いじめバスター・実動班
いじめバスター実動班
1
古川昌弘は、小児麻痺の後遺症で、右足が、少し曲がって、やや短い。
右の足先だけが先に着地するので、右肩が上下動する独特な歩き方になる。
中二に進級して半月、新学年の四月が半ばを過ぎて、三限目の授業が始まる前だった。 古川が廊下を歩いていると、後ろの方で、どっと笑う声がする。
振り向くと、米山直也が古川の歩き方をそっくりまねながら後をついて来ていて、廊下にいた仲間の男子生徒たちが、それを見て、笑いこけているのだった。
古川は、頭に血が上った。
体の向きを変えるや、不自由な足の動きを速くした。
後先の考えもなく、米山につかみかかろうとしたのだ。
思わぬ展開に、古川を馬鹿にしきっている米山が、調子に乗った。
古川の急ぎ足をそっくり真似て、逃げる。
わざと動きを遅くして、古川につかまりかかっては、するりと逃げる。
古川にとっては残酷だが、傍目には滑稽に見える「鬼ごっこ」が始まり、米山の仲間の男子生徒たちがさらに笑いこける。
この連中のボス・朝倉祥治も、その中にいた。
古川が興奮して伸ばした右手が、出会い頭に、横をすり抜けようとした米山の顔面に当たった。
想定外のハプニングだった。
「なんだ、こいつ!」
へらへら笑っていた米山の形相が変わった。
弱い者いじめの本性がむき出しになった。
米山は、古川の小柄な体を窓側の壁に乱暴に押しつけるや、両肩を掴んで、腹部に膝蹴りを入れたり、拳で殴ったりし始めた。
教室の中の他の男子生徒たちは、見て見ぬふりをしている。
朝倉が関わっているとなると、彼らは傍観者になる。
女子生徒たちも動かない。
告げ口したら、何をされるかわからない。
三限目の開始を告げるチャイムが鳴り始めた。
二年二組の学級担任で、社会を教えている野村が、廊下の端に現れた。
目敏くそれに気づいた米山が、拳を引っ込めて、慌てて古川の前を離れた。
米山だけでなく、廊下に出ていた朝倉やその仲間の男子生徒たちも、急いで自分の席に向かい、窓から顔を出していた男子生徒たちも顔を引っ込めた。古川も、惨めに落ち込んだまま、自分の席に向かうしかない。野村に訴えることなど考えもしなかった。
教室に入って来た野村は、古川、米山、その周囲の男子生徒たちの表情や様子、教室の中の雰囲気、などから、何かを感じ取らなければいけなかったはずだ。
しかし、野村は、そんな気配は見せなかった。
出欠を簡単にチェックしただけで、すぐに白地図入りのプリントを配り、授業を始めた。 野村省吾は、四十がらみの社会科の教師で、学年主任だ。授業には定評があったが、生徒同士の微妙な関係には、無関心、というより、鈍感だった。
その日、その後は、何もなかった。
ところが、終礼の時になって、野村が、連絡事項を伝え終えてから、こう言った。
「古川が、足の動きを真似されて、みんなの前で笑いものにされたようだな。情けないことに、それを見て、面白がってた連中もいたようだ。それだけでも立派ないじめだが、古川は、その上、暴力をふるわれたそうだな」
古川はびっくりした。
野村は誰から聞いたのだ?
自分が告げ口したわけではない。
野村に事情を訊かれてもいない。
古川が、戸惑って、呆気にとられていると、野村が、唐突な感じで、米山を名指しした。 「米山、君は、この後、すぐ職員室に来なさい」
そう命じてから、朝倉を名指しした。
「朝倉、君も、この後、職員室に来なさい・・・いいね」
なんで、朝倉が?
古川は、米山はともかくとして、このタイミングで、朝倉が呼ばれたことに不吉な予感がした。この担任は、自分ではそんなつもりはないのだろうが、みんなの前で、不用意で無神経なことを言うことがよくあった。
朝倉祥治と同じクラスになったのは二年生になってからだが、古川は、一年生の頃から、同学年の男子生徒たちが、朝倉に気を遣い、怖がっていることを知っていた。
古川は、その日は、意識して、すぐに下校した。
翌日は、不安な思いで登校したが、終礼の時まで、特別なことは何もなかった。朝倉や米山に無視されて過ごすことになったわけだが、もともと親しかったわけではないので、そんなことは気にならなかった。ただ、時折、朝倉や米山の絡みつくような視線を感じていた。
古川は、終礼が終わると、担任がまだ教室にいるうちに、教室を出た。
校舎の出入口の近くの靴箱で、靴を履き替えていると、同じクラスの松田健吾と原口和樹が追いかけてきて、ちょっと来てくれ、と言った。
古川は、松田と原口が朝倉や米山の仲間であることを知っていたので、逆らわない方がいいと思って、それほど深い考えもなく、ついて行った。その日、表面的には何もなかったので、警戒心が緩んでいたとしか思えない。
途中でおかしいと思い始めた時には、体育館のステージ下の用具入れ倉庫に連れ込まれていた。
中に入ると、米山を従えて、朝倉が待ち構えていた。
朝倉は、背丈や体格は尋常で、見た感じは、普通の中学生だ。米山の方がむしろ大柄だ。 特徴があるとすれば、上体が発達していることと、その独特な目だ。この目が陰湿に光ると、凶暴な性格が透けて見えた。
その朝倉の目が陰湿に光っている。
古川は、逃げ出そうとしたが、足が竦んで、動けない。
様々な用具に囲まれた薄暗い床に、体操競技用のマットが広げてある。
採光が悪い中で、その白い色が異様に目についた。
朝倉が米山に目配せしたように見えた。
米山は、朝倉の飼い犬のような存在で、朝倉の言葉か合図で忠実に動く。
古川は、不意に後方に動いた米山に後ろ襟首をつかまれて、マットの上に引きずり倒された。
古川が、何すんだよ、と涙声で叫んで、体を起こそうとすると、米山がさらに肩のあたりを蹴りつけたので、仰向けに転がされることになった。
松田と原口が、すかさず、マットを折り曲げて、古川の上にかぶせてきた。
何がなんだかわからないうちに、古川の小柄で痩せた体は、埃まみれの分厚いマットにくるまれていた。
首から上は出ているが、胸が押し潰されそうで、苦しい。
その上、米山がマットを蹴りつけたので、埃が舞い上がり、それを吸い込んで、息が止まりそうになる。
朝倉が、マットの上に馬乗りになった。
古川は、苦しい、出してくれ、と言おうとするが、声が出ない。
朝倉は、そんな状況などお構いなしに、宣う。
「おまえ、チクったな。それも、でたらめ言いやがって! ただですむと思ってんのか、こら! おれが米山にやらせた、と言ったそうじゃないか!」
えっ? そんなこと、言ってない!
