小さな物語
ショウがミキに出逢ったのは、冬の始まりの肌寒い風の吹く休日だった。
寒さに肩を震わせ、ショウが公園の入り口で首を巡らせていると、倒れて穴が横を向いている遊戯用の赤いドラム缶の中で何かが動いているのが見えた。
興味を惹かれ走り寄り中を覗くと、淡い黒色の目がショウを見つめてきた。
誰だか知っている。たまに公園で見かける女の人に、彼女はミキと呼ばれていた。
ショウは優しい声音で、寒いから一緒に入らせてくれと声をかける。ミキは無言で微笑み、体を奥に寄せてショウを招き入れた。ショウがドラム缶の中に入ると、ミキは笑ってショウの体に擦り寄ってきた。寒さのためだろう。ショウもミキに体を寄せた。
ミキは無口だった。ショウが何かを言えば、微笑むか頷くか、はたまた聞こえていないかのように無表情な時もあった。
それでもいいとショウは思う。彼女の傍は心地よくて、彼女が何もしなくても言わなくても、ドラム缶の中は幸福で満たされていた。
赤いドラム缶が、ショウとミキの居場所だった。
ショウは平日、公園に一番近い小学校に行く。いつの間にかそれが習慣付いているから不思議だ。朝走って学校に向かう途中に公園の横を通り過ぎるが、ミキの姿はなかった。
小学校の校門を駆けて通れば、黒や赤を背負った数人におはようと声を掛けられる。名前も知らない人が多かったが、ショウも同じように挨拶を返した。
ミキを小学校で見たことはない。それ以前に、今まで公園以外の場所で会ったことはなかった。
午前午後と、教師の授業をうとうとと瞼を落としながら聞く。いつ聞いてもそれは子守唄としか思えない。ショウは欠伸をしながら単調な授業を進める教師を横目で見た。
小学校を出て帰る途中に、ショウは公園に入って赤いドラム缶を覗き込んだ。ミキの姿はなく、溜め息を吐くと同時にショウの横に何かが現れたことに気付く。影が地面に落ちており、振り向くとミキが目を細めて微笑みながらショウを見つめていた。
ミキは踊るように走りながら、石壁の階段を上る。下から見れば二メートル程の高さがある石壁で、ショウも同じように階段を一段ずつ抜かしながら上り、ミキの隣に立つ。
空を仰げば橙色が視界一面に広がった。球体の濃い橙が空に浮かび、ショウとミキを見返してくる。公園の中は誰もおらず、石壁の上に立つショウとミキだけだった。背にした東の空は既に紫がかっており、夕闇が辺りをゆるやかに包む。
ミキはじっと石壁の下を見つめる。どこか思い詰めた顔だった。ショウはミキの橙色に染まった横顔を見てにこりと笑い、ミキの腕を優しく叩く。
振り向いたミキに見ててと声をかけ、背をしならせて足を踏ん張り、地を蹴って石壁を飛び降りた。
軽い音を響かせて着地し、足の裏の痺れを心地よく感じながら頭上を見上げる。ミキが驚いたように目を丸くしてショウを見下ろし、そして楽しそうに笑った。
やってごらんと視線で言うと、ショウの意図に気付いたミキが首を横に振る。無理だと目が訴えてくるけれど、ショウはミキに飛ばせてやりたかった。先程の下を見下ろす彼女の横顔を見て、理由はわからないがそう思った。
大丈夫だからと言えば、ミキは目を細め、決心したように頷いた。
一瞬の間を空けてミキは石壁の上に腰を下ろす。首を伸ばして下にいるショウを見た後、助走もなく彼女は飛んだ。
まるで彼女は鳥になったようだった。羽があるみたいにミキは空中に長く居たように思える。けれどそれは錯覚で、ミキはすぐにショウの隣へと下りてくる。着地する時に小石で掌を傷付けて擦り傷を作ってしまったこと以外は飛ぶ前のミキと変わっていない。
ショウが傍に寄ると、ミキは興奮したように首を振って微笑んだ。ショウも嬉しくなって笑い、ミキの周りをぐるぐると回った。
けれどそれから、ショウはミキの姿を見なくなった。
ショウは毎日公園に訪れミキを探すが、赤いドラム缶の中にも石壁の上にも他の遊具にもどこにも居なかった。公園の入り口で何時間も待った日もあった。
自分は彼女が好きなのだと気付いたのも、その時だった。
数日後の雨の降る寒い朝だった。
ショウは雨に全身を濡らし、何とか避難したドラム缶の中で寒さでぐったりと体を横たえていた。冷たいドラム缶と変わらない体温だった。
結局ミキを見つけられないまま、自分はここで死んでいくのだと悟る。それでもいいと思った。彼女と過ごせた数日はとても楽しく、今まで生きてきた時間の中でかけがえのものになっただろう。
死ぬなら、平日に日向ぼっこをする小学校の校舎の側がいいとずっと考えていた。朝に挨拶をしてくれる優しい子どもたちなら自分を丁寧に埋めてくれるだろう。けれど、ミキとの思い出が詰まったこの赤いドラム缶でも、悪くない。
ショウは目を閉じ息を短く吐く。自分はこうして死んでいくのだ。死期を悟った顔になる。
すると、目を閉じたショウの体を揺するものがあった。ゆっくりと目を開けてショウはその正体が何かを見る。
ミキだった。
ミキは鼻の頭を真っ赤にして泣き出しそうに顔を歪ませてそこにいた。右手に小さな絆創膏が貼ってある。ミキはショウに向かって口を開け、歯を立てないよう大事そうにショウの首をくわえた。彼女は何も言わずショウを口で抱えて駆け出した。
再び目を閉じるショウの耳には、雨の中を駆ける獣の息遣いしか聞こえなかった。
ショウの意識が戻ったのは、何か暖かいものに包まれて体温が戻ってきてからだった。
目を小さく開けると、タオルを頭に被せたミキがじっと見つめているのが映る。ショウは身を捩り、ここがどこか部屋の中で自分が毛布に包まれているのがと気付いた。
ミキの背中を撫でる人の手がある。見上げると、いつも公園でミキを呼ぶ女の人だった。
ミキはショウに鼻を擦り寄せ、安堵したように喉を鳴らして一鳴きした。初めて聴いたミキの声は、とても低く落ち着いた柔らかい声だった。
女の人はミキから離れショウを毛布ごと抱き寄せて傍にいた男の人と話をする。首輪がないから飼おうという話だとわかり、ショウは毛布の中で高い声で優しく鳴いた。
ミキを見ると、顔は落ち着いていたが尻尾がばたばたと慌ただしく揺れている。
ショウは女の人の腕からするりと抜け出し飛び降りる。ミキの傍に歩み寄り、目を細める彼女の前に座った。
ミキの鼻の頭を舐めると、口が小さく開いてショウの体を大きな舌が舐め返してくる。
これからずっと、そばにいるよ。
猫のショウは嬉しそうに鳴き、犬のミキは小さく吠えた。