出会いの巻 宇宙と薬と青年と②
「すまない……」
「はっ、いいえ、大丈夫です!」
沈鬱とした男の声に、フローラは夕食の献立に飛ばしていた意識を引き戻した。
男を半ば引きずるようにソファに寝かせてしばらく。
身動き一つせず、声も聞こえなかったので眠っているかと思ったのに。
「あの、お加減は?」
「先ほどより随分良い。……付き合わせてしまって申し訳ない」
男はフローラの濡れたハンカチを手に、ゆっくりと体を起こす。
初めて重なった視線に、フローラは息をのんだ。
――限りなく薄い色彩の、切れ長の青い瞳。フローラよりもずっと、そう、雪のように白い肌と、長い睫毛、そして形の良い唇といった構成は、まるで人形のようだ。
人形が、動いている。一瞬本気でそう思ったが、その人形は溜息を吐いて首を振った。
「申し訳なかった。ご厚意に感謝する」
「ほ、本当に大したことはしていませんからっ」
口が動いた。やはり人形ではないのだろうか。
フローラの凝視に青年は気づいたのか、眉を寄せた。
「……何か?」
「動いたので、本当に人形じゃないんだなと思って……あの、すみません」
「何について謝っているんだ、君は」
不可解そうに顔を顰めたその様子さえ、フローラはまじまじと見つめてしまう。髪の色は瞳の色と似通っていて、さらさらだ。睫毛はなんと金色をしている。美術品か!
「僕が人形に見えるとでも?」
「はい」
即答した。しまった、いけなかった。
アリアにも再三、「嘘も方便!」と叱られているのだが、どうにも遠回しな物言いや比喩は苦手だ。
改めてきりっとした顔で答えてみせる。
「いいえ!」
「どっちなんだ!」
素早い突っ込みだった。返答に苛ついたのがわかる。わかりやすい。こんなにあからさまに表情を変えるのだ、人形であるわけがなかった。
人形のように美しい青年がこの世界に入るということだ。そして、この人はそういう人だということ。それだけ。
それだけでも十分羨ましい。もっとも、フローラがその美貌を手にしたとしても森に埋もれて宝の持ち腐れだ。持ち腐れ、あたりで妙に納得して、諦めた。
「人形のようにお美しかったので、驚いてしまいました。失礼に見てしまってすみません」
小さく頭を下げると、青年は驚いたようだった。少しだけ目を瞠って、視線を逸らす。
「……そのように見られることには、慣れている。快いものではないが。それに」
頭を上げたフローラに、青年は少しだけ表情を緩めた。まるで雪どけの春のよう。フローラにしては上々な喩えだろう。
「なんというか……はっきり言う人だな、君は。謝罪は受けよう。……この顔は、故郷ではよくある顔だが、他の星ではやはり目立つようだな」
「とっってもお美しいと思います!」思わず力も入るというものだ。
「そ、そうか……」
困ったように笑った青年は、改めて、とソファに座り直す。
「それはそうと、先ほどは失礼した。いつもなら酔い止めを飲んで乗船するのだが、あいにく寄った店が品切れだったんだ。大型だから大丈夫だろうと高を括っていたのだが……ちょうどシャトルが急旋回をした所で気分が悪くなってしまった」
介抱してくれたことに礼を言う、と青年は深々と頭を下げた。
「頭を上げてください! 気にしていませんし、本当にここへ運んだだけですから」
「それだけでも申し訳ない。重かっただろう。それに君のハンカチを濡らしてしまった」
青年がまだ握っていた手の中のハンカチを見て、思い至る。青年の額に長々置かれていたハンカチを返してもらうのもなんだか座りが悪い。
「それ、いいですから。捨てちゃってください。まだたくさん持っていますし」
「いや、だが……」
「そのままもらってもいいですけど」
「それは、その……洗ってから、改めて君に」
「本当にいいです」
不毛な争いだと思ったのか、青年はまたしても「感謝する」と頭を下げた。律儀な人だ。
それにしても、とフローラは話を変えることにした。町を出てからあまり人と話していなかったので、話せる相手がいて嬉しい。
シャトルのことも、もし知っていれば聞いてみたかった。
「それより、さっきシャトルが急旋回したって言っていましたよね」
ああ、と青年はうなずく。
「それってどうやってわかるんですか? もしかしてシャトルの関係者の方なんでしょうか」
シンプルな装いだが、この人形のような、いや美術品のような美しさを持つ彼が、シャトルの乗務員には到底見えなかったけれど。
「……は? あ、いや、失礼。言っている意味が分からないのだが」
このシャトルは全くといっていいほど揺れがない。広大な宇宙で右へ行ったとか、左へ行ったとか、車のように揺れがないからわかりようがないのに、この青年は「急旋回した」と言った。てっきりこのシャトルの関係者かと思ったのだが、違うのだろうか。そう告げると、青年は不可解そうに眉を寄せたまま首を振った。
「いや。僕はただの客だ。急旋回、しただろう。さきほど、思いきり重力がかかったじゃないか」
「重力……? いえ、全く感じませんでしたけど」
あまりに不思議なことを聞いて、思わず首をひねる。かすかな揺れさえほとんど感じないのに。
けれど青年はフローラ以上に驚いたようだった。
「何だって? 先ほどの重力を何も感じなかったというのか」
「先ほども何も……この船に乗ってから揺れだってほとんどないじゃないですか?」
「なっ……! 本気で言っているのか君は! 重力に引っ張られたその揺れで、僕は気分を悪くしたんだぞ」
「私、本当に感じませんでしたけど……」
もしかしたらこの自由スペースにいたからかもしれない。そう告げてみたがあっさり却下された。
「この重力を感じないなんていうことが、本当にあるのか……」
呆然とした様子で言われたが、フローラには全く実感がないのでわからない。
「でも私、車酔いはするんですよ。ほら、ここに酔い止めも持ってますし」
ポケットから出した酔い止めを、青年は食い入るように見つめてきた。……お腹が空いているのだろうか。
「違う。その酔い止めは、乗船するときに買えなかった薬と同じなんだ」
どうも口から零れていたらしい。
この青年、否定するときは容赦がないので、いっそ小気味よかった。容赦がない言い方をするくせに、用意できなかった自分に「不甲斐ない」と落ち込むところがギャップがある。
「そうですか。私はこの船で酔わないみたいなので、よかったら差し上げます」
どうぞ、と差し出したそれに、まだ白い顔のままの(元々そういう顔色なのかもしれないが)青年は、物欲しそうに見たその目をぐっと閉じた。
なぜそんな顔をするのだろう。
「いや、それは君が持っていると良い。何かの拍子に酔うかもしれない」
「でも私、本当にこの船に乗ってから揺れを感じないんです。感じるんでしょ?」
「それは、そうだが……」
「だったら困っている人が使えばいいと思います。だからこれ、使ってください」
はっきり口にすると、青年は少し迷ったものの、再び深く頭を下げてそれを受け取る。
「本当にすまない。何から何まで……」
いいえ、と答える前に、フローラのお腹がきゅるる、と鳴った。
まるで「薬は気にしなくていいよ。でもお腹は空いているの!」と青年に訴えたようではないか。
……なんてみっともない。今鳴ることないでしょう私のお腹!
かあっと顔が熱くなって、赤面したのが自分でもよくわかった。おもわず俯く。
しばしの沈黙の後。
かすかな笑いが耳に届いて、思わず顔を上げると、青年は笑いを堪えるように口元に手を当てたまま、「物々交換といこうか」と、素晴らしい誘いを提案してくれたのだった。