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 3 タクシー・ドライバー(2)

   ◇◇◇


 紫月の前に立ち案内するのは、頭髪の大部分を白くした壮年の男。肉の薄い背中で、濃い色のスーツの背筋が青年のように伸びていた。よく磨かれた板張りの床の上でも、その足裁きは確かで、隙が無い。以前、この道場で目にした、日崎宗一郎との組稽古の挙動と重なる。二人とも古武道の師範級。無言で、型を繰り出す二人の呼吸に乱れは無かった。

 萌え始めた緑に包まれるこの寺は、境内に広がるカエデから『紅葉寺』とも呼ばれていた。本堂から離れた別邸も、古い木造日本家屋で、都内に在ることを忘れさせる佇まいだった。

 暗い廊下を抜けた先には光が溢れていた。庭の半分ほどを潰した土が踏み固められた屋外稽古場。十人程度が剣技の鍛錬ができる程度の広さしかない。

 寺の別邸の一角は、板張りの道場となっている。元は客間や書院を改築したとかで、せいぜい三組六人でやっとの広さ。だが、訪れる度、誰かが習練を受け、一人終われば次と、日崎に傾倒する剣士は多かった。日没後や早朝は、教えを請う者が来るため、一人思索出来る時間は、重役出勤前のこの時間しかないのだと笑っていたことがある。

 それを知っているので、紫月はこの時間を選んだ。

 日崎海運の次期社長候補。日崎宗一郎。専務理事という肩書きよりも、元総理の孫、の方が世間一般には有名だ。それも、与党政権の一時代を築いた津坂幸三の初孫。日崎家に嫁いだ二女の一子ではあるが、しばらく男子が望めなかった元総理には待望の孫で、幼少から目をかけられていたようだった。

 海外で経営を学び、コンサルタント業の傍ら、武道を極め、その筋でも高名だった。数年前、父である日崎運輸社長からの招聘をうけ経営に参与。昨年、日崎グループからシステム開発部門を独立させ『ヒザキ・ジェネシス・テクノロジー』を設立。業務拡張のため広く人材を求め、その動向は現在業界の注目を集めていた。

 紫月も、声をかけられた者の一人である。最初は、まだ父が健在な頃。修造の面前で出された話で、日崎が本気だったのかどうか。修造も、紫月が望むようにすればいいという態度で、多くは語らなかった。肥大化したユキムラ・グループの中で、雛っ子の御曹司が平社員でうろうろするよりは、他社に居てくれる方が、お互いにストレスは無い。そんな社内の本音は、身に染みてわかっている。……強引に日本に引き戻して、入社させたのは修造の差し金だ。勝手にお膳立てして、勝手にさっさと亡くなって、勝手にすべてを押し付けて。

 庭に面した外廊下に出る。コの字型に庭を巡って、道場に続いていた。道場と正対する、簾を深く下した書院風の小部屋の前を過ぎる。

「宇津木はん?」

「はい。奥様」

 簾の奥からの、細くゆったりとした女の声に、壮年の男、宇津木は足を止め、肩を沈めた。紫月も、声は耳にしたことがある。日崎夫人。この部屋に居ても、姿を目にしたことは無い女性だった。

「道場に行かれますの?」

「は。お客人をお連れします」

「あら。お客様……」

 育ちの良い女性なのか、おだやかで人を疑うことのない純真さが漂う声が、若さというより幼さを感じさせた。紫月は、自分とあまり年が変わらないのではと想像したこともある。そうであれば、自分は二十四歳。日崎とは一回り以上違うことになるが。何時、再婚したのかも知らされてはいなかった。

 とはいえ。日崎は亡くなった父修造の古武術の後輩筋で、その繋がりで紫月を気にかけてくれていたという縁だった。親交を深めたのも、この一、二年。学業半ばで、父に日本に帰国させられてからのこと。ユキムラ・グループに入社したものの、父とは折り合わない紫月を日崎は気にかけてくれた。最初は修造からの監視かと反発したが、違っていた。道場での習練にも誘われたが、見学のみで遠慮してきた。剣技に関わる気は無い。

 父が古武術をやっていたことは覚えている。ある時から、一切手を引いた。舞が、赤ん坊の妹が出来た頃から。

 子供の頃は、自慢の父だった。師範するいくつかの道場に付いて行き、稽古を付ける姿を目にした。大会でも、時には優勝する父に憧れてもいた。ずっとずっと昔の事だ。

「雪村紫月です。ご無沙汰をしておりました」

「雪村はん。ようこそ、お越しくださいました」

 夫人は京都の出身なのだろうか。紫月の母も京都出身の女性だったが、発音はすべて標準語だった。まあ、母はあの世代にしては『進んだ』女性で、京女のくくりには入らないのかもしれないが。

