拾壱の世界③
拾壱の世界――善良な一市民の話――蓮皇高校内にて
「逃げるわよ!」
「あ、え、どこに?」
「何でも良いから! 行くわよ!」
「逃がすと思いますか? 小娘とガキを、この私が逃がすと思いますかぁ?」
気付けば。僕はナツキちゃんに手を引かれて。廊下を駆け出し、校長の言葉を後ろに、準備運動無しの全力疾走という相当心臓に悪いことをしていた。
迅じゃあるまいし、体育会系でもない僕には尋常じゃなく辛い。得てしてナツキちゃんは、涼しい顔してもの凄い俊足を発揮してるんだけど、普通に速いから困る。何が困るって……とてつもない力で僕の手を引っ張りながらも、恐ろしいスピードを維持し続けているのだから――僕の身体は冗談抜きでバラバラになってしまいそうで、本当に困る。
たぶん足を止めようモノなら、絶対に腕が抜ける。
「…………べ、別に、こんな必死こいて、逃げること無いんじゃ、ないッ? 相手は大して、運動もしてない、ただの小太りの、初老の」
「見えなかったの、史郎くん? 校長先生の臀部に『しっぽ』が生えてたのを?」
「しっぽ?」
「それに、瞳の大きさも明らかにおかしかった。あれは……あいつは、十中八九ただの人間じゃない」
今更ナツキちゃんは何を言うんだろう? クラスメイトの中にすら――天使やらロボットやら犬やら――ただの人間など一人もいないというのに。『それら』を管理する学校の校長がただの人間ではないことを、どうして想像できないことがあるだろうか?
…………っとと、まずい。あまりにも奇人変人が多過ぎるからって、流石にそれをグローバルスタンダードだと考えるのは頂けないな。
――実際には、ほら。突如として目の前に立ち塞がる怪物。さっきまで人であったはずの存在が、おぞましい風貌をもってしてそこに居るのだから。……って、あれ?
「《蛮勇の護人》の異名を誇る私から、そう易々と逃げられると思わない方が良いですよぉ? なんたって、学園は私の狩り場なんですから」
既に人間の面影を欠片も残していないその怪物は、先程までの校長の声で不敵な笑いを浮かべる。……といっても、怪物と化したその顔からは、いやらしい笑いに対応した表情なんて既に推し量ることはできないが。
だがおかしい。たしかに彼は僕らの後ろにいたはずだ。一直線に廊下を走っていたのだから、それを抜くには僕たちの横を必ず通らなければならないはず。なのにどうして校長は、目の前に突如として存在し得た?
後ろを振り返ると、なんだか随分遠くに迅達の姿が見えるような気がする。少し走っただけなはずなのにどうしてこんなに離れている? そもそも、順番的に見れば僕らの後ろにいる迅達が先に追いつかれるはずで、真っ先に迅達が対峙していなければおかしいだろう。にも関わらず、迅達をすっ飛ばして、どうして僕らの目の前に校長は現れている?
不可解な状況に次々と疑問符が浮かぶ。だがどうやら迅達からも、遠目でも少なからずこの状況に対する困惑が窺える。
「さて、無駄な足掻きはよしてくださいよぉ。私からは『絶対に』逃げられませんから」
「だからって、あたしたちが『はい、そうですか』と捕まってあげるとでも思ってるんですか、校長先生?」
「いけませんねぇ。何を勘違いしているんですか、小娘。捕まえるつもりなんて、はなから毛頭もありませんよ」
「…………え?」
この言葉に僕は一瞬戸惑う。ギリシャ神話のキメラよろしく、馬やらゴリラやらライオンやら牛やら狼やら蛇やら鷹やら……規則正しい怪物の形を見せているバケモノが、捕まえるつもりはないと言うのだ。予想外にもほどがある。
やっぱり校長先生は優しいのだ。身なりはバケモノでも心は聖職者なんだ――
「だって言ったでしょぉ? 死んでもらうと」
――いやまぁ、逃がしてくれると言ったわけでもないんだけどさ。
「下がって、史郎くんッ!」
「え、な――って、うわぁッ!?」
ナツキちゃんに首根っこを掴まれ、強制的に回避行動を取らされた。ってか、身体ごと全部投げ飛ばされた。
どうやら僕に自分で行動を取らせてくれるほどの猶予を、校長もナツキちゃんも与えてはくれないようだ。なんとも情けないが、己の無力さを痛感する。
「ほぉ、かわしますか。それなりに手は抜かないつもりでいったはずでしたが……なかなかどうして面白い」
ふと見ると。さっきまで僕がいた場所の二歩先は、随分と風通しが良くなっていた。いやはや、ナツキちゃんが放り投げてくれていなかったら、校長の丸太アームに粉砕されていたのは壁ではなく、僕の身体の方だっただろう。――なんて正直考えたくもないけど。
「次は外しませんよぉ!」
わざとらしく怪物は腕をまわし、第二撃目を放つ準備をする。どうやら逃がしてくれるつもりはさらさらないらしい。
「史郎くん。校長室まで行ける自信、ある?」
「……え? 何をいきなり――って、もしかしてまさか……!?」
ちょ、ちょっと待とうか、ナツキちゃん! それって、もしかして……。
「校長はあたしが相手をする。その間に、史郎くんはみんなと校長室に行って、おしゃべりでもして待ってて頂戴」
ナツキちゃんは校長と戦う。僕らは逃げるようにして校長室へ向かう。涼しい顔したナツキちゃんが校長室に「みんなでどんな話してたのかしら」なんて言って入ってくるのを待つ。……いや、無理ですよ!?