野村には、事情を訊かれてもいない。
古川は、朦朧とした意識の中で、首を激しく横に振るところまでは覚えていたが、その直後に失神してしまった。
古川が気がついた時には、マットの上に寝かされていて、朝倉、米山、松田、原口が、心配顔を並べて、顔を覗き込んでいた。古川が白目を剥いて失神したのを見て、さすがに肝を潰して、慌ててマットを広げたのだろうと思われた。
2
古川昌弘は、地元スーパーの大型店・Mの靴のコーナーで、胸の動悸を速めていた。
目当てのスニーカーが目の前にあった。人気商品で、高額の値札がついている。置いてある場所はもちろん、色の特徴、形状、サイズ、など、朝倉が言った通りだった。
朝倉に手口を教えられていた。
スーパー・Mは、この地方の中核店の一つで、特に日曜・休日には、買い物客が多い。靴のコーナーでも、五,六人の客が、品定めをしたり、靴を試しに履いたりしていた。
古川も、試し履きをしているふりをしながら、履かされていた朝倉のボロ靴を、外から見えないところにそっと押し込んだ。
その時には、目当てのスニーカーを履いていた。
心臓が喉から飛び出してきそうな恐怖を感じながら、通路に出て、行き交う客の群れに紛れて、出口に向かった。
意識して、一目で身障者とわかるような歩き方をした。
白い長袖シャツに学生ズボン、手には何も持っていない。
心臓が早鐘を打っている。
そのまま、外に出た。
恐怖心に負けて、振り向いたが、誰も追いかけて来る気配はない。
それでも、動悸は収まらない。
古川は、途中から、肩を激しく上下動させながら、駆け出した。
広い駐車場を出外れて、右に曲がると、建築資材を積み上げた空き地がある。そこに駆け込むと、朝倉と古川の靴を持たされた米山が資材の陰から出て来た。
古川は、放課後、朝倉と米山に連れ回され、使い走りをさせられたり、ゲームの代金を払わされたりするようになっていた。
拒むと、翌日、用具入れ倉庫に連れ込まれて、殴られて、引きずり倒され、分厚い埃まみれのマットにくるまれそうになった。古川は、その都度、やめてくれ、と必死に哀願した。古川を震え上がらせていたのは、死に直結するようなことをおもしろ半分にする年端のいかない連中に対する本能的な恐怖心だったのだろうと思われる。
古川は、朝倉や米山の言いなりになっているしかない状態だったが、それでも、万引きをさせられたのは、この時が初めてだった。
これが成功して、朝倉は、古川の新しい利用価値を発見することになった。
数日後の放課後、古川は、スナック菓子とガムを盗って来い、と言われて、コンビニの店内をうろついていた。
スニーカーの時は、手口を教えられていたが、ここでは、どうしていいのかわからない。客の出入りがあるなかで、胸の動悸だけを速くして、一〇分ほどもうろついていた。
店長らしい男が、挙動を不審に思ったらしく、古川に近づいて来て、何か探してんの、と声をかけてきた。
「いえ・・・はい・・・あの・・・」
古川は、しどろもどろになって、口ごもった。
その中年の店員は、右肩を上下動させて歩く、小柄で痩せた中学生を値踏みするような目で見ていたが、気弱そうで、悪いことはできそうもないとでも思ったのか、買う物が決まったら、持って来てよ、と言うと、レジの方に戻っていった。
古川は、声をかけられて、かえってほっとしていた。
胸の動悸が収まると、ポケットの小銭入れに、五百円玉が1つと百円玉が2つと、十円玉がいくつか入っているのを思い出した。
その金で、スナック菓子を二袋買って、店を出た。
近くの小さな公園に、朝倉と米山が待っていた。
古川は、何も言わずに、二人にスナック菓子を一袋ずつ渡した。
3
古川が初めて万引きを強要されたのは、朝倉と同じクラスになってから一月も経っていない四月の末の頃だった。
この時は、心臓は縮み上がっていたが、思いがけず、うまくいった。
これは朝倉に手口を教えられていたからで、その後は、強要されて、店に入っても、どうしていいのかわからず、胸をどきどきさせながら、うろついているしかなかった。
古川は、自分の小遣いをはたいて、要求されたものを買って渡すようになった。
朝倉、米山、それに仲間も加わり、DVD、ゲームソフトなど、だんだん高額なものを要求されるようになり、小遣いをすぐに使い果たし、必要な物を買うようにと渡されるお金を注ぎ込み、一月近く経って五月が終わる頃には、母親に金を貰う口実も尽きていた。 古川は母子家庭で、母親の雅代は、スーパーとスナックを掛け持ちで働いていて、家を空けることが多かったので、タンス預金などをかすめ取る機会には恵まれていたが、それにも限界があった。
二年二組の担任・野村省吾は、朝倉が学年の男子生徒たちを取り仕切っていることを知っていて、学年の男子生徒間に暴力絡みのトラブルがあると、朝倉か朝倉の仲間を呼び出して、情報を得るという手法を採っていた。学年主任は初めての経験で、試行錯誤をしていたのだろうと思われる。
従って、この類の揉事を野村に訴えると、すぐに朝倉に伝わり、逆恨みされて、後が地獄だった。古川が、朝倉や米山から逃れるには、欠席するか、放課後になる前に早退するしかなかった。
五月下旬、M中学二年二組、第三校時・体育。
女子は一階の女子更衣室を使えるが、男子は教室で着替え、脱いだ制服などは自分の机の上に置いて、グラウンドに出る。
古川が、体育の授業が終わって、教室に帰って、着替えようとすると、制服のズボンが見当たらない。
十人近くの男子生徒たちが、先に教室に帰っていた。
南側の窓際に、朝倉祥治と米山直也がいて、にやにや笑っているのが古川の視野の片隅に入っていた。
朝倉は、こういう場合、自分では手を出さない。
古川は、米山が、朝倉の意を受けて、どこかに隠していると直感したが、彼らに目を向けることはできない。彼らに視線を向ければ、たちまち言い掛かりをつけられ、ただでは済まないことがわかっていた。
彼らは古川の一挙一動を何気ない風を装って見ている。
古川は、それがわかっていながら、教卓の中、ゴミ箱、掃除用具入れの中などを覗いて回る。そうするしかないのだ。その流れで、教室後方のロッカーの中も覗き始めた。
生徒用の簡易ロッカーは、横長の三段の厚板を縦板で個別に区切っただけのもので、ほとんどの生徒が副教材の道具や辞書や体育服などを入れている。
古川が下段のジャージや教科書類が乱雑に詰め込まれたロッカーの一つを覗こうとした時、米山が駆け寄って来て、横から古川の腰を蹴りつけた。
古川は、ロッカーの木枠に頭を激しくぶつけて、床に転倒した。
他の男子生徒たちが、驚いて顔を向けたが、すぐ知らんふりを始めた。
朝倉が関わっていると、彼らは傍観者になる。
米山は教室から姿を消していた。転倒した古川が頭を抱えているすきに、ズボンを持ち去ったのだろう。
朝倉も、いつの間にか、いなくなっていた。
女子が教室に帰って来始めた。
後方の入り口から、池田知美と佐伯里香が入って来た。
古川は、制服の上着に下着のブリーフ姿という珍妙な格好で、頭を抱えて 蹲っていた。 二人は、古川の様子を目にして、一瞬、目を見張った。
池田は、古川と親しく話をしたことはなかったが、席が近かったので、最近の『異変』気づいていた。
古川は、四月の出来事があった頃から、朝倉や米山と一緒に行動するようになり、表面は親密そうに見えた。
古川が、朝倉のグループに急に冷たくあしらわれるようになったのは、五月の末の頃からだった。
池田は、古川の机の上に速乾性の接着剤が塗られていたり、教科書の中のページが破られていたり、カバンがゴミ箱に投げ込まれていたりしていたのを知っていた。
朝倉たちが、こういうことをするときは、ひどいいじめが進行中だった。
古川は、なぜこれほどいじめられるようになったのか? 一年の時から古川と同じクラスだった池田は、その理由がわかるような気がしていた。
