風景描写は大事よね、て話
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以前、富山県の黒部ダムに行ったことがある。
大量の水飛沫をあげて流れ落ちる、雄大なダムの素晴らしさもさることながら、そこから見える大自然の美しさに思わずため息が出た。
大自然の美しさは、芸術だと思う。
作ろうと思っても作れるものではない。
だからこそ、人はその芸術を残そうとカメラで、あるいはスマホで映像を残す。
この雄大な景色を“記憶”ではなく“記録”で残したいのだ。
当時、僕は日記をつけていた。
徒然なることを徒然なるままに書いていたが、この黒部ダムの雄大な景色だけは日記では書き表せられなかった。単に僕の文章力がなかっただけだが、目に飛び込んで来た映像、その感動をどう表現していいかわからなかったのを覚えている。
あれから数年。
今でも撮った写真を眺めてはうっとりするのだが(←キモい)その景色を文章で表せ、となると筆が止まる。たぶん、こういった風景を文字で表現できないのは、曲がりなりにもここで小説を書かせてもらっている“なろう作家”(超がつくほど底辺ではあるが)としては致命的だろう。
※
そこで、僕はプロの方々の作品を通して、風景の描写を注意して読む癖をつけた。つけただけで、それが身になっているとはお世辞にも言えないが、それでもプロの方々の風景描写はやはり秀逸である。
読むだけで、その景色が目に浮かぶのだ。
例えば、田中芳樹先生著の『アルスラーン戦記』(光文社文庫)。
そこでの書き出しはこうだ。
「とうに太陽は東の空にのぼっているはずであったが、平原をおおう霧のヴェールをつらぬくことはできなかった。十月中旬である。秋の陽光は弱く、風はまったくない。パルスの気候にはめずらしい厚い霧は、いっこうに晴れる気配をみせなかった。」
さすがプロである。
なんの予備知識も持たない読者に、このほんの数行たらずで瞬く間に映像を作りだしている。まさに芸術だ。この霧の描写というのがまた絶妙で、とにかく“濃い”というのがよくわかる。
霧の描写だけではない。季節が秋だというところまできちんと教えてくれている。映像どころか、体感温度まで感じさせてくれるようだ。とても僕には真似できない。
同じく、上橋菜穂子先生著の『精霊の守り人』(新潮文庫)を見てみよう。
そこでの書き出しを記してみると
「バルサが鳥影橋を渡っていたとき、皇族の行列が、ちょうど一本上流の、山影橋にさしかかっていたことが、バルサの運命を変えた。
鳥影橋は平民用の粗末な吊り橋で、ところどころ板が腐り落ちて、隙間から青弓川の流れが見える。ふだんでもあまり気持ちのよい光景ではないが、今日は、ここのところ秋の長雨が続いたせいで川の水かさが増え、茶色く濁った水が、白く泡だちながら、さかまいて流れていて、とくに恐ろしい光景だった。」
とある。
どうだろうか。僕には、足元も安定しないようなボロい吊り橋を渡る主人公と、その下を流れる濁流が目に浮かぶ。これまた、“秋の長雨”という表現がある通り、季節が秋であるというところまで教えてくれている。もうこれだけで、すでに一つのコマが完成されている。そしてそれは、これから始まるであろう主人公の波乱万丈を予感させるのに十分な雰囲気を持っている。この物語に興味がある方は、ぜひ買って読んでほしい。(と、低迷する出版業界への応援の意味を込めて宣伝してみる)
最後に、僕が大好きな水野良先生著『ロードス島戦記』(角川スニーカー文庫)。
知る人ぞ知る(というか、読んだことがなくとも、名前くらいは知っていると思う)ファンタジー小説の代表格。もともとはテーブルトークRPGだったということで、ファンタジーといったらコレ!! というような種族やモンスターがバンバン出てくる、王道中の王道作品。
そこでの記念すべき冒頭。
「マーファ大神殿の白大理石の壁が、ようやく訪れた春の日差しに明るく輝いていた。
所々に残雪を抱く大地には若草が芽生え、神殿から村の中心へと向かう道端には野草が黄色い花を咲かせていた。
