拾伍の世界①
拾伍の世界――監察官の話――廊下にて
「………………はい。……はい。…………はい。わかりました……失礼します」
東雲情報統制機関。おそらくバーストでの通信は、次に帰還の連絡をして最後になるだろう。
「終わったんだよね、やっと。…………むぅ。あんまり実感無いけど」
早一週間。ケイテンが倒れ、バーストにおける監察官としての仕事の終わりに目処が立って。
この世界の住人にケイテンの支配が残っていないかの調査。ケイテン本体に意識を掌握された獅羽マオの様態の観察。ケイテンの産物であるエル・ガブリエルのその後の状態の把握。そして、今までバーストで得た情報をレポートにして報告。それが先日、機関から通達された最終任務。
仕事は決して少なくないが……それらの仕事を終えればバーストからはおさらば。晴れてお役御免といったところだ。
「それにしても『さっさと帰ってこい』か。せっかく慣れてきたんだけどなぁ……」
随分長くバーストで暮らし、すっかり染まってしまったことを感じる。潜伏当初は「さっさと任務を終わらせて帰りたい」という思いでいっぱいだったのに、いざ帰還が目前に迫ると随分感傷的になっている自分がいる。
絶え間なく異世界の民が訪れるこの世界において、異邦人と交流し、その様子や状態の記録・報告も任務の一つだった。当初は随分戸惑ったし、きっとこの世界にも史郎くんがいると知らなければやってられなかったと思う。
バケモノと揶揄される連中の吹き溜まり。そんな2-B教室における最初の一週間は、正直苦痛でしかなかった。異世界のオールスターの中に常人など居ようはずがないことはわかっていたつもりだし、潜入任務における順応力には自信があったのだけど……2-Bの彼ら彼女らはあたしの想像の遙か上を行っていた。そんな中には関わりたくない連中もたくさんいたが……それでも任務である。記録・報告が満足にできないのであれば、潜入任務からは外され、ケイテンを討つ絶好の機会を他人に譲ることになってしまう。「それだけはなんとしてでも!」という意気込みで、史郎くんが側にいることを心の支えにして、何とかやっていた。
しかし、一ヶ月も経たない内にあたしは順応した。あたし自身の環境適応能力の高さには正直驚かされた。しかしながら毎日奇人変人を眺めていれば、それは慣れもする。史郎くんなどいつまで経ってもあたふたしていたが、その変わった反応を見るのがむしろ楽しくなっていた。「慣れ」とは恐ろしいものだとつくづく感じた。
「みんなともお別れかぁ……」
いつもその世界で仲良くなった人たちとの別れ際には、既に彼らの精神はケイテンに支配されており、ただケイテンへの怒りに任せて去ることが常だった。
しかし今回は憎きケイテンは倒れ、みんなのままみんなと別れることになる。今までから考えれば随分と喜ばしいことのはずなのだけれど……何て言ってしまえばいいのかわからない自分がいる。思えば、まともな別れの言葉なんて言ったことがないことに気付く。
そんな風に佇んでいたあたしの前に、ふいに見知った二つの顔が現れる。
「どうしたんだ、ナツキ? 珍しく浮かない顔をして」
「そうですよー。マオちゃんは力を取り戻しましたし、世界は平和になったんですから、ナツキさんも笑顔にならないとダメですよー」
「あら、ちょっとらしくない表情見せちゃったかもね。気にしないで大丈夫よ」
そう言って向けられたマオとエルの笑顔。