「奥様。お花でしたら、私がお持ちします」

 宇津木が申し出ると、奥から白いエプロンの小柄な老婆が簾を傾けた。宇津木が廊下に片膝付くようにして、受け取ったのは飴色の光沢をもった竹筒の一輪挿し。長くしなやかに垂れる蕾をつけた一枝と、竹筒の口元には濃い黄色が輝く、こんもりとした丸い花がのぞいていた。

「……きれいな、花ですね」

「八重山吹でございます」

 白髪の老婆がにこやかに紫月に答えた。

「実家から送ってもらいましたの」

 簾の奥から、夫人が言い添える。花や草木に深く心を寄せる女性なのだと、日崎から聞いたことがある。何時訪れても、別邸のそこここにさりげなく花や緑があった。この寺も、紅葉が有名ではあるが、それだけではない。川辺に建つここは、都会の乾きとは無縁な自然な色彩と潤いが存在していた。

「早咲きですわ。こんなにはやく開いて、都の方はどないなってますのやら」

 4月早々、日本列島を吹き荒れた爆弾低気圧や、その後の局地的な異常な高気温。

 前例の無い、や、記録的な、の文字がニュースを飾るのはもう驚きではなくなっていた。

「?」

 足裏が、何かを感じた。同時に、頭上付近からカタカタとした音。次第に大きくなる。

「……! いや……!」

 障子が音を立てていた。地面。地下から小さく突き上げる振動に、みしりと柱、天井梁がきしむ。途端に、老婆が廊下にぺたりと座り込む。腰を抜かしながらも、夫人の声に首を捩じった。

「! お嬢はん……!」

「いややわ……!」

 紫月は、地震への驚愕で老婆が廊下から転げ落ちるのかと、手を伸ばした。

「!」

 が、簾を押し退けた人影。紫月にぶつかって来たその人を、咄嗟に抱き留めた。

「……地震は、いやや。あらへんわ……」

 闇雲に人のぬくもりにしがみついてくる。震えながら、紫月の胸に頭を押し当て。膝から崩れ堕ちかけるのを、抱えるしかなかった。

 薄い空色の和服。ゆったりと結った髪。肩の細い女性だった。

「光恵」

「……宗一郎はん……」

 遠くから名前を呼ぶ声に、彼女はようやく顔を上げ声の方向を見た。

 長い睫毛、濡れた目尻。黒い瞳が真っ直ぐに探すのは、庭を挟み差し向かいの道場。

 その道場の外廊下に踏み出してこちらを伺うのは、上下白の胴着の男。

 夫人に見つめ返し、短くうなずいた。紫月にも強い視線を当て、目礼を見せた。

 細く息を吐き、光恵は紫月を見上げた。寄せた細い眉に、まだ怯えが残っていた。

「かんにんえ……?」

「いえ……。大丈夫、ですか?」

 小さくうなずき、光恵は紫月の手を離れた。襖の仕切りに座り込んでいた老婦人に手を貸し立たせる。二人、労わり合うように、部屋の奥へと引き取った。

「関東の地震の多さに、まだ慣れていらっしゃらないのです」

「そうでしたか。ですが、今のは、いつもより少し強かった気がしますね」

 いつもより少し強かった。そう感じながらも、東京に暮らして揺れに慣れている者にとっては、さほどの差異はない。どうせすぐにおさまる。いつものように、大したことにはならない、と。

 慣らされてゆく。

 慣れを知らない側からは、一つ一つが命の危険を感じる事態だというのに。

 こんなふうに、人は、どんなことに対しても慣れてゆくのか?

 異常な事態を、異常と思わなくなってゆくのだろうか。

 今の自分はどうだ? 

 正常なのか? 異常の中に浸かりすぎていて、自分がおかしい事にも気付かなくなっているのか?

 もう誰も、僕を咎める者は無い。鏡になってくれる人間は。

 傘となってきた、雪村修造は居ないのだから。すべてを受け止めるしかない。

 外廊下には、もう日崎の姿は無かった。父修造が立っているのかと錯覚した。よく似た泰然とした佇まいだった。

 腕に抱えた光恵夫人も、はじめの一瞬、彼の十二歳の妹かと混同した。

 紫月の心の大半を占めている二人が、日崎夫妻に投影されたのだと、紫月も自覚していた。だが、わかっていても拭えない。

 向き合うために、紫月は再び、宇津木の後に続いた。

 宇津木が捧げる八重山吹の枝は、一歩一歩の歩みにもしなやかに振れ、先を示してくれていた。


   

 

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