておった。
俺は水生人間となっても、記憶を保っておった。
その中に人面魚というのがあった。
頭のところに人の顔そっくりの模様があり、往時の人々の話題をさらったのだった。
それで俺は『当代の人面魚でござい』とばかりに、ドブ川から顔をのぞかせる。
すると人々が橋の手すりのところに集まり、こちらを指さして騒いでいる。
それから、俺はこれを毎日の楽しみとした。
しかし日が経つにつれ、どうにも俺の意識は薄れ出しており、更には
〈身を隠すのだ〉
〈大きな川へ〉
〈海へ〉
との声が聞こえるようになっておった。
それは日々大きく、また度々となっておった。
やがて俺は意識も記憶も失うのかもしれぬ。
ただそれまでは
『ドブ川の人面魚でござい』
と水面に顔を出す日々を送ることだけは間違いない。
俺は隠れる気なんかねえぞ。
何かが俺の記憶も意識も隠してしまうまでは。
(完)