マオが転入してからしばらく、この二人は距離があったように思うが……この頃はうって変わって仲が良くなったみたいだ。事件以来、あまり女の子のオシャレを知らないマオに、エルが化粧の仕方などを教えているらしい。
「それにしても、急に仲良しになったみたいじゃない。あたしの知らないところでイチャイチャしているのを見ると、ちょっと妬けるわね」
「んな!? べ、別にイチャイチャなんかしてないぞ」
「ふふーん、羨ましいですかナツキさん? でも女の子同士なんですから、これくらいのスキンシップくらいとってもぜーんぜん大丈夫なんですよー?」
そう言って、エルはマオに抱きついてみせる。抱きつかれてあたふたしているマオの表情など最高に可愛かったが……もうしばらくしたらこんな彼女たちも見られなくなると思うと、少し寂しくもある。
「や、やめろ、エル。周りに痴女とでも思われたらかなわん」
「いいじゃないですかー、マオちゃん。最近は女の子同士っていうのも、男の子の間で流行ってるみたいですよ?」
「そ、そうなのか? そういうのには疎くてだな……き、如月もこういうのが好きなのか?」
「あれれぇ? どうして迅様の名前がここで出てくるんですかね、マオちゃん?」
「きょ、興味本位からだ。……深い意味はない」
「興味本位でもそんな言葉、普通は出てきませんよー?」
「…………くむぅ」
「こらこら、あんまりいじめてあげるのはおよしなさい。それから、迅くんはそういうのにはたぶん興味無いと思うわよ?」
「えぇー、そうですかぁ」
そう言ってエルはちょっと残念そうにマオから離れた。
「……それにしてもどうしたんだ、ナツキ? 『ケイテン』とやらの野望は砕けて、ナツキの気に病む種はなくなったはずだ。なのにそんな顔をされると、気にしないでと言われても気になる」
「あら、本当に全部終わったのかしら?」
あたしの発言に、エルがにわかに表情を強張らせる。それを映したマオの表情も些かの曇りを見せる。
「…………冗談よ。全部終わった。あとは、あたしが報告書をまとめてこの件はおしまい。何も心配することはないわ」
「それなら、いいが……」
マオは何か言いたげだったが、一瞬あたしの顔を見た後、何も言わずにエルの手を引っ張って去っていった。きっとあたしは不自然なほどに笑顔を作ってでもいたのだろう。
「きっとこの世界からいなくなれば、みんなはあたしの存在を忘れる。あたしも、色んな世界を巡ればゆっくりであってもきっとみんなの存在を忘れるだろう。仕事だもの、仕方ないよね」
あたしは監察官。仕事が終われば帰還する……ただそれだけの話。十七歳――年相応の少女のごとく、センチメンタルな気持ちでいっぱいになるなんてらしくない。
「本当に全部終わったの?」――そんなことを呟いてみることで、まだこの世界に残る口実を探している自分がいる。終わっていて欲しい気持ちが大半を占めているのに、どうしてまだ続いてほしいなんてどこかで思っているんだろう。
「あれ、ナツキちゃん。帰らないの?」
ぼんやりと教室の後ろで思索に耽っているところを、刹那、見知った声に呼び戻される。
『帰りたくない』――そんな気持ちを抱かせるのは、きっと目の前の彼。きっと引っ掛かってるのは、この人と別れることになってしまうこと。
「ちょっと帰りたくなくってね」
「らしくないね」
「あら、本当は史郎くんを待ってたのよ?」
「らしくな……ってえぇっ!?」
あたしの冗談に、いつも仰々しく反応を返してくれる史郎くん。彼はいつもこんなに全力でリアクションしていて疲れないのだろうか――なんて最初の頃は思っていたけど、今となってはこの反応を見るために冗談を言うのが日課になっている。