古川は、小柄で、痩せていて、小児麻痺の後遺症とかで、肩を上下動させながら、右足を引きづるようにして歩く。普通であれば、同情はされても、いじめられるようなことはなかったはずだが、古川は、口が達者で、一言多かった。ホームルームや授業中に、誰かが間違ったことを言ったりすると、空気を読まずに、それを手柄顔で指摘する。どこの学校にもそんな生徒がいるものだが、古川にもそういうところがあった。
古川をぶん殴ってやろうと思っている者がいたとしてもおかしくなかった。
二年生になって半月も経たないうちに、それが現実になった。
米山に歩き方を真似されて、暴力をふるわれたのが、それだ。
池田は、教室の中にいて、この出来事を発端から見ていて、朝倉がやらせているらしいことに気づいていた。
池田は、その日の昼食時間に、佐伯里香を誘って、担任の野村省吾のところへ行き、思い切って、この出来事を話し、米山がやったことは身障者に対する差別的ないじめであり、朝倉のグループが関わっている、という意味のことを訴えた。
池田は、思慮深い生徒で、集団によるいじめに発展する可能性がある、などと、野村自身が判断できるようなことは言わなかった。
野村は、その日の放課後、米山と朝倉を職員室に呼んだ。
この時、どんな指導がなされたのか、池田は知るよしもない。
ただ、この『指導』があってから、以前の古川らしさがすっかり消え、朝倉や米山に連れ回され、使い走りをさせられている様子が目につくようになった。
今では、そんな一見親密そうに見えた関係が悪化していた。
悪化した分、いじめがひどくなっているようだった。
4
古川は、その日の放課後、ズボンが見つからず、体育用のジャージをズボン代わりにして、帰りそびれていると、朝倉と米山に両脇を挟まれて、体育館のステージ下の用具入れ倉庫に連れ込まれた。
中に入るや、いきなり、頬に平手打ちを喰らった。
朝倉が最初から手を出すのは珍しいことだった。
古川は、頬を押さえて、
「な、なんで殴るんだよ。もう、止めてよ。なんでも言うこと聞いてきたじゃないか」 と、言ったが、顔が異常に怯えて、足が震えている。
「なに言ってやがる! 甘ったれやがって! おれたちから逃げようとしてるだろうが! なめるんじゃないぞ、こら!」
朝倉は、そう怒鳴ると同時に、今度は、向こうずねを蹴りつけた。
スニーカーの靴先でも、思いっきり蹴りつけられると、頭の芯までひびくような激痛に襲われる。古川は、激痛を堪えながら、朝倉に恨みのこもった泪目を向けた。
古川という獲物をいたぶるのが朝倉の快感なのだろう。目は陰湿に光っているが、口元が笑っている。
「おれたちを裏切って、勝手なことをすると、どういうことになるかわかってるよな?」 朝倉は、意味ありげに、横にいた米山に顔を向けた。
米山は、心得たもので、片隅に丸めてあった体操用の部厚いマットを引きずって来て、床の上に広げた。米山は、虎の威を借る狐みたいなやつだが、することは朝倉より残忍だ。 古川の顔が引きつった。
こうなると、後退りしながら、泣き声で、懇願するしかない。
「・・・しないでくれ・・・許してくれ」
「許せねえ。昨日も、一昨日も、おれたちに黙って、いなくなってただろうがよ」
「・・・じゅ、塾に行くことになったんだ」
「塾だと? ・・・誰が塾に行っていいと言った! おれたちから逃げようとしてるだけだろうが!」
「そうじゃないんだ。金を払い込んだままで、ずっと行ってなかったんで、それが母親にバレて、泣かれたんだ・・・それに、おれ、もう金がない・・・」
「・・・金がない? どういう意味だ?」
古川は母子家庭だが、そんな事情は、朝倉にはどうでもいいことなのだ。
古川は、恨みをこめて、こう言うしかなかった。
「・・・ほんとは、万引きしてないんだ・・・全部、自分の金で買ってたんだ・・・万引きしたのは最初のスニーカーだけなんだ」
「・・・ふーん、そうか」
朝倉は、別に驚きもせず、平然としている。
これには、古川の方が驚いた。
「じゃあ、知ってて・・・」
「いつも、あんなにうまくいくわけないからな。おかしいと思って、店の中を覗いて、おまえが金を払ってるところを見てるんだ」
「えっ・・・! それで、おれには・・・」
「おまえに言うはずないだろう。万引きしてたわけじゃないから、いいじゃないか。いくらやっても捕まらないんだからな」
「ひどいよ。そんな・・・」
古川は、そんな問題じゃないだろうが、と言おうとしたが、口には出せない。そんなことを言えば、それこそ、マットに簀巻きにされるだけだ。
「おまえ、先日、確か、ゲームソフトの続きを盗って来ると言たよな? 言わなかったか?」
「・・・言った・・・でも・・・許してくれ。もう、金がないんだ」
「おまえ、おかしいじゃないかよ。万引きするのに、金がいるか?」
古川は口答えできない。
朝倉は、嵩にかかって、追い詰める。
「そうだろうが。それに、おれはよくても、仲間が許さんぞ」
米山が、すぐに、行動を起こそうとした。
朝倉が、米山を制して、
「・・・おまえ、先刻、塾に行くと言ったよな・・・そんな金があるんだったら、それを使えばいいんと違うか?」
中学生とは思えない言葉だった。
『マット責め』の効果も、当然、計算に入れているはずだ。
こいつの理不尽な悪知恵には、底が見えない。
古川は、思わず、つぶやいた。
「・・・おれ、もう、死ぬしかないよ」
信じられないような言葉が返ってきた。
「死にたきゃ死んでもいいが、言ったことを言った通りにしてからにしろ。今日は一人で帰してやるから、買おうが、万引きしようが、明日までに持って来い。いいか、こら!」
5
地元の国立K大学・教育学部。
いじめ対策の実動班が活動を始めてから一年近く経っていた。
この班が結成された経緯はこうだ。
いじめの問題が、改めて、全国的に騒がれ始めた頃、心理学科二回生の女子学生たち三人が、パソコン室に並んで座って、それぞれ、いじめの事例を検索しながら、意見や感想を言い合っていた。
「いじめられっ子ほど学校や大人を信じていないのよね。誰かに言ったら、もっとひどい目に遭わされると思い込んでいて、どこにも訴えることができずに、結局、自殺に追い込まれた子供たちだっているわ。こんなこと放っといていいと思う?」
「私も同じこと考えてたの。いじめの問題がこれほど騒がれている時に、教職を目指している私たちが何もしないでいるのはおかしいと思う」
「同感なんだけど・・・行政機関や現場の先生方が本気になって対策に乗り出している時に、私たちにできることが何かあるかしら? どんなことから始めて、どんなことをしたらいいのか、見当もつかないわ」
「・・・いじめられて、自殺まで考えるような生徒って、感覚的には地獄のような日を送っているんじゃないかしら。そんなことが皮膚感覚でわからない大人たちが対策を考えようとしているような気がするの。生意気なことかもしれないけど、年齢の近い私たちでなければできないようなことが何かあるんじゃないかしら? 以前から考えていたことなんだけど、取り敢えず、体験談を集めてみたらどうかしら? うちの大学にも、いじめられた経験のある学生たちがいるはずでしょう? 少なくないはずよ」
体験談集めを提案したのが、リーダー格の平山阿佐美。いい考えだわ、行動を起こすヒントが何か見つかるかもしれないわね、やってみようよ、とストレートに賛成したのが、中西晴香。そうね・・・何もしないでいるよりいいかもね、と消極的に賛成したのが、濱崎ユリ子。
平山の発案で、教育学部・心理学科・いじめ事例研究会名で、早速、アンケート調査が実施された。
アンケートを実施した後、平山たちのグループは、いじめられた経験があると答えている学生たちのところへ個々に足を運んで、実際に体験した内容を、できるだけ具体的に、聞いて回った。
