玖の世界①
拾の世界――天使の話――廊下にて
「随分と浮かない顔してるわね。悩み事?」
「ふぇ!? な、ナツキさんには関係ないです」
突然、ナツキさんから話しかけられた。
「最近、迅くんがマオちゃんばかりに構って、自分には構ってくれないから拗ねてるのかしら?」
「拗ねてなんか……」
迅様が構ってくれないのは事実だ。だけど、それはわたし自身が敢えて彼と距離を取っているから。別に転校生のマオちゃんにヤキモチを焼いたりしているわけではない。……そりゃ、新参者のくせにわたしよりもいっぱいいっぱいお話できてて、羨ましくないと言えば嘘になるけど。
「にしてもどうしたの? いつもは四六時中迅くんに付きまとってるのに、最近は自分から距離を取ってるみたいじゃない」
「『らしくない』とでも? ナツキさんには関係ないですよ」
「あら、そんな冷たいこと言わないで頂戴よ。友達じゃない」
「ナツキさんは友達です。でも、このことに関してはわたしと迅様の問題なんです」
「その様子じゃ、喧嘩でもしたの?」
喧嘩だったらどれほど良かっただろう。これからのことを考えると、たぶん迅様にはわたしが一方的に悪く映って、きっと謝ったって許してくれないだろう。
いや、きっとわたしが一方的に悪いんだ。でも、悪いことをしてるってわかってても、わたしは悪役として振る舞わなければならない。だってあの人には、従わざるを得ないから。
「いえね、私としても寂しいのよ。いつもは賑やかなクラスメイトの元気がないと。気になって迅くんに聞いても『知らん』の一言で済ましちゃうし、理由がわからないと余計に、ね」
「別に……迅様とは喧嘩なんかしてませんし」
……まぁ、これから喧嘩以上のことをするかもしれないけれど。
「あらそう。それなら理由を教えて頂戴……なんて言っても、教えてくれないわよね」
「………………ナツキさんには言えません。今は、たとえ迅様であっても」
「わかった。気になることもあるけど、今は敢えて詮索しないわ。……でも、悩みがあったら言ってね。あたしなりに力になるから」
「ありがとう、ございます」
「それじゃ、また」
淡泊な会話をして、わたしはナツキさんと別れた。
綺麗で優しくて器量が良くて格好いいナツキさん。彼女なら、わたしのような悩みを抱えることもなさそうだけど……相談したって、どうにかなるものじゃない。それに、まだ自分で考える猶予はある。
あの人が勇者さんと一緒に決めた日まで、あと少しだけ間がある。それまではわたしも大好きな迅様と、とりあえずは一緒にいられる。
あと少しだけは……。
――☆☆☆――
迅様と出会ったのは去年の秋頃だった。
新興宗教団体『ムハンマド』によって生贄とされていたわたしを、迅様が現れて助けてくれた。儀式が執り行われる最中に颯爽と登場した迅様。彼は周りの信者たちをなぎ倒してわたしに駆け寄り、お姫様抱っこで抱えてくれたかと思うと、後方の追撃を華麗にいなしながら俊敏な手際でわたしを外まで連れ出してくれた。
どれだけぶりかもわからなかった外は明るくて輝いていて――わたしを救ってくれたナイト様の表情は眩しくて逞しくて――抱えられるまま心地よい微睡みに任せて、気付けば彼の腕の中で眠ってしまいそうだったのが懐かしい。彼の腕の中はあったかくて、これまで感じたことないくらいの安心と気持ち良さをわたしは覚えた。覚えてしまったんだ。
「彼と一緒にいたい。彼のことをもっと知りたい」
その感情が恋であることを知るのに、わたしにはどれだけの時間もいらなかった。如月迅との時間を共有するたび、天使の感情は日に日に増大していっている。
「彼はどんな女の子がタイプなのかしら。彼はわたしのことをどうやったら好きになってくれるのかしら」
朝目が覚めて、夜眠りにつくまでそんな感情ばかりが頭によぎり、ただ悶々と彼のことばかりを気にかけた。かつては愛を司る天使の一族だったらしいわたしは、全ての知識を総動員して彼に思いを伝えることに励んだ。来る日も来る日も、彼に振り向いてもらうためだけに生きてきた。
おおよそいかなる天使が恋をするのかはわからないが、わたしは生まれて初めて恋をしたんだ。……いや、愛を司る天使としては、そういった感情をいままで抱かなかったことがそもそも不自然だったのかもしれない。
「天使が人間に恋するなんて、おかしいわね」
この気持ちを初めてナツキさんに相談したとき、そんなことを言われて笑われた。
ちょっとムッとしたが、よくよく考えれば元々天使は人間に恋愛感情を抱くようにはできていないはずで……迅様に恋するのは不自然なのだろう。天使と人間とでは考え方も価値観も全然違っていて、本来同族の中でしか芽生えないはずの「愛」の感情が起こるのは根本的におかしな話だ。その関係は犬と猫のようなもので、よく似たもの同士であっても決して相容れることはない。本質的に交わるわけもないのだが――事実迅様は一向にわたしを受け入れてくれようとしないし――それでも、わたしは彼に恋をしている。
今までぼんやりとしていて理由がよくわからなかったが、最近あの人の話を聞いて、なんとなく理由がわかったような気がする。……「なんとなく」?