だけど、今回のは冗談であって冗談ではない。史郎くんを待っていたのは事実だ。
「一緒に、帰ろ?」
「…………………」
無表情のまま無言で目だけをひたすら泳がせる史郎くん。
「………………史郎、くん?」
「最近変だよナツキちゃん。休み時間に僕の手を組んでみたり、昼休みに僕の席で一緒にご飯を食べてみたり、勉強しに僕の家を訪ねてみたり、夜寝る前に電話してみたり、休みの日に映画に誘ってみたり……あげく、急に僕の背後から抱きついてみたり」
「ごめんなさい。もしかして、迷惑だった……?」
「迷惑なわけないじゃないッ!! 嬉しいよ! 嬉しすぎるよ! もう死んでも良いと思ってるよ! でも……」
「でも?」
「どこかおかしいよ、ナツキちゃん。そもそも、僕みたいなてんで魅力のない男に好意を寄せてくれる段階でおかしいんだけど、それにしたって最近は顕著だよ。いつものナツキちゃんなら僕のことをからかって誘惑するようなことはあっただろうけど、こんなあからさまにベタベタすることはなかった。そりゃあ、僕も男だから嬉しいけど……やっぱり、変だよ」
どこか難しい表情でそんなことを言う史郎くん。「変だよ」と言う割には、その言葉に明確な拒絶は含まれていない。
「やっぱり、変よね…………ごめんなさい」
「い、いや! べ、別に変だからダメとか思ってるわけじゃないんだよ。ただ、らしくないな、って」
「いいの。わかってるわ、史郎くんの気持ちくらい。本当は自分でもらしくないって思ってるんだもの、そりゃ史郎くんに変に映らないわけないわよね。だけど……」
そう言ってあたしは史郎くんの背中に手を伸ばし、彼の胸に顔を埋めた。今までできなかったこと――そんなことをする前に、ただプラトニックな関係なまま別れてしまった悔しさや辛さを思い出しつつ、目の前の彼に今までの思いをぶつけた。
「もう、たぶん貴方に会える時間はそんなに長くないから。甘えられるだけ、甘えさせて欲しいな」
「――ッ!? ナツキ、ちゃん……」
ああ、あたしは彼の胸を濡らしてしまっている。こんなわがままな姿なんて、見せるつもり、全然なかったのに。
彼はきっと状況が飲み込めないだろう。あたしの事情など彼が知る由もない。あたしがいなくなってしまうことなんて彼が知り得ることではないし、あたしがいなくなってしまったことなんて彼が気付き得ることではないだろう。
いたら、いた。いなかったら、いなかった。
彼はあたしのことをどう思ってるだろう。きっと仲の良い女友達ぐらいにしか思ってないだろう。……それでも良い。あたしは自分が好きだと言った時に拒絶されないなら、それで良い。せめて、ここから去る前に一瞬でも彼にとって特別な人だと思って貰えるならそれで良い。
「教室。誰も、いない、ね……」
そんなことをぎこちなく呟きながら、彼はあたしの背中に手を回してくれる。あたしのことを押しのけてしまおうなんて、彼はほんの少しもしなかった。
「史郎くん」
「な、何っ?」
「あたしのこと、好き?」
何を聞いているのだろう、あたしは。この前と同じ問い。この問いを彼にして、「好き」の言葉をもらって何を得ようと言うのだろうか。
彼はきっと女の子にこんなことを聞かれて、「嫌い」などと応えるような人間ではない。誰がいつ何時聞こうと、言葉を濁しながら「好き」と言ってくれる。そんな優しい人だ。
そんなことを百も承知で、再び一週間前と同じ問いを投げかけ……あたしは何が得たい?