神殿があるのは、ロードス最北に位置するターバの村はずれである。白竜山脈の高い峰々の狭間の平地に、数百の住人が質素な暮らしを営んでいる。
白竜山脈は氷雪の精霊たちが集う地とされ、春の到来は他の地域よりも遥かに遅いのだ。
だが、あと数日もすれば、峠を閉ざしていた雪も溶け、ロードス各地から若い男女が、結婚の守護女神でもあるマーファの祝福を受けるため、この地に旅して来るだろう。」
うーん、何度読んでも唸ってしまう。
『ロードス島戦記』は戦記と謳っているだけあって、国同士もしくは部族同士の戦争描写がある。(ていうか、これ、戦記だったんだね、といまさら気付いた僕)
それを感じさせない、平和で穏やかな滑り出し。
春の到来とともに、美しく輝く神殿が目の前にそびえ立つのが見える。
まわりを山々に囲まれた、雪解け間近の山村のはずれ。
物語は、そこから始まるのだ。
それから物語はどう紡がれていくのか、読んでない人は是非とも買って読んでほしい。(と、またここで出版業界に媚を売る)
※
プロの凄さは、ほんの数行で映像を作りだす技術力にあると僕は思う。もちろん、それに伴う物語の面白さも必要不可欠だが、やはり映像を伴っていなければどこで何が起こっているのか読者にはわからない。
僕は昔からキャラクター同士の会話を書くのが好きだ。
風景描写そっちのけで会話ばかりを書き記した台本のような作品まである。コメディーだけど。
しかし、それは書いている本人にとっては非常に楽しいのだが、読者からすればあまり楽しくはないなと最近気が付いた(遅……)。
なぜなら、風景が見えないのだから。
小説というものは、風景が見えてこそ成り立っているのだと僕は思う。それはもちろん一人称小説だって例外ではない。
参考までに、深沢美潮先生著『フォーチュンクエスト外伝パステルの旅立ち』(角川スニーカー文庫)。(←身近にあった代表作がこれしかなかった……)
「そっか。もう秋の刈り入れの季節なんだ……。
わたしは、ポカポカした陽だまりのなか、みすず旅館の窓から下を見下ろしていた。
村の人々が忙しそうに行き来するシルバーリーブのメインストリート。その道をガタガタと荷馬車が通っていく。
金色に光る、山積みの麦。その穂がユッサユサと、昼下がりの太陽を受けてゆれていた。
額の汗をぬぐって。疲れてはいるけれど、喜びにあふれた人たち。もうすぐ秋祭りも始まる。
もう、二年経っちゃったんだ……。」
しみじみとした想いとともに、主人公が旅館の窓から外を眺めている風景が目に入る。
彼女の瞳に映るのは、大量の麦を載せた荷馬車が、村の大通りを通って行く景色。季節は、秋。(さっきから、秋が多いな)
一人称小説でも、やはり風景描写はとても大事である。
目に飛び込んだ情報を自分なりに分析し、推測し、これから何が始まるかを読者にきちんと伝えている。
やはりプロは違う。
※
長くなってしまったが僕が言いたかったことは、もっと風景描写を勉強しよう、ということだ。
いや、ここで執筆している作者様に対してではない(ほんとだよ、誤解しないでね)。
僕は僕自身で嫌というほどよくわかっているのだ。どこで何をしているのか、よくわからないと。なにしろ、書いている最中ですら僕自身がよくわかっていないのだから。(←おい)
風景? そんなのパス。
どんな服装か? そんなのパス。
どんなビジュアル? 想像で。
そんなのばかり。
なにしろ、僕は物語を書きたいのだ。書きたくてウズウズしているのだ。
しかし、その風景描写や服装について筆が止まる。
だから、いつも適当にごまかす。
風景はとりあえず草原。町。王都。
服装はとりあえずローブ。布の服。金属鎧。
工夫がない。
読者様の想像に任せる、無責任男。
語彙力がないともいえる。
しかし、それではダメなんだ。
もっともっと勉強しなくては。
そういう決意のもと、僕はこのエッセイを残す。
注)もちろん、これは僕の個人的な考えによるものである。
もっと勉強しようって話でした。