肩代わり
館に帰って来て、ルイアナの召し変えをしている時に、カロンはたずねた。
「――陛下との謁見はいかがでしたか?」
「よくも悪くもありはしないわ」
ルイアナは簡潔に答えた。「陛下は元々、あまり些末な物事にこだわられないお方だから」
カロンはうなずきながら、肌着になったルイアナに、別の下着をうわがけた。
そこへ別の侍女が帯締めを巻く。それからカロンが、羽織る用の衣を側に控えていた侍女から受け取って、さらに上に重ねた。
肩から垂らす色鮮やかな飾りの布と、その上から魔除けでもある装身具を垂らす。
さすがに、普段自宅で使う装身具は限られている。それでも、周りを取り巻く侍女に比べれば、豪奢な身なりであった。
着替えをすますと、ルイアナは寝椅子に疲れたように横臥した。
侍女頭が用意した水を口にすると、ゆったりと寝椅子にもたれた。くつろいだ様子に、休息するのだと察して、集まっていた侍女たちは遠ざかった。
侍女頭の他、二人ほど部屋に残ったが、ルイアナがうなずくと、侍女頭だけは礼をして出て行った。
侍女頭は、侍女や下女、それに小間使いなど、館に仕える女たちをまとめて采配しているので、いつも忙しく館の中を歩き回っているのが普通だった。
ルイアナはそれから別の部屋に下がっていたカロンを呼んで、話し出した。
「――今日は少し慌ただしかったわ」
カロンはうなずき、言った。「ルッソネムには驚きました」
「別に彼なら驚かないわ。元々不用意な人だもの」
「そう言えば、侍従長から何かお聞きになられていましたけど、何を話されていらしたんですか?」
「ああ、あれね。――…侍従長が聞いて回ってくれたわ。ルッソネムは、数日前に王宮で失言してしまったのよ。それで、回復しようと思って、今必死に動き回っているのね。そして今日は、私に来たというわけだわ。でも、…気の毒なことに、本人以外はもうほとんど気にかけている人はいないみたいだから、問題にしなくていいと言っていたわ」
「殿下にはいいご迷惑ですね」
「まあ、そんなものよ」
いつになく軽い口調な気がした。
多分、疲れたせいもあるのだろう、と悟り、カロンは少しでも和らげばいいと、ルイアナの腕を揉みほぐした。
「――ああ、いいわ。そういうのは、まじない師にやってもらうわ」
ルイアナは断った。
まじない師には、魔を払う療法と称して、あん摩を行う者もいる。そういう慣れた者にしてもらうほうが、彼女としてはありがたかった。
「はい」
カロンは手を引っ込めて、他に、何か疲れを和らげる方法はないかと考えた。
…疲れた時にルイアナが好む香はさきほどもう焚いたし、クッションもたくさん敷いている。風通しをよくするために、隣の窓も大きく開けさせて、風の道をつくった。他に何かあるだろうか…?
頭の中で考えていることを見透かしたように、ルイアナはくすりと笑った。
「いいわよ、横になってさえいれば休めるから。――…あなたはちょっと抜けているけど、でも、こうやって一生懸命だし、すべきことを心得ているし、ガニほどじゃないわね」
フーディーンのことだと分かって、カロンはちょっと口を曲げた。
「……この前お会いした時に、ちょっと後悔したとおっしゃっていたのに、またあんな風にお話しされていましたね」
「私だって、穏やかに話せるものなら話したいわよ」
ルイアナはすねた表情を見せた。疲れている時などは、彼女の表情も比較的分かりやすかった。
「…でも、彼は駄目ね。私の神経を逆なでることだけはお上手だわ」
「まあ、ひどいおっしゃりよう」
言いながら、カロンは少し笑ってしまった。
ぽつんと残されたフーディーンは気の毒だったが、可笑しかったのも本当だった。「…お優しい方ですのに。お気の毒ですよ」
「彼が気の毒なら、私も気の毒よ。何回言えばいいのかしら?ムル・ロマネンスと呼べと言っているのに」
「お慕いしていらっしゃるんですわ。お身内ですもの」
「私は彼を別に弟と呼びたくはないの」
非常に冷たい言い方だったが、ルイアナとしては憎い感情を見せているわけではなかった。
むしろ、こうやってからかいまじりに話題に上げるのは、相手の親しみやすさゆえと言えた。
「……でも、そうね。次に会った時には、もう少し彼の調子に合わせるわ。あの穏やかな話し方に」
ルイアナは眉根を寄せていた後、ぱっと天を仰いだ。「……無理よ!きっと耐えられない」
「まあ!ひどいです」
カロンと一緒に無邪気に笑うと、ルイアナは少し機嫌がよくなったようだった。それから言った。
「つい先日まで、遠征に行かれていた陛下にお会いできてよかったわ。最近はますますお忙しくて、お会いする暇がなかったから」
「ようございました」
カロンは深くうなずいた。
王は、度々遠征に出かけている。年を追うごとに都を空ける期間は長くなっていた。
「久々にお話しできて楽しかったわ。――法典のお話を、ご機嫌よくお聞かせくださったの」
「法典の?」
五年前に、王が制定した新たな法典のことだろう。
“セトメキオンの法典”と名づけられたその法律は、それまでの曖昧だった法を整備して、さらに細かな事例にまで対応できるようにと、王が力を注いで成立させたものだった。
