捌の世界②
捌の世界――魔王だった娘の少し前の話――獅羽の森にて
「ここに……住むのか。しかし、こんな物件どうやって……」
私の眼前にあったのは、とてつもなく広大な敷地面積、館や豪邸と呼ぶに相応しい圧倒的な外観を誇る建物。流石にかつて住居としていた魔王城には遠く及ばないとはいえ……没落した身としては、あまりにも豪華過ぎる住まいであった。
「お気に召しましたか、魔お……失敬、マオ様?」
ナハトの言葉で、再出発を踏み出そうとしているのにまた苦々しい気持ちになる。
私は、あの日から……魔王という冠を置いた。
単純な戦闘能力のみで魔界の頂点にのし上がった私にとって、魔王という役職は魔界最強の力があって初めて成立するものだった。しかし、それが失われてしまった今となっては……私は、魔王を名乗る証となる物を何も持っていない。
「気に入ったどころか。はたして私のような身の上が、尚もこのようなところに住むことが許されるのかと、半ば苦々しい思いでいっぱいだよ。……にしても、こんな豪邸。どうやって手に入れたんだ?」
私の問いに、ナハトはやたら清々しいほどの笑顔を浮かべる。
「マオ様。ここの地名は獅羽といい、地元住民たちはここを『獅羽ノ森』と呼んでいます。さて、どうでしょう? 新しい名前も決まりましたし、この世界の形式に則り、名字というモノを折角ですからここの地名から肖って、『獅羽マオ』と名乗ってみるというのはいかがでしょう」
「ほう、それはいいかもしれんな。獅羽マオか……気に入ったぞ、ナハト!」
「そうですか。それは良かったです!」
「ああ! ……ところで、全力で話を逸らそうとしているのはわかったが、どうやってこのような物件を手に入れたのかをさっさと告白して貰おうか、ナハト」
「ああ、そういえばマオ様。とりあえず魔界の方には帰れそうにないので、明日からマオ様には、この世界の『ガッコウ』というモノに通って頂くことになります」
「って!? な、聞いてないぞ、ナハト! どうしてお前はそうやって何でもかんでも勝手に決めるんだ!」
「だって、マオ様。一人じゃ何も決められないし、何もできないでしょ?」
言われてしまった……。確かにその通りではあるが、流石に面と向かって言われると傷付く。
「『セイフク』だって、もう仕入れてあるんですよ? ほら」
そう言ってナハトはどこからか鞄を取り出して、私に『セイフク』なるものを見せてくる。それにしても、
「随分と洒落ているんだな……」
純白の生地に紅いスカーフ。やけにひらひらしている紺のスカート。それと……足枷? 黒くて薄い伸縮する履き物。
「マオ様はいつも黒い服しか着てなかったですしね。十七歳の【少女】らしく、たまにはこういうのを着てお洒落してみてもよろしいのでは? ちなみに、マオ様が先程から興味ありげに見ておられるのは『にーはいそっくす』というモノらしいです」
「こんなものを身に付けたところでどうなるというのだ……?」
「何でも『絶対領域』という特殊障壁を生み出せるらしいですよ。魔力を失ったマオ様にはうってつけ」
「何っ!? この布だかゴムだかわからん素材にそんな効能があるのか!? 恐れ入るな……人間の科学力というモノには……」
「ちなみに、同性には効果が無いらしいです」
「異性には絶大な効果を誇るらしいですが」と、ナハトは付け加えた。
「よくわからんな……にしても、お前はどこからそんなに色々と情報やら物品を仕入れてくるんだ? 私同様、まだこの世界に来てから日は浅いというのに」
ナハトはにまにまといやらしい笑みを浮かべる。……はて、何かを忘れているような気がするが……まぁいいか。
「いやはや。あの戦闘が終わった後すぐ、わたくしの前に支援者が現れましてね。この世界に関する情報、『ガッコウ』や『セイフク』、仕事の手配、少しばかりの資金、住居の紹介等々、様々な支援をして頂いたんですよ。ちなみに『にーはいそっくす』云々やその他諸々の細かい情報は、この『ぱそこん』という機械から接続できる『いんたーねっと』というもので調べました」
そう言って、ナハトは鞄から薄い板のような物を取り出して私に見せる。使用方法こみで、その支援者から譲ってもらった物らしい。
にしてもなんとまぁ、順応力の高い執事か。正直、私にはとてもできない芸当だ。
「……して、その支援者とは?」
「九鬼グループ。そう言っておりました」
聞いたこともない――って、当たり前か。私はこの世界にはどんな物が存在し、どんな政治体制をとっているのかすら、まだまともに把握していない。
九鬼グループというのは、異界の者の管理者か何かだろうか? いくらなんでもあまりにもタイミングが良すぎる接触と、我々に対するこの扱いを考えれば。
そういう組織が存在していると仮定すれば……我々のような異界からの来訪者はこの「世界」においては珍しくないということか?
