2 城塞の姫君(3)
「お待たせをしました」
ドアがノックされ、若いメイドと共に、喪服の少女が居間に姿を現した。
男は立ち上がると、その姿に、一礼した。
「よくお似合いです」
舞はふっくらとした頬を綻ばせ、塚野と目を合わせ、また小さく微笑んだ。
サイドの髪をアップにして、すっきりと大人びて見せ、長い髪を背中にまっすぐに下ろした舞。細い首周りは黒いレースの立ち襟。胸元で材質の異なる生地で切り替えたワンピース。少女らしく、ふんわりと広がった膝丈の裾。ボレロは、レースとシルクで襟周り、手首を縁取られていた。
「素敵なお洋服を、いつもありがとうございます。池谷さん、でしたね?」
年に何度か服を届けることはあっても、逢う機会のほとんどない男の名を、舞はちゃんと覚えていた。塚野は、いつもながら、舞の記憶力の良さに感心した。
「マダム・結様が、こちらのお帽子をお届け下さいました」
「本日のお出掛けに、お使い頂けるようにと。
こちらの素材は、極薄の絹に和紙を合わせております。一度切りのお使いにのみ耐えられる仕様となっております」
「いつもとは違う結び方ですね」
「はい。普段は、舞様のお幸せを祈った結びを選んでおりますが。こちらは本日の為、喪を現す意味を込めた結びと聞いております」
塚野は、舞の背後で目を伏せ聞いていた。違いや変化にすぐに気付き、素直に尋ねる舞。池谷も、率直な舞の関心が心から嬉しいようだった。
マダム・結ブランドのモチーフは『結び』。デザインの一部には、かならず『結び』が使われてきた。シルク素材の組紐の飾りであったり、生地をゆったりと結んだ風に仕立てたワンポイントであったり。舞の喪服は、ボレロのすこし膨らませた肩口を細い組紐飾りが縁取っていた。
「お帰りになられましたら、私どもで引き取らせて頂きお炊き上げさせていただきます」
「とても素敵。お気遣いに感謝致します、とマダムにお伝え下さい」
ベールが二重に造られていることの意味を、少女は悟ったようだった。塚野と目を合わせた。
「これに合わせて、髪をアップにした方がいいかしら?」
「さようでございますね。ではお支度を」
「池谷さん、まだお時間ありますか?」
「あ……。勿論です」
目をきらきらとさせて、舞は怪訝顔の池谷に言った。
「では、待っていて下さいね。お帽子、ちゃんと位置が合っているかどうか、見て頂きたいの」
「はい。よろしければ、私がお付け致しましょう。マダム・結の代理として」
ポケットから取り出したケースを開き、池谷は二本の真珠のついた髪止めピンを舞に見せた。
若いメイドと連れ立って弾むように出て行く舞を見送ってから、塚野はテーブルの冷めたティーカップをトレイに引き取った。
「お代わりをお持ちしますわ」
「……余計な、事を言ったでしょうか?」
塚野の顔色を伺う池谷。
「舞様は、いつもあなたに会えずにいることを残念がっておいででしたわ。
マダム・結様は、どんな方なのか聞きたかったご様子で……」
「……それは、少し困った質問になりますね」
マダム・結のプロフィールは公にも完全にシークレットになっていた。女性であるか男性か、性別も非公開。ブランド自身、一部のセレブと業界関係者にはとみに高名で、あくまでもプライベートブランドを目指すラインナップであった。
「マダム・結様は、『余計なことを……』と、おっしゃるでしょうねえ」
ギクリと、池谷は真顔になった。塚野の刺した釘に本心から冷や汗をかいたようだった。
「勿論。私は、言い付けたりは致しませんよ。舞様が、あんなに喜んでいらっしゃるのですもの」
舞のいつも通りの少女らしい弾んだ笑みに、塚野もほっと安堵していた。
◇◇
日本。
この世界での時間経過で、十二年。
十二年前にも、『彼』はこの国に居た。
『僕は、この国が好きですよ。恐ろしい体験をした土地でもありますが。
ここには、あの人が眠っている』
感傷的な声を振り切るように、足を早める。逃れることは出来ないと承知していたが。
『思い出せませんか? そんな大切なことも?』
「……お前の記憶にある限りは承知しているがな……」