どう見ても、そうは見えない学生たちの中に、いじめられた経験があると答えている学生たちが、少なからず、いた。
工学部・情報学科二回生の森脇郁夫、理学部・物理学科二回生の海江田庸平、などが、その典型だった。
森脇は筋肉質の大男。
海江田は相撲取りのような巨漢。
二人とも柔道部に所属していて、揃ってスキンヘッド、いかにも強面の風貌をしていた。 平山は、いじめは誰にでも起こることで、例外はない、その好例として、事例研究会に二人を呼んで、できれば、体験談を語ってもらおうと思った。
趣旨を話し、出会を要請すると、二人とも、意外にあっさりと、承諾してくれた。森脇も、海江田も、いじめの問題には、何か特別な思い入れがあるようだった。
その日、事例研究会に出会していた十八名は、講義室に入って来た二人を見て、一様に驚いた顔をした。
濱崎ユリ子が、みなの思いを代弁して、
「いじめられっ子、って聞いてたんだけど? いじめっ子、の間違いじゃないの?」
と、言ったので、大笑いになった。
森脇も、スキンヘッドの頭を掻きながら、笑い出した。
「あは、はは・・・。そう見える? ぼくは、こう見えて、見かけ倒しでね。ひどくいじめられてたことがあるんだ」
森脇の笑顔には雰囲気を和ませる効果がある。
海江田も、人柄なのか、笑顔が人懐こい。
二人とも強面系なので、なおさら、そういうところが目立つのだろう。
コの字型に並べた座席の上座に森脇と海江田が座った。
司会進行役の席に座った平山が、早速、
「森脇君、悪いけど・・・今、ここで、話しても構わなければって意味だけど・・・それがどんないじめだったか、みんなにも、話してもらえないかしら? 海江田君にも、後で、お願いするつもりでいるんだけど・・・」
平山は気を遣ったが、森脇は、そのつもりでいたようで、それほど気にする様子もなく、頷いてみせた。
森脇は、講義室の白い天井を見上げるようにしてから、
「・・・思い出したくない話で、ちゃんとわかってもらえるような話になるか自信がないが・・・」
と、前置きして、話を始めた。
「地方都市のちょっと規模の大きい中学校をイメージしてもらって、そこに札付きのグループがいて、我が物顔でのさばっていた、そう思ってほしいんだが・・・こんな連中はどこの学校にもいるから、どんなやつらかだいたい見当がつくんじゃないかな。こいつらを仕切っていたのが政岡正治ってやつで、どういう巡り合わせか、ぼくは、中三の時に、こいつと同じ学級になっちまったんだ。
ぼくは、その頃から、体が大きくて、外貌も見ての通りだ。そのためだったんだろうと思うが、ぼくは政岡に目をつけられた・・・と言っても、最初のころは、やつがぼくのことを勝手に仲間扱いしていたような気がする。ぼくは、やつらとは興味を持つ対象が違っていたし、ぼく流の考えもあって、やつらをあまり相手にしなかった。
しかし、自分の考えが甘かったことを思い知らされることになった。政岡は、そんなことを見逃すような脳天気な相手じゃなかった。自分で言うのもなんだが、ぼくは成績が学年でも上の方だった。政岡は、それを逆手にとったような嫌がらせを始めた。どんなことかと言うと、宿題が出る度に、慇懃無礼な頼み方で、ぼくにやらせようとし始めたんだ。一石二鳥を狙ったやつの嫌がらせだとわかっていたが、逆らうことはできなかった。
宿題や課題は英語と数学だけのことが多かったので、なんとかお茶を濁しながら、やつの言う通りにして、平穏な関係を保とうとした。しかし、内心では、政岡のようなグループの存在を許容していないから、どうしても、一線を画すことになる。政岡は、そんなぼくが、目障りで、許せなかったんだと思う。ぼくのことを放っといたら、やつのライバルにのし上がってくる、そう勝手に思い込んでいたふしもある。
やつはぼくの嫌がることを知っていた。ぼくは難関の県立高校を目指していたので、その試験勉強のことがいつも頭にあって、心理的に追い詰められていた。それほど差し迫っているような時期ではない頃から、ぼくはゆとりがなかった。政岡は、そんな心理状態のぼくに、授業ごとに、ノートを作って寄こせと言い始めたんだ。それも、ほとんど全部の教科だ。そんなことはできっこない、少なくとも、ぼくが引き受けるはずがない、そう見越した上でのことだったんだと思う。
やつにしてみれば、どっちに転んでも、よかったわけだ。言った通りにすれば、それでよし。そうでなければ、言い掛かりをつける口実ができる。ぼくは、やつの魂胆がわかっていながら、宿題をやってやるのもやめにした。もう、居直るしかなかったんだ。
結果がどうなったか察しがつくだろう。
政岡と仲間の連中が、事あるごとに、暴力絡みの嫌がらせを始めた。政岡は名うての腕力自慢の乱暴者、相手はいつも四,五人、少しでも逆らうと、人目のないところへ連れ出されて、ひどい暴行を受けた。時には、土下座して許しを乞うようなことまでしたが、やつらを思い上がらせただけだった。明白な上下関係ができてしまうと、嵩にかかっていじめをエスカレートさせてくるのが、こいつらの遣り口だった。
無論、この状況をこっちから修復したり、打開したりすることなどできっこない。泣き寝入りしているしかなかった。誰にも言えなかった。こう見えて、気が弱かったんだろうな・・・この体験が、今でも、ぼくの心的外傷になってるんだ・・・政岡とは後日談があるが、それはまた別の話だ」
目の前の森脇から受ける印象からは、とても信じられないような内容だった。平山は、森脇に何度も頷いて見せることで、貴重な体験談を話してくれたことに感謝の意を表してから、今度は、森脇の隣に座っている海江田に顔を向けた。言葉は要らなかった。
海江田は、背筋を伸ばして、座り直しながら、
「ぼくも似たような話をすることになるけど、それでもいいのかな?」
と、言った。深刻な話が続くことを気にしたようだった。
「勿論よ。いじめの体験談がどんなものか、みんなわかってるわ」
と、平山。
海江田は、何を思ったか、急に立ち上がって、
「中学生の頃のぼくは、とても太ってたんだ。今じゃ、見ての通り、モデルを頼まれるくらいスマートな肉体美になってるがね」
と、言って、ボデービルのコンテストでやるようなポーズをして見せた。海江田は、話の内容の深刻さを薄める配慮のつもりだったのだろうが、これが大受けして、森脇の時以上に、大笑いになった。
海江田自身も、それで緊張がほぐれたようで、ごく親しい仲間を相手にしているような語り口になった。
「こら、笑うんじゃねえ! 平山さんまで笑ってやがんの。そういうのが、おれにに言わせりゃあ‘いじめ’ってことになるんだぞ・・・なんちゃってね。ま、とにかく、太ってたと思いな。小学生の頃までは、かわいい、なんて言われてたくらいで、別に何もなかったんだ。ところが、中学生になると風向きが変わってきた。特に二年生に上がった頃、周囲の一部の連中の陰口や遣り口が陰湿になってきてね、それで、おれは落ち込んじゃって、このご面相で、いつも、泣きべそかいてたと思うんだ。そういうところが、また、つけ込まれる原因になったんだろうな。こいつは図体は大きいが、弱虫で、虐め甲斐があるってわけだ。
そんな連中が、おもしろがって、からかうだけじゃない。何が入ってんだ、と言いながら、おれの腹を代わる代わる拳で殴る、首は絞まるんか、と言って、首を絞めつける、おれが呼吸が止まりそうになって、藻掻いて泣き出すと、取り囲んでいた連中が、どっと笑うんだ・・・こんなことが続くと、ほんとに死にたくなるんだ。虐められて、自殺を考える気持ちがおれにはよくわかるんだ。誰かに助けてもらえるとは思えなかった。親や学校が、こういうことをやめさせることができるとは思えなかった・・・」
海江田は、その当時のことを思い出したのか、口を噤んだ。