「……にしても、ふむ。私が砂浜で大泣きをしている間、お前は一人でそんなことをしていた訳か」
半ば独り言のように、自虐的な笑いを浮かべて呟く。しかし、ナハトはそんな私に真っ直ぐな視線を向け、いつもの笑顔で言い放つ。
「いえいえ。マオ様が力無き今、グラディウス家に代々仕えてきたこの身としては、できる限りのことをしなければいけないと思いましてね。流石に、敗戦の事実、同胞の血の臭いを引きずってばかりいては、未来へ生きていくことなんてできませんよ」
………………ふん、全く。こいつは私と違って強すぎるよ。
「いっそお前が魔王をやった方が良かったんじゃないか?」
「嫌ですよ。世話焼きぐらいがわたくしの身の上には相応しいんですから。性に合ってるとも言えます」
抜かりない。とっておきの皮肉に対しても、次の言葉がすらすら出てくる。
いつかこいつの笑顔を、どうにか動揺の“それ”に変わったのを見てみたい。 ……いや、やっぱり見てみたくはないな。前言撤回。もう、あんな血生臭い戦場で見たようなナハトの表情は、充分だ。
「では、目の前に新居があるにも関わらず、外で長話をする必要もないでしょう。中に入りましょうか」
「それもそうだな」
何か忘れているような気もするが……まぁ、いずれ思い出すだろう。
(あれ? 何かマオ様に伝えておかなければいけないことがあったような……)
――かくして、新居に入った私の第一声が「叫び声」となるということを、いったいこの場の誰が予想し得ただろうか?
新居に入って十秒後。私は無様に玄関に尻餅をついていて、目には涙が溢れていた。止めどもなく流れていた。
はたしてその姿を見て、まだ私のことを「魔界の王」などといって崇拝できる魔族の民が、幾人ほどいようか?
「……ひくっ、なぁはとぉお…………死ぬがとひくっ、おぼった、よぉ………………」
「ああ、すみません。一つ完全に言い忘れていました」
ナハトはここにきてようやくばつの悪そうな表情を浮かべる。
「この邸宅、前の住人――というか、設計者本人が、随分とサディスティックかつバイオレンスな性格な方だったらしく……『不法侵入者には死を!』というスローガンの下、建物の至る所にトラップやら迎撃装置やらが忍ばせてあるらしいです。実際、普通に使えるのは全体の三分の一以下とか。加えて、物音に対して随分と神経質な家主だったらしく、家の中は廊下などを通じて音が響かない設計になっているみたいです。……って、大丈夫ですか、マオ様?」
「これがだいじょうぶに見えるかぁ、ばかぁ……」
家に入って数歩進んだだけで、まず目の前をふりこギロチンが通過し、左右からは数十本ものナイフが投擲され、上方からは高濃度の硫酸のシャワーが降り注いだ。
――結果、髪をいくらか持ってかれた。
というか、髪だけで済んだのが奇跡としか思えない。腰程まであった髪の先端がナイフで裂かれて硫酸に焼かれたくらいで、四肢に傷はない。いや、自慢の黒髪に傷が付いたのはそれなりにショックだが……そうは言っても五体満足には代えられない。
「いやぁ、入る玄関を間違えました。先程図面で確認したら、このもう一つ隣の玄関が正規の入り口らしいですね。失敬失敬」
「お、おかしいだろ! どうして入り口間違えただけで死にかけるんだ!? あれか! あれなのか!? ここは力の門を開けないと入れないとかいうあれなのか!? 横から入ったら容赦なく家のペットに食い殺されてしまうという、あの暗殺者一家の邸宅なのか!?」
「マオ様が何を仰りたいのかは全くわかりませんが……とりあえず、これで顔を拭いて下さい。綺麗なお顔が台無しですよ?」
「やかましいわ……ばか執事…………」
ハンカチを差し出せるくらいの器量があるなら、どうして大事なことを先に言わない?
後から聞いた話ではあるが、ナハトはあくまでこの豪邸を紹介されただけらしい。というか、カタログで紹介されている物件から、ただ一番大きい豪華な作りの物を選んだ結果、様々な悪条件が付随されてきたみたいだ。
ナハトに文句を言ったら、
「だってマオ様? 元魔王たる者がそんな安っぽい家に住めますか? いくら力を失った身とはいえ、心まで貧しくなってしまっては……」
などと云々ほざいていた。一回トラップに引っ掛かって死にかけてからその戯言を聞かせて欲しいよ。