いや、たぶん確信に変わったんだと思う。
「破壊神如月迅」
人ならぬ存在。神と等しき存在。ある者からは等しく畏れられ、またある者からは等しく疎まれる破壊の権化。
その卓越した身体能力と桁外れな戦闘能力、嵐のような気性をもってして暴れ回り、彼は全てを壊してしまう。神力とも取れる剛力で全てをなぎ倒し、彼の後ろに残るは無。圧倒的なゼロ。
彼は異人の攻撃、能力、属性の全てを無に還す力を持ち、時に森羅万象さえ歪めてしまう。創造神こそ神であるとするならば、全てを破壊し尽くす破壊神は、さしずめ悪魔か厄災か。創造と破壊は表裏一体でなければならないはずで、本質的にはどちらも同じ意味を持つはずなのだが……破壊だけに特化してしまった彼を崇めるような存在は、どうやらわたしぐらいらしい。人々は彼という異端に対して恐怖や軽蔑の視線を向けることはあっても、敬愛や羨望の視線を向けることはない。ほんの一握りの例外を除いて。
しかし、破壊だけとはいえ、神の能力の一端を彼が担っていることは間違いない。信仰の対象となっていても何らおかしくないはずなのに、誰からも愛を注がれない、神の力を持つ孤高の人間。
そんな存在だったからこそ、わたしは彼に恋し得たのではないか。人間の肉体というちっぽけな器であるにも関わらず、神の能力とそれに伴う重圧を寛大にも受け入れた彼に、わたしは惹かれたのではなかろうか。惹かれてしまったのではなかろうか。
「神の力を持ってしまった人間」というアンビバレンツな状況の中で、彼は素っ気なくもただの人間として生きることを選んでいた。神として傲慢に振る舞うでも、神として尊大さを見せつけるでもなく、ただ嫌われ者の人間として地道に生きる道を選んでしまえる彼に、興味を持たないわけがないじゃないか。
興味を持って彼の内面を知っていく内に……彼の良さに惹かれないわけがないのだ。無愛想ながらも内に秘めるものがあることを知り、それが何かがわかってしまった時に…………どうして彼を好きにならないでいられるであろうか。
わたしは、「破壊神である人間である如月迅」に恋をしたんだと思う。
彼にわたしの思いに応えて欲しいなどとわがままを言うつもりはない。ただ、わたしは彼を好きで居続けられればそれでいいんだ。「好き好き」と寄り添って、適当にあしらわれて、それでも「愛してます!」と言って、一日が終わり、一週間が終わり、一ヶ月が終わり――そんな毎日を重ねていければ、それで満足なんだ。その日常があるだけで…………わたしは、幸せなんだ。
「迅様…………わたし、どうすればいいのかな? わたしの幸せ、もうちょっとで壊れちゃうよ……」
あの人によって生み出されたこと――神に仕える「天使」として生を受けてしまったことが、わたしにとって最大の不幸だったのだろう。