『そうですね。僕の記憶。共有している以上、筒抜けかな……』
『ですが、僕は何も知らない。知らされてもいなく、ただ、あなたにこの身体を利用されただけだ』
成田空港内は広かった。多くの人間が行き来して、様々な顔、髪、肌の人種が交錯していた。
少し息詰まる。烏合の中の一点。今は、そんな頼り無さが、『彼』をひりひりと苛んでいた。
『僕が覚えているのは。……一々、上げる必要はありませんね。あなたもそれだけは覚えていた。
あの人の肌の感触と、忘れられない眼差し』
『彼』の胸に一滴。毒液が落ちたかのように、苦い感触がじわじわと広がってゆく。
……ああ、そうだ。
この国で、もっとも欲していた女を失った、のだ。手に入れる寸前で。永久に。
その事実は認識できるが、悔しさも敗北感も湧いては来なかった。まるで他人の出来事のよう。感情をわかせるための、執着心も今は失われていた。ただ、苦い何かが胸に広がるのは事実だった。それは、この肉体の持ち主のものではなく、自分の心の中であることに間違いはなかった。
『で? 思い出しましたか? あなたが再び、ここに来た目的が何なのか?』
忌々しい声が、頭の中で試すように尋ねてくる。
この声の存在は唯一、彼の感情を波立たせる。今は苛立たせているが、利用価値はある。奴は、胸の奥底に沈んでゆく、澱のような痛みだけを思い出させた。
『そうですよ。僕は、あなたにとって存在する価値がある。
あなたが手落としてしまった記憶を、僕と居れば、取り戻せるかもしれないのですから。
……僕を消してしまおうなんて、考えないことです。消してしまいたいのは、お互い様なんですから』
全く忌々しい。次々と指図されている。指図されなければ、他の人間にぶつかるか突き飛ばされそうになるかで、舌打ちをされる。どこへ行くべきかもわからないのだから。
『追い越さないで。順番を、秩序を守ることが、この世界のルールで常識です。
右側の列に並んで下さい。それと、内ポケットからパスポートを』
入国審査の掲示板を目指したいくつもの行列。甲高い発音で喧嘩越しに会話する東洋系の一団、長身の白い肌の欧米人。彼等の間をなんとかすり抜けて、ゆっくりとした列の前進についていく。
『それと、そんなに怖い顔はしないで下さい。飛行機で一緒だった女の子に向けたような笑顔を。
無理なら、僕に譲って下さい。この場は』
「お名前は?」
「ティアリス・クランです」
「観光旅行ですか? ご職業は……、ドクター?」
「それも兼ねて。研究会に出席するために来ました」
「ずいぶんと、日本にお越しいただいているようですね」
「大好きなんです。この国が。それと、出来れば会いたい女性も居るので。
十二年間。ずっと、探していたんです。やっと、会えそうな機会が来たので」
「それは、適うといいですね。良いご旅行を」
「ありがとう」
『お前の目的は何だ?』
「目的? そんなこと、わかっていることでしょう?
あなたに、僕の身体は譲らない、それだけです」
『……』
「何が可笑しいんですか?」
『お前は、私だ。最初から、そう言っている』
「……『私』『私』『私』!
その『私』とは何なんですか? あなたは、自分が何者で、何の為に何をしようとしているのかすら、忘れてしまっているのに!
覚えているのは、僕の身体があなたの器、それだけ!」
『お前が拒んだからだ。私の復活を頑強に否定し』
「……そのせいで、記憶の再生が不完全に終わったようですね……。
僕には好都合だ。ずっと、何も思い出さずに居ればいい」
『十二年間、探している?』
「……」
『誰を?』
「…………」
『何の為に?』
「…………」
『……好きにすればいい……』
時間はある。十分なくらいに。彼の感情は、不気味なくらいに静かだった。
とはいえ。『ティアリス・クラン』として振る舞うことは、かなりイラつかせた。
煩雑な入国手続きに伴う諸々。何度となく待たされること、全てが『彼』には理解できない。
面倒なことは『クラン』に押し付ける。名前や過去すら忘れていながらも『キング』はその高い自尊心だけは染み付いていた。