巨体の海江田が痛々しく見えた。
平山は、潮時と思って、話を引き取った。
「・・・二人の風貌からは信じられないような話でしょう? いじめられ方も半端じゃない。それに、二人とも、泣き寝入りするようなヤワには見えない。それで、訊いてみたの、仕返しをしようとは思わなかったの、って。二人とも、無力感に陥っていたことを認めながらも、仕返ししたい、仕返ししてやる、といつも思ってたみたいなのね。
気持ちはよくわかるわね。でも、仕返しするってこと、どう思う? 自分がされていたことと同じことを、今度は相手にしようってわけね。これって、どこかおかしいとは思わない?」
政岡と後日談があると言った森脇が、気を悪くしたのか、抗議口調で言った。
「泣き寝入りしろってわけ? 逆らってこないとわかってる相手にひどいことをするようなやつらには仕返しをして、痛めつけてやった方がいいんじゃないの?」
「でも、それって、力のある強い者の論理じゃない? 腕力のないいじめられっ子にそんなことできるかしら? それができるようだったら、いじめられっ子なんかになってないんじゃない?」
平山は、森脇と議論する気はなかったが、そう言わざるを得なかった。
その代わり、森脇の顔が立つような方向に話を持っていった。
「そんな綺麗事を言ってはいられない現実があることもわかるわ。いじめをする子供や生徒たちの中には、暴力や腕力を売り物にしていて、言葉でいくら言ってもわからないような連中がいるのよね。そんな連中を心から反省させて、いじめを効果的にやめさせるためには、彼らを上回る迫力や凄みを持った実行部隊が必要なような気がするの」
「それじゃ、暴力団と同じじゃないのよ」
前の方に座っていた中西が、呆れたように、言った。
「あは、はは。そう言われれば、似てるわね。でも、実際に暴力をふるおうってわけじゃないわよ。基本概念や理念が違うわ。厳しい規則とチェック体制が必要になるとは思うけど・・・。発想は極めて単純なのよ。とにかく、いじめをする連中に二度といじめをする気を起こさせないように震え上がらせておくのが目的だから、この実行班のメンバーは、凄みのある風貌や態度や言葉遣いが必要不可欠な条件ってことになるんだけど、森脇君や海江田君は、そのイメージにぴったりなのよね。先刻話したような体験をしてるから、気持ちも半端じゃないと思うし、震え上がらせた後のケアも、間違いがなさそうな気がするの」
6
心理学科の事例研究会が中心になって、いじめ対策の実践的な活動グループが生まれることになった。
実際に活動を始めてみると、難しい問題や超えなければならないハードルが次々に出てきて、簡単には動けないことがわかってきた。
心理学科の溝口憲司主任教授の紹介状を携えて、主に、平山阿佐美、中西晴香、濱崎ユリ子の三人が、いろいろな方面へ足を運んで、趣旨を訴えて回った。
想定外の問題や課題を提起されて、それらをクリアするのに手間取ったり、横の連携の問題点を指摘されたり、紆余曲折があったが、結局、県の関係機関の認可(お墨付き)を得ることができた。学部の後押しがあったことが決め手になったことは言うまでもない。 ただし、厳しい条件が付いた。
・活動班のメンバーは、それぞれ最新の、児童心理学、青年心理学、行動原理学、事例研究、青少年保護条例、救急救命法、などについて、一定時間以上の講義・研修を受け、それらの受講証明を携行すること
・活動する場合は、当該の教育委員会に事前連絡し、ケースによっては、警察と連携すること
・児童・生徒に実際に関わった場合は、その事後のケアに万全を期すこと
A市東部、市立M中学校前。
六月中旬、空は薄曇り。
午後三時四十分。
正門を出るとすぐに押しボタン式の信号機付きの横断歩道がある。
反対車線の右前方に路線バスの停留所があって、その停車スペースの端に、白い軽自動車が停まっていた。
正門を走り出て来た池田知美は、すぐに、その車に気づいた。
M中の女子の制服は黒のセーラー服に赤いネクタイが特徴だ。池田は、小柄だが、手脚がすんなり伸びて、その制服がよく似合っていた。
顔を緊張させた池田は、信号が青に変わるのを待って、急いで横断歩道を渡ると、軽自動車の方に駆けて行った。
後部座席の助手席側に座っていた濱崎ユリ子が、すぐに車を降りて、池田を迎えた。
濱崎は、池田を後部座席に乗り込ませ、その隣に寄り添うようにして座った。淡いグリーンの長袖のU首シャツにジーンズ、化粧っ気のない癒やし系の顔、長い髪、濱崎のそんな女子学生らしい雰囲気が池田に安心感を与えているようだった。
運転席には森脇郁夫、助手席には海江田庸平。二人とも車を降りなかったが、精一杯の笑顔で迎えて、池田を安心させた。着るものに統一性を持たせようとしているのか、色や形はやや違うが、二人とも、濱崎と同じように、長袖のU首シャツにジーパンだ。軽自動車の車内は狭いので、二人が前に座っていると、大きな上体が前方の視界をほとんど塞いでしまうほどだ。
K大・いじめバスター実動班は、その独特な手法と、それによる驚くべき成果が、県下の小・中・高生の間で、密かに評判になり始めていた。
池田知美も、いじめの問題に関心を持ち始めてから、この組織の存在を知り、いくつかのノートの片隅に、その連絡先を書きつけていた。
池田が『K大・いじめバスター実動班』に通報してきた時、その相手をしたのが、濱崎ユリ子だった。
通報があったからと言って、実動班が軽々《けいけい》に動くわけではない。真偽を確かめる必要があった。
濱崎、平山、中西は、古川昌弘の家を、複数回、訪ねて、古川から学校の状況を詳しく聞き出した。古川の保護者である母親の雅恵とも、電話でのやり取りを含めると、何度も、話す機会を持った。彼女らが癒やし系の女子学生であったことが、古川本人や母親の雅恵の心を開かせるのに役立ったことは言うまでもない。
濱崎は、池田のクラスメート・佐伯里香にも会って、証言を得ていた。
池田は、軽自動車の中から校門を見張り、朝倉祥治と米山直也が出て来たら、三人に教える手はずになっていた。
校門は池田の右斜め後方に見える位置にある。
池田は、後部座席に両膝を乗せて、後ろ向きに座って、目を凝らしている。その緊張した後ろ姿が、小学生のようで、可愛らしい。
池田からの事前の情報によれば、朝倉と米山は、部活をしていないので、平常は、放課後になると、連れだって校門を出る、二人だけのこともあれば、他の仲間たちと一緒のこともある、ということだった。
下校する生徒たちが、三々五々、校門を左右に分かれて出て行く。
池田が、あっ、と言ったのは、池田が出て来てから、二十分近く経過した頃だった。
普通の男子中学生の二人連れだった。
長袖の白シャツに黒ズボン、二人とも、短髪で、体の大きさも身長も平均的で、とりたてて目につくようなところはない。
歩道に出て来た中学生二人は、池田が言った通り、反対方向の東へ向かった。
海江田は、急いで車を降りると、車道を挟んだこちら側の歩道を、距離を置いて、後を追い始めた。
この道を行くと、二級河川の堤防に突き当たる。
二人の中学生は、そのT字路で左に折れて、歩道を堤防沿いに歩き始めた。
森脇は車で先回りし、濱崎を池田に付き添わせて車に残し、徒歩で反対方向から現れることになっていた。
堤防沿いの道を歩き始めて四、五分経った頃、前方の民家の陰から、スキンヘッドの大男が出て来て、足早に近づいて来た。
中学生二人は、びっくりして、男に背を向けて、引き返そうとした。
後方からは、これまたスキンヘッドの巨漢が、早足に迫って来ていた。
中学生二人は、何が起こっているかわからないまま、挟み撃ちされる形になって、立ちすくんだ。
前から迫って来た大男が声をかけた。
「おい! おまえら、朝倉と米山か?」
超怖面の大男が、行く手を塞ぐようにして、立ちはだかっている。