ルイアナが生まれる前からつくりかけていた法典らしいが、司法の場以外では、それほど評判がいいわけではなかった。
それよりも、もっと軍事に精力を注いでほしいというのが、臣下たちの願いのようだった。
しかし、その法典は王の宿願だったらしく、娘のルイアナにも時々それについて語ることがあった。
「――…法の役割について熱心に語ってらしたわ。お父様には珍しいことよ。でも残念ね。あの想いが下に十分に伝わっているように見えないわ。せめて司法官だけでも、もっと法典について習熟する姿勢を見せればいいのに。都以外では、まだまだ浸透していない地方もあるのよ。普及させるために、遠征中に陛下お手ずから、配下に法典の書をお渡しして、その地の裁判所へ置かせていらっしゃるそうよ」
ルイアナは父が熱心に語るので、その法典を読み込み、熟知していた。王はそれを喜び、その内容を娘と語らうことを喜びとしていた。
王が二十余年かけて整備した法なので、思い入れもひとしお強いのだろう。
カロンも、ルイアナの教師の手を借りながらではあったが、その法典を勉強していた。
そうして、それまでの法がどれほど曖昧で、古くさい掟に縛られていたのかを知って、かなり驚いたものだった。
迷信や占いに左右される裁判もあり、同じ罪状でも、地方や裁判官によって、判決が大きく異なるのは納得しがたかった。
しかし、この法典を厳格に守るなら、もう少し公平で分かりやすい裁きが下されるようになるだろう、ということはカロンにも分かった。
「陛下は、本当に素晴らしく情にお厚い、公平なお方でございます」
カロンはしみじみ言った。
「もちろん、お父様には、広げた領土をそのご威光で十分にお治めになる責務がおありだもの。あの法典はその足がかりなのよ。あなたにもまたお話ししてあげる。――そうよ、今度メネト市に行く時に、あちらに法典の編纂に関わった人物がいるから、お話しするようにもおっしゃられたわ。楽しみね」
ルイアナは一息つくと、少し顔つきを変えて話を続けた。
「――謁見の時にね、お父様に少しおたずねしてみたのよ。これから先、私は今の女神官の位のままでよいのでしょうか、って」
「ええ……」
カロンはびっくりした。あまりにも突っ込んだ聞き方ではないだろうか。
「お父様には、きちんと切り込んだおたずね方をした方がいいの。ルッソネムはうかつな人間だけど、彼が持ったような疑問の心は、みんな持っているはずよ。もって回ったやり方で探るくらいなら、こちらから先に、はっきりお聞きしておいた方がいいのだわ」
「…どうでした?」
カロンがおそるおそるたずねると、
「位を少し引き上げることはあるだろうけれど、今のままがふさわしいだろうとおっしゃっていたわ。…私安心したわ」
「そうですか」
「そうよ。私より、近くにいたアナウェン大臣の方が、それを聞いてほっとした顔をしていたけどね」
「アナウェン大臣……」
カロンは呟いた。それはジョザンスキムを支持する有力な貴族だ。
「一体、将来どう扱われるのかってやきもきするより、今のうちにはっきりさせておいた方がいいわ。あの時ああおっしゃっていたって、アナウェンが後で大声で主張してくれるでしょうし」
「はあ…」
しかし、もう少し何か、重要な役職を賜ってもいいのではないだろうか。近従のカロンは少し残念だった。
ルイアナの所領は、歴代の王女に比べても、けして多いわけではない。
将来領地が取り上げられないとも分からないし、不安は尽きない。
最近は、弟や臣下の目も気にして、贅沢も少し控えて節制していた。この先、今の位のままで大丈夫なのだろうか。
ひいき目かもしれないが、カロンは、ルイアナはどのような職を任じられても優秀に働くだろうと信じていた。
「あなたはいいわよ。鼻が高くなるでしょうよ」
ルイアナはカロンの思いを見越したように言った。
「でも、大役を背負わされる私の身になってちょうだい。今から頭が痛くて仕方がないわ」
「でも、ルイアナ様は……」
「私は今ぐらいがちょうどいいのよ。今でも少し重くて、羽織らせられた衣を引きずっているぐらいだわ」
ルイアナは呟いた。
「こんなこと侍従長たちには言いたくないけれど。でも、分かって欲しいものね。私の心を。ふさわしい振る舞いをするのにも、余念のない努力が必要よ。それは誰かに肩代わりできるようなものじゃないわ。だからこそ、戴く冠は、重すぎないことが大事だわ」
「……はい」
――重い冠に、体から下がる金銀宝石のきらびやかな飾り。
それから、振り仰いだ先の民衆たちの笑顔を思い出して、カロンは重々しい厳粛な気持ちになった。
あれがもっともっと押し寄せてくる日々は、確かに非常な憂鬱だろう。だからこそ、同時に、それをこなすルイアナに対する尊敬の気持ちが沸き起こっているのだが。
真剣な顔で耳を傾けているカロンを見て、ルイアナはふっと笑った。
「――でもね……私は誰かさんに、ちょっぴり肩代わりしてもらっているのよ」
「え?なんでございますか」
「なんでもないわ」
珍しく大きく広がった笑顔を見せて、ルイアナは話をおしまいにしてしまった。