2 城塞の姫君(4)
◇◇
しまいには、家政婦頭の塚野に遮られ、池谷はやっと舞から解放された形となった。
それでも舞は、池谷が返答に困るような質問をすることはなかった。利発な子供。自身の好奇心を素直に表すが、相手への配慮も忘れない。その真っ直ぐさに、池谷自身、つい立場を忘れて引き込まれ、時間を忘れてもいいと感じていたくらいだった。
「そんなに沢山お喋りになって、御本家の皆様方のお名前をもうお忘れになったのでは?」
舞は口を継ぐんで、少し考えてから。こくんと肯いた。
「ちゃんと覚えています。大丈夫です」
「さあ、どうでしょう。皆様の御前で失礼がありはしないか、塚野は心配で心配で」
ずけずけと切り返す塚野に、舞の方は涼しい顔。
「ふふ。嬉しい。では。私が帰るまで、ずーーーっと私のことを考えていてくださいね」
と、言ってのけ、頬に小さな笑窪を作った。
「そのようにさせて頂きます」
頭を下げた塚野。舞はにこにこしている。
池谷は、二人に気付かれないように苦笑した。
主従の立場でありながら、お互い遠慮が無い。それぞれに心を許している証しだと池谷は受け止めていた。
「私も、お見送りさせて頂いてもよろしいですか?」
本来なら、一介の営業マン如き、許されるはずもないのだが。塚野は了承してくれた。
プリンセスをエスコートする栄誉まで、舞は小さな手を差し出し無邪気に与えてくれた。
正面玄関の扉が開くと、玄関前のスロープに白いセダンが回されていた。後部座席周辺をフル・スモークで隠している以外は、ありがちな高級国産車ではある。だが力強いエンジン音、ラグジュアリーなデザインのホイールながら、見えるのは大型のブレーキ・キャリパー。運転席の男は、どんな事態が起きても対処可能な、高度な運転技術を要しているのだろう。
舞が乗り込み、閉じられたドアの重みのある音も、この車が特殊な装備を隠しているのだと推測できた。運転席と助手席の二人はボディ・ガード。全てが、十二歳の少女を守るための道具だ。
池谷は、塚野から一歩下がった位置で、舞を見送った。
顔を上げると、下げたウィンドーから、舞は手を振っていた。
静かに、スロープの天井近くから、軽やかな鐘の音色が広がった。
白いセダンが遠のくと、塚野は沈んだ目をした。それに気付かないふりをして、池谷は続いてスロープに回される自分の車を待った。池谷に向いた視線はいつも通りの、毅然とした家政婦頭の顔立ちだった。
「それでは。また、お邪魔させて頂きます」
正門へ向かう白いセダンの背後に、もう一台、全く同じセダンが後に付いていた。二組目のボディ・ガードのチームであろう。
舞の乗った車を追うように、邸内の木立や屋敷の両翼から鐘の音色が順番に広がって行く。
舞の外出を、邸内の使用人達が互いに知らせ合う鐘なのだ。
以前、塚野から聞いたことがある。仰々しいお見送りやお出迎えをしない代わりに、鐘の音色で舞の去帰を使用人たちに伝えるのだと。使用人たちは、それぞれの仕事場で、瞑目して舞を送り、迎える。鐘を鳴らすのは、使用人たちが自発的に望んだことだと。
ハイテクからだけでなく、人にも護られている少女。
池谷自身、雪村舞と短い時間、会話をしただけであるが、彼等使用人たちの想いが理解できる気がした。彼女が生き生きと暮らす時を共有したい。舞が何時でも健やかに、ここで暮らせるように願って自らの職務を完遂させる。
舞は、この鐘の音を門を潜るまで窓を開けて聞いているのだという。
深窓の姫君を送り出して、新緑の濃い城塞は、ぽっかりと穴が空いたような寂しさが漂う気すらした。
池谷は自分の車を走らせ正門を抜けた。背後でぴたりと厚く重い門が閉じる。
すでに白いセダンは見えない。山を下るまでは一本道。後を追う形になるのも憚れるので、しばらく走らせ、路肩の広い場所で車を停めた。耳に携帯電話のヘッドセットをかけ、端末を操作し番号を選んだ。
「池谷です。ただいま、お届け致しました」
「そう。ご苦労様」
はっきりとした口調の、凛とした女性の声が耳に広がる。
「お品物は、大変、お喜び頂きました」
あまり関心が無いようで、返ってきたのは沈黙だった。
「マダムのデザインは、大好きだと。
どれも、誰かとしっかりと結ばれているようで、安心感があるとおっしゃっておいででした」
「まあ。そんなお話しをしてくれるなんて。珍しいこと」
そう言いながらも、言葉に熱は無かった。
「はい」
「……なにか、お寂しくさせるような事でもあったのかしら」
彼女は想いを馳せるように言葉を切った後、思い当たり、強い口調で尋ねてきた。
「あなた、また余計なことをお話ししたのでは?」
形の良い眉をひそめている顔立ちが目に浮かぶようだった。誤魔化しても簡単に見透かされるのはいつものこと。池谷は正直に詫びた。
「申し訳ございません。
結の部分の造りはすべて、いつもマダム手ずからなさっていると、お伝えしました」
「ほんとに、余計な」
ますます、迷惑な口調。
「……伏してお詫び致します。
ですが」
少し車の窓を下げ、まだ瑞々しい風を入れた。
「あの方の、心からの笑顔が見たかったものですから」
「……自分、一人で? ずるいこと」
造ったのは私なのに? 暗に責めている。
「マダムに、心から感謝致します、と。愛らしい笑顔でおっしゃいました。
ぜひ、お会いしたいと」
「ほんとうに、あなたは困った人ね。それ以上、私たちに踏み込むなら、辞表をお書きなさい?」
さてさて。逆鱗に触れる前に、かわさなければ。
「勿論。丁重に、ご遠慮致しました。
舞様も、それはお察しの上で」
『いつか。直接、マダム・結にお礼がお伝えできる日を、いつまでもお待ちします』
「上出来ね。今日の、この日。あの方に、未来へ続く約束をさせたことは。評価します」
電話の向こうの女性は、続いて独り言のように小さく呟いた。
「……適えられるかは、わからないけど……」
池谷は、その言葉は胸の内にしまった。
「それと。少し気掛かりなことが」
「?」
「舞様を直接警備する者の顔ぶれが、全員変更になっておりました。少々解せません」
「相変わらず、良い記憶力ね」
彼女には見えないが、池谷は頭を下げた。
「何か、あるのでしょう。……今日から、変わってゆくのかしら……」
父親が造った城塞を、静かに踏み出ていった姫君。彼女に送ったマダム・結の二重のベール、上品な喪服。それらが舞を護る鎧の一つになればと、池谷も強く、煌く新緑に祈った。