二人は、申し合わせたように、こっくりした。
森脇が、顔と声に凄みを利かせて、
「おまえら、おれの知り合いの子を可愛がってくれてるようだな」
と、言った。
「えっ・・・?」
朝倉は、小生意気な顔に怪訝な表情を浮かべて、森脇を上目遣いに見た。米山は、蒼くなって、怯えた目を森脇に向けている。
「古川昌弘、って子がいるだろう?」
森脇が、そう言うと、朝倉も米山も、あっ、という顔をした。
「その子がな、ひどく虐められていて、学校に行きたくないと言ってるんだ。普通の脅しや暴力じゃないんだな。中学生とは思えないひどいことをやってるんだ。分厚い体操用のマットを体に巻かれて、死にかけたこともあったそうだ。そんなことをするようなやつらだから、使い走りをさせられるくらいじゃ済まない。放課後になると、連れ回され、ゲームの代金などを強請られる。休日も呼び出され、拒むと、翌日は只じゃすまない。地獄だ。こんな関係が続いていると、行き着く先は万引きの強要だ。万引きなんかそう簡単にできるもんじゃない。それで、仕方なく、要求されたものを買って渡すようになっていたようだが、買って渡していることが知られてからも、知らんふりして、相変わらず、盗って来いと脅される。だんだん高額な物を要求されるようになり、自分の小遣いを使い果たし、母親の金を持ち出すようになる。こんなことをいつまでも続けられるわけがない。それで、こいつらから逃げようとする。逃げられっこない。捕まると、殴られた上に、体操用の分厚いマットに簀巻きにされる・・・」
朝倉は、項垂れていて、顔を上げない。
米山は、同じように俯いていても、おどおどした目を頻繁に森脇に向ける。
海江田は、森脇の傍らで、二人を睨みつけている。
森脇が、一息入れてから、続けた。
「・・・それでな、昌弘は思い詰めたんだろう、ノートに、死にたい、なんて書いてあった。今でも、見張ってないと、どうなるかわからん。そんな状態なんだ・・・おまえら、何か心当たりはないか?」
朝倉も、米山も、慌てて、ぶるるんと首を振った。
海江田が、恐ろしい形相で、怒鳴りつけた。
「こら、てめえら! この男が、今、言ったことは、てめえらがやってたことだ! そうだろうが! 正直に言わんと、首の骨をへし折るぞ!」
二人とも、震え上がって、思わず、こっくりした。
森脇が、慌てて、
「おい、おい、仕方なく、認めたんじゃないだろうな。違うなら、違うと言っていいんだぞ・・・ほんとなんだな?」
と、言うと、顔を蒼白にした米山が、怯えた声で、
「・・・はい・・・悪かったです」
森脇が、すかさず、
「誰に悪かったんだ?」
米山が、震えながら、
「・・・古川です」
迎合しているようには見えなかった。
海江田が、黙っている朝倉を、怒鳴りつけた。
「朝倉ってえのは、てめえか? てめえが一番のワルだとわかってるんだ。口も利けねえで震えてやがるようだが、痩せて小柄で、足の不自由な同級生が相手の時だけ威張ってやがんのか!」
朝倉は、首と肩を竦めたまま、相変わらず、口がきけない。
森脇が、冷静な声で、訊いた。
「昌弘は、足の動きを真似されて、おまえらに笑いものにされたことがあったようだが、ほんとか?」
米山は、すぐに、頷いたが、朝倉は首を振った。
途端に、海江田が、また、恐ろしい声で、怒鳴りつけた。
「この野郎、うそをつくと、首の骨をへし折ると言ってあるだろうが!」
朝倉は、肝を潰して、慌てて、こっくりするしかない。いくらワルでも、朝倉は中学生、相手は巨漢のスキンヘッドだ。
森脇が、苦笑い浮かべて、言った。
「まったく、呆れかえったやつらだな。足が不自由なのは、小児麻痺の後遺症で、昌弘にはどうしようもないことなんだ。自分に責任のないことで笑いものにされたら、どんなに辛いかわかるか?」
朝倉は、相変わらず、口がきけずにいる。
米山は、蒼い顔をして、震えている。
森脇も、海江田も、朝倉が元凶だとわかっていた。
海江田が、恐ろしい形相をして、朝倉の前に仁王立ちになった。
「こら、朝倉、てめえは許さんぞ! 手足を叩き折ってやるから、覚悟しろ!」
朝倉は、顔を引きつらせて、思わず後退りした。
米山も、つられて、後退りした。
森脇が宥め役になった。
「ちょっと待ってくれないか。今すぐにでも、ぶちのめしてやりたいところだが・・・どうだろう、こいつらに時間を与えてみようじゃないか」
「それじゃ手ぬるいんじゃないのか・・・どうするつもりだ?」
「こいつらを、指定した日に、指定した場所に来させて、おれたちが指示したことができたか報告させてみようと思ってるんだ」
森脇は筋書き通りのことを言った。
海江田が、脅しを入れながら、調子を合わせた。
「・・・そうか・・・そうだな。おれたちの言う通りにするんだったら、今日のところは、見逃してやらんでもない。だが、言っとくが、古川って生徒に限らず、今後、嫌がらせをしたり、暴力をふるったり、まして、恐喝なんかしやがったら、ただじゃおかんぞ!」 二人とも、顔を蒼白にして、首を縮め、肩を竦めている。
朝倉も、こうなると、形無しだ。
森脇が、表情を厳しくして、言った。
「今から言うことをよく聞いておけ。いいか。これから先の一週間、昌弘にどういう態度で接したか、それをおれたちに報告しろ・・・それからな、人間には、長所もあれば、欠点もある。昌弘も同じだ。昌弘にも、おまえらの目で見ても、何かいいところがあるはずだ。欠点や短所はいいから、昌弘のいいところを見つけて、それを残らず報告しろ。
一回目の報告は、とり敢えず、一週間後だ。つまり、来週の木曜日の午後四時半、場所はここだ。雨が降ろうが、槍が降ろうが、ここに来い。昌弘から毎日話を聞くことになってるからな。おかしなまねをしやがったら、それこそ、只じゃおかんぞ。学校にだって押しかけるぞ」
森脇は、怖面の本領を発揮して、こう脅しつけておいて、表情を和らげて、続けた。
「おまえらがやったことがいろいろとおれたちの耳に入ってきた。その内容を知って、ショックを受けた。こいつらはぜったい許せん、生かしちゃおけん、そう思って、激しい怒りを覚えた・・・ところが、一方では、おまえらの手口を知って、あきれたり、感心したり・・・」
二人は、森脇の意図がわからず、怯えた顔に、怪訝な表情を重ねている。
森脇は、無精髭の伸びた顎を撫でながら、意外な言葉を続けた。
「善悪を別にしていえば、おまえらのいじめの手口、昌弘に教えた万引きの手口、そんなものには舌を巻いた。無論、誉めてはいけないことだが、とても中学生とは思えん。そんな知恵があるんだったら、いいことに使えよ。朝倉にしても、米山にしても、独特の個性がある。これだけははっきり言える。おまえらは、正しく伸びれば、きっと世の中のためになる。そうならなければいけない。心からそう思う。今のままだと、人間のクズだと言われても仕方がないんだぞ」
本来の柔和な表情に戻っていた海江田が、森脇に続いて、こう締め括った。
「おれも、そう思う。おまえらは、今でも、その個性を活かせば、みんなのためになれるはずだ。おまえらがいじめや嫌がらせや恐喝なんかするんじゃなくて、おまえらがそんなものを学校からなくすようにしろよ。それだけのキャラを持っているのが、おまえらじゃないか。みんなのためになるようなことをしろとまでは言わんが、少なくとも、いじめのような卑劣なまねだけはするなよ、な」
7
実動班は、M中の関係者、特に、二年二組の担任・野村省吾に、それとなく、接触する必要があった。
学校現場に直接関わるようなことでは、代表顧問の溝口憲司教授が頼りになる。教授は、発達障害や教育相談の専門家として知られており、県教育界では指折りの存在で、ご意見番だった。
溝口教授の依頼を受けた県教委が、先ず、M中学に連絡を入れた。
具体的な内容は何も伝えず、K大教育学部の女子学生二人が学校を訪問するのでよろしく、という簡単なものだった。
中学校側は、教育実習の、それも事前見学の打ち合わせ程度の訪問と受け取ったようだ。 平山阿佐美と中西晴香は、濱崎、森脇、海江田とは別行動で、翌日の午後三時を過ぎた頃、M中に向かった。
JRの電車に乗り、駅から歩いたので、M中学に着いたのは、予告していた時刻ぎりぎりの午後四時だった。
県教委のお声掛かりとあって、応接室に招き入れられ、教頭が応対した。
二人は、早速、二年二組の担任・野村省吾への面会を申し入れた。
教頭は、ちょっと意外そうな顔をしたが、野村の知り合いだと聞いて、詮索するようなことは言わずに、呼びに行ってくれた。
放課後の時間帯だったので、それほど待つこともなく、野村が現れた。
年齢相応の風貌だったが、体格は平均より大きく、眼鏡の奥の目に力があり、外見、雰囲気とも、池田知美から聞いて持っていたイメージとは違っていた。
野村は、入って来るなり、怪訝な顔をした。知り合いだと聞かされていたのに、見知らぬ女子学生たちだったからだ。
二人は、すぐに立ち上がって、
「お忙しいところ、すみません。平山です」
「中西です」
と、それぞれ、名乗った。
野村も、立ったまま、野村です、と名乗ったが、腑に落ちない様子はそのままだ。
応接台を挟んで、右側に肘掛け椅子が二つ、左側に三人掛けの長椅子がある。
野村は、二人を目下の学生と見て、右手でソファーに座るように勧める仕草をしておいて、向かい側の肘掛け椅子の一つに先に腰を下ろした。
二人が腰を下ろすと、
「私をご指名だそうだが・・・ご用件は?」
と、上から目線で、訊いた。
野村は、服装は質素だが、どちらかと言えば美形の女子学生二人を前にして、悪い気はしていない様子で、口元が緩んでいる。
平山が、前置きを省いて、
「早速ですが、古川昌弘君は先生のクラスの生徒さんでしょうか?」
と、訊いた。
「・・・古川、昌弘? 古川がどうかしたの?」
「お訊ねしているのはこちらですよ」
平山は、野村の態度や言葉に、上から目線の尊大さを感じて、強い言葉を返した。
野村は、平山の訊問調の口調に、県教委の後ろ盾を感じ取りでもしたか、言葉遣いが少し丁寧になった。
「・・・私が担任しているクラスの生徒です・・・今日は欠席してましたが・・・まさか、古川のことで県教委の方から何か?」
平山は、肯定も否定もしないことにした。相手次第で態度や言い方を変えそうな、こんな海千山千の教師から、まともに話を聞き出すには、県教委の威光を借りた方がいいと判断したのだ。古川昌弘には、昨日のうちに、連絡があるまで学校に来ないようにと言ってある。
平山は、野村の不審顔には構わずに、
「古川君は、先生からご覧になって、どんな生徒さんでしょう?」
と、訊いた。
「・・・・・?」
野村は、平山の意図を測りかねているのか、即答を避けた。
「何か、言い難いことでも・・・?」
「いや、そんなことはありません。取り立てて言うようなことがないものだから・・・」 「えっ・・・! それがお答えですか? どういう生徒さんで、その生徒さんを先生がどう見ておられるか、お訊ねしたんですよ。取り立てて言うことがないで済まされるおつもりですか?」
「・・・じゃあ、何と言えばいいの? 例えば・・・小児麻痺の後遺症で、歩く時に、肩が上下動する独特な歩き方をする、などと言えばいいの。しかし、こんなことを会ったばかりの第三者に言うべきかな」
第三者、という言葉が、殊更、耳についた。野村がそれを意図した言い方をしたからだろう。
「第三者? そんな言い方は止めていただけませんか」
「ほう・・・どういうこと? 何かそれなりの理由があるの?」
「本人と保護者の意向で、先生とお会いしているつもりです」
野村は、想定外のことを言われて、目を剥いた。
平山は、野村がこの件で詮索するようなことを言い出す前に、言葉を継いだ。
「古川君に小児麻痺の後遺症があり、歩き方に支障が出ているとすれば、それは取り立てて言うことがないようなことなんですか。奇異な目で見られたり、いじめられたりして、傷ついたことはないのでしょうか?」
野村は、こんな小娘に意見されようとは思っていない。すぐに気持ちを立て直して、無理筋の反論をしてきた。
「・・・傷つくと言えば、他所からそんなことを言われて、騒ぎ立てられることの方がよほど傷つくんじゃじゃないの。古川の場合、小児麻痺の後遺症は第二の天性のようなもので、それほど気にしているわけでも、それほど不自由だと思っているわけでも・・・」 平山は、呆れて、野村の言葉を途中で遮った。
「失礼ですが、先生は、古川君のことがよくわかっておられないんじゃありませんか? 古川君の身になって考えられたことがあるんですか?」
野村の顔が、気色ばんで、赤くなった。
「古川の担任になってまだ二ヶ月ほどだから、偉そうなことは言えないかもしれないが、少なくとも、外部の人間のあなたよりはわかっているつもりだ。古川が、歩き方を真似されて、からかわれたことがなかったわけじゃない。しかし、そんなことは私の耳にすぐに入る。この場合も、その日のうちに情報が入り、関わった生徒たちを厳しく指導した。古川のことについては、私なりに判断して、きちんと対処している。短絡的な思考回路で、想像を逞しくして、勝手な・・・」
今度は、中西が、堪りかねて、口を出した。
「学級内でひどいいじめが行われていたことをご存知ないんですね?」
「ひどい、いじめ? そんなものは・・・ない、はずだが・・・もっとも、成長途上の未熟な中学生同士だから、なにかしら些細ないざこざがなかったとは言わないが・・・」 「そんな他所事みたいな・・・いつ不測の事態が起こってもおかしくない状態になっていたんですよ」
「・・・それで・・・古川のことを?」
「やっとおわかりのようですね、信じられないことですが・・・」
「・・・あなた、誰からそんなこと、聞いたの?」
「そっちの方を問題になさるんですか?」
きつい言葉で切り返されて、野村はすぐには言葉が返せない。
中西は、さらに容赦ない言葉を浴びせた。
「クラスの中で、深刻ないじめが二ヶ月近くも続いていたのに、ほんとに、気づいておられなかったんですか? それとも、見て見ぬふりを・・・」
8
野村は、言葉を失って、中西の顔を凝視している。
中西も、ここで折れてはいけないとでも思っているのか、目を逸らさない。
平山が、二人の間に割って入るようにして、鉾先を変えた。
「ところで、朝倉祥治、という生徒さんも先生のクラスですね?」
野村は、朝倉祥治、と聞いて、ビクッとしたような顔をした。
「朝倉君は、先生からご覧になって、どんな生徒さんでしょう?」
野村は、古川の時と同じように、即答を避けた。慎重なのか、外部に漏らせないようなことを多く抱えているのか。
「・・・何か言い難いことでも?」
「・・・いや、別に・・・朝倉は生徒指導面で役に立ってるんで、言い難いと言えば、言い難いことだと言えないこともないが・・・」
「えっ・・・! 生徒指導面で役に立ってる、って・・・学年の生徒たちの中で、朝倉君がどういう存在か、わかっておられないんじゃありませんか?」
「いや、わかってます。男子生徒間に暴力絡みのトラブルがあった時に、朝倉が収めてくれたことが、一度ならず、あります。それで双方に後遺症が残らないのだから、生徒の中の朝倉の存在感はわかっているつもりです。もっとも、あなたが言いたいこととは意味が違うようだが・・・」
「・・・生徒同士の問題の解決に、朝倉君を利用しておられたってことですか?」
「あは、はは。まるで時代劇の悪役を見るような目になってますね。越後屋、おぬしもワルよのう、ってわけですか・・・結果として、そういうことがなかったわけじゃない、とでも言っておきましょう。ついでに言えば、朝倉のグループは、そういう問題の情報源としても役立ってくれてるんだが、現場の内情を知らない部外者に言わせれば、これも利用してるってことになるんでしょうな」