「この前も言ったけど、僕は……」
「あたしは、史郎くんのことが大好きです」
「――ッ!?」
「ずっと前から好きでした。付き合って、別れて……それでも、大好きで仕方なかったです」
彼の心臓の音が聞こえる。史郎くんの心臓は、きっといつもの何倍もの速さで時を刻んでいる。そして、きっとあたしの心臓も。
「任務が終わるまではきっと無理だって。任務が終わったらどうせ別れることになるんだから諦めようって。そんな風に思ってた。でも……やっぱり好きで、諦めることなんてできなくて。あなたのことを殺さなくちゃいけないことなんて、もうないんだって思ったら安心しちゃって、抑えられなくなっちゃって……唇を奪って……ずるいよね、あたし。史郎くんはあたしの事情なんて全然知らないのに、自分ばっかり暴走しちゃって……」
彼は何も答えてくれない。――いや、答える必要なんてないんだ。だって、これはあたしの独り言に過ぎないのだから。
「もし、できることなら史郎くんとお付き合いしたかった。もし、できることなら史郎くんと色んなことがしたかった。特別なことを、したかった」
あぁ、あたしは卑怯だ。こんなことをこんな状況で言って、彼を誘惑しようとしている。
「もうきっとあなたには会えなくなる。だから、その前に……」
きっと彼は断らない。断らないことを知っているのを良いことに、あたしは自分の勝手を通そうとしている。ずるいのは分かってる――でも、あたしはきっとこうしないと一生後悔する。
「あたしをあなたのものにして?」
「ナツキちゃん……」
彼はあたしの肩を掴み、少しだけ胸から顔を離す。そして、満面の笑顔で答えてくれる。
「嬉しいんだけど、無理だわ」
「………………………………へ?」
「いやぁ、上目遣いで学校一の美少女にそんなことを言われるなんて教師冥利に尽きるねぇ。悩殺されちゃうよ、並の男なら」
刹那、目の前の彼の顔面が歪む。そして、その顔はみるみる内に変形して――
「だけど、校内での異性交遊は校則違反だゾッ。先生許さないんだからナ」
そして、よく見知った最低野郎が目の前に姿を現した。
「死ね………………っていうか、死ねぇええええいッ!!」
「おぉっと、危ない」
オクスタン・ロッドを構え、目の前の社会のゴミを消し炭にするべく魔法を放つ。しかし、その社会のゴミは尋常ではない敏捷性を発揮して、ゼロ距離からの攻撃を華麗に避ける。
「おいおい、興奮するなって。ちょっとカワイイ生徒をからかっただけじゃないの」
「殺す……じわじわとなぶり殺しにしてやる…………」
「ひぇえ、恐いねぇ。そんでも、先生は用もなく悪戯しにきたわけでもないのよ、これがな」
そう言って担任は胸ポケットから紙切れを取り出し、あたしの前に落とす。
「現世での最後の言葉はそれでよろしいですか、先生?」
「いやぁ、最近の生徒の荒れっていうのは恐いねぇ。いつ刺されるかわかったもんじゃない。…………まぁ、見てみろや。お前んとこの機関からのお達しだ」
「そんなことを言って時間を稼ごうとしても無駄で……」
そう言われて一瞬目を落としてみると、たしかに東雲情報統制機関の勅印が施してある。どうやら嘘つき最低野郎社会のゴミ屑担任クソムシは珍しく本当に仕事をしているようだ。
「あなたの生死はしばらくお預けです。そこで待っててください。すぐに殺してあげますから」
「知るか。俺は忙しいんだ、お前みたいな問題児一人に構ってる場合じゃないの。じゃあな」
そう言うと同時に、担任の身体は黒い霧となって霧散する。どうやら殺すのは明日の朝礼まで引き延ばされてしまったようだ。
「何なのよ、もう。……なになに? 『バーストにおいて不可解な事象を確認。事象の確認、調査及び事後監察の目的において』――」
機関からの通達。あたしは衝撃の事実を目にすることになる。
「『バーストにおける無期限の任務続行を命ずる』!? 嘘、何これ……」
無期限の任務続行。まだ……終わっていない? まだ、ここにいられる?
動揺と驚愕。そして希望。どうやらあたしはまだ、退屈も安心も許されないようだ。
「あれナツキちゃん、まだいたの? よ、良かったら、今日も一緒に帰る?」
「えぇーい、しつこいわよ! そんなに殺されたいのかしら、あなた?」
「えぇっ!? ごめ――」
紅い爆発。
オクスタン・ロッドから放たれた火球が、今度こそ史郎くんの身体を捉えた。
「この程度で、終わりなわけがないでしょ、担任。さっさと起きあがって……って、史郎くんっ!? ご、ごめん! 大丈夫!?」
今ほど、彼の身体は灼かれた。希望はあるが、どうやら史郎くんと特別なことをするのは随分先になりそうだ。