「で、でも……」
「大丈夫、安心して。殺すのは史郎くんより慣れてるわ」
にっこりと天使のような笑顔を浮かべて、悪魔のように残酷な答えをよこすナツキちゃん。
「………………安、心?」
「冗談よ。でも、みんなで校長室に到着するのはどのみち無理。それに……」
そう言って、ナツキちゃんは校長に向き直る。
「おそらくこいつを倒さないことにはあたしたちのやりたいこともできないでしょう。なんとかさせてもらうわ」
「そ、それなら僕だって力に!」
「駄目よ」
僕の提案は瞬時に却下される。それはたぶん、僕がいままで聞いたナツキちゃんのどんな声よりも冷たい声で。
「気持ちは嬉しいけど、たぶん史郎くんがどうこうできるような相手じゃない。足手まといになるくらいならいない方がいい。あたしのことはいいから、あなたは迅君とマオと合流して先に校長室に」
強い口調でナツキちゃんは言い放つ。「足手まといは不要」……それはわかる。だから不本意ながらも場を去ろうとした刹那、周囲の地形が歪にゆがむ。
「「んなっ!?」」
「何をごちゃごちゃと言っているのですか、ガキ共? 『先に行け、相手をする』、いやぁ、マンガの読み過ぎですか? 悲しいですねぇ、そんなことが易々とできるとでも?」
窓には茶色い蔦が鬱蒼と伝い、廊下は不自然に捻れて隆起する。眼前の光景が大きく様変わりし、気付けば迅達と僕らとの道は塞がれてしまっている。
「万が一でも校長室にたどり着かれれば面倒です。だから、少し狩り場に細工をさせて頂きました。簡単に校長室にたどり着けるとは思わない方がいいですよぉ?」
「自分のテリトリーは変幻自在というわけ、か。やんなっちゃうわね、ホント――行きなさい、史郎くん。合流さえすれば、きっと迅くんがなんとかしてくれるから」
「ナツキちゃん……」
「心配しないで! こいつを片付けたら、あたしも行くから!」
言いながら、笑顔でこちらに顔を向けるナツキちゃん。女の子にこれだけの見得を切らせて、男の自分が情けないことも言ってられない。
「わかった、やれるだけやってみる。ナツキちゃん、死なないでよ!」
廊下は塞がれたが、幸いにもどうにか階段は使えるようだ。僕は校長とナツキちゃんに背を向けて、その場を後にする。ナツキちゃんが怪物をどうにか食い止めてくれると信じて――
「当たり前じゃない、これぐらい楽勝よ。すぐ行くわ」
「ごちゃごちゃごちゃごちゃと……。私の相手をするどころか、打倒する? 私の追撃を逃れて、先に行く? させる訳がないでしょうがッ! 逃がすか、このガキゃぁあッ!!」
「あなたは――」
刹那、ナツキちゃんの手に「オクスタン・ロッド」という杖が握られる。そして、その槍状となった二叉の先端から突如として火球が飛び出し、僕の背中を追おうとした怪物の挙動を制した。
「東雲情報統制機関、監察官村雨ナツキ……《魔法少女》が、相手をさせてもらうわ」
「監察官で、《魔法少女》ですか…………ふふふ……ふははははははは!! 実に面白いッ! これは滑稽ッ! さっさとズタズタにして、それからあのガキはゆっくりと調理させてもらいます。それでは、いざ尋常に」
「「勝負!」」
魔法少女とキメラの対決が、夜闇の学園で幕を開けた――