中西晴香が、憤然として、口を出した。
「先生、冗談をおっしゃってるんですか! 冗談ごとじゃないでしょう! 担任がそうだから、朝倉君が増長して、ひどいいじめを平気でやってたんじゃありませんか!」
野村の顔が、怒りを帯びて、赤くなった。
「あなた、学校現場の内情も、われわれの苦労も知らないで、何を根拠に、そんな聞き捨てならんことを断定的に言うの!」
激した野村が、中西を睨みつけた。
平山が、宥めるように、
「先生は、朝倉君のことがよくわかっておられて、功罪相半ばだと思っておられるんじゃありませんか?」
野村は、平山の言葉に、やや表情を和らげたが、顔を赤くして、口を噤んだままだ。
「古川君が、米山君に足の動きを真似されて、笑いものにされ、暴力をふるわれた、そんな出来事があった日の放課後、先生は米山君をみんなの前で職員室に呼ばれて、その時、直接手を出していなかった朝倉君も呼ばれたようですが、なぜ呼ばれたのですか?」
野村が、ほほう、という顔をした。
「・・・あなた、誰からそんなことを聞いたの?」
「訊いたことに答えていただけませんか?」
「その時、朝倉を呼んだのは、米山は朝倉の言いなりで、朝倉を指導しておけば、米山は古川に手出しをしないだろう、そう判断したんです」
「先生は、さすがに、朝倉君のことがよくわかっておられるようですね。だから、正しい判断をされて、正しい指示をされたんだと思います。・・・ただ、この時、どういう指導をなさったのですか? 同時に、二人を前にしてのご指導だったのですか?」
「・・・同時に指導しちゃいけないとでも言いたいの?」
「いいとか、悪いとか、そういうことじゃありません。先生がこの出来事をどう受け取っておられたか、たいした問題だとは思っておられなかったんじゃありませんか?」
「そう短絡してもらっちゃ困るな。別々に指導する必要があると思わなかっただけの話ですよ」
「時間をかけて、個別に指導すべきだったとは思われませんか?」
「事情もわからんで、勝手なことを言ってほしくないな。その日、学年会を予定していて、それが気になっていたことは認めるが、だからと言って、二人の指導をいい加減にしたつもりはないんだ!」
野村が声を荒げた。
中西が食い下がった。
「・・・学年会までにどのくらいの時間があったのですか?」
野村は、中西をじろりと睨んだが、
「・・・十二、三分くらいでしたかね」
と、答えた。
「学年会には間に合われたのですか?」
「・・・私が招集して、司会も私がすることになっていた。そう言えばわかるでしょう」 「それで、朝倉君や米山君にはどういう指導をなさったのですか?」」
「二度としないように、厳しく言い聞かせた。他にどうしろっていうの?」
「それで効果があったとお考えなんですね?」
野村の顔が朱に染まった。
「何を言いたいの! 朝倉も米山も神妙に聞いていて、納得したんだ!」
「ほんとに納得したのでしょうか? 先生のご指導があった頃から、いじめが始まってるんですよ」
中西は容赦をしない。
野村は、信じられないという思いに、この小娘が、という思いを重ねて、中西を睨みつけた。
中西には、いじめを見逃していた野村を許せないという思い込みがあり、野村の方は、そんな思い込みをもろにぶつけてくる中西に神経を逆撫でされている。
野村が口を開かないうちに、平山が機先を制した。
「深刻な事態に発展する可能性があって、事実、そうなったのですよ。時間の制約を考えずに、個別に、しっかり指導なさるべきだったんじゃありませんか? 生意気なことを言うようですが、継続して指導を続けるといういじめ指導の鉄則も守っておられない。この時の先生の、こんな言い方をして失礼ですが、その場しのぎのご指導がいじめを誘発し、その後、深刻な事態に発展していってるのですよ」
野村は、舌鋒鋭く、こうまで言われて、居直るしかなかったようで、怒りを抑えたような声で、反論にならない反論をしてきた。
「・・・何を根拠に、そんなことを断定的に言うの? 事実であろうが、なかろうが、誰かが言わなきゃ、校内の内情がわかるはずのない学生に、そんなことが言えるはずがない。その悪意の情報源は誰なの?」
「やはり、そっちの方を問題になさるんですね。事実がこうだったら、自分にも反省すべき点があった、そんな風には考えていただけないのですか?」
平山は、野村のような年齢と立場の人間に無礼だと思いながらも、そう言わざるを得ない。野村の反応が気になったが、野村は言葉を返せないでいる。
「・・・古川君が笑いものにされ、米山君に暴力をふるわれた日、先生は、みんなの前で、その事実を古川君の名前入りで紹介され、その直後に、米山君と朝倉君を職員室に呼ばれた。このやり方が、こう言っては悪いですが、不用意で、配慮に欠けていたことになります。それでも、その後、ご指導が継続していれば、ひどいいじめに発展するようなことはなかったんじゃないでしょうか。古川君は、表面は親しさを装った朝倉君や米山君に、使い走りをさせられ、ゲームなどの代金を強請られ、万引きを強要されるところまでエスカレート・・・言う通りにしないと、暴力絡みの脅迫を受け、体操用の分厚いマットに体をくるまれ、あやうく死にかけたことも・・・」
血相を変えた野村が、大きな声で、遮った。
「ちょっと待ちなさい! ひどいじゃないか、先刻から! 何を根拠に、そんなとんでもないことを断定的に言ってるの!」
「古川君から聞いたんです。何もかも詳しく話してくれたんです」
「・・・古川が? ・・・聞き捨てならんひどい内容なんだが、朝倉や米山にも確かめたの?」
「ええ、二人も認めていることを言ってるつもりです。古川君のお母さんにも、何度も、お会いしてます・・・母子家庭なんですね。お母さんは大変な思いをされて、古川君や弟、妹を育ててこられて、今でも、苦労なさってる・・・今度の件で、なぜ学校に訴えるような状況にならなかったのか、古川君が我慢を重ねていたこともありますが、その事情がわかるような気がしてます」
野村は、この女子学生たちが、周到な調査や事前準備をした上で、県教委の後押しもあって、学校に来たらしい、そういう状況に思い当たったのか、観念したような語調になった。
「いや、恐れ入ったな。当事者の私らも知らないようなことが、あなたがたの耳には入っているようだが、これはどういうことなの?」
「私たちには独自の情報網があり、通報が入ってきます。その中で、信憑性があると判断した通報については、当事者双方やその周辺から情報を集め、裏づけ調査をします」
「・・・そうか・・・K大にいじめ問題に対処する実動班があると聞いていたが、あなたがたがそうなんだな?」
「今回の問題と関係があるとは思えませんので、その話題は遠慮させてください」
「・・・なるほど・・・よくできた組織のようだ・・・私を説き伏せ、私が納得しなければ、問題の解決にはならない、横道に逸れてはいられない、そういうことのようですね」
平山は、思わず、野村の顔を見直した。
このベテラン教師の理解力に非凡なものを感じたからだ。
野村が訊いた。
「・・・ところで、古川に、なぜ、これほど肩入れしてるのかな?」
「古川君に肩入れしているのではありません。あくまでも公平に活動しているつもりです。いじめがあって、学校側が深刻な事態を見過ごしている、そんな場合に、当の本人から通報してくることはめったにないのですが、通報を入れてくれる協力者がいます。そんな通報や連絡を受けて、学校を側面からサポートするのが私たちの活動の目的です。自殺のような不測の事態が起こらないとも限らない、このことは、いつも念頭に置いていなければなりません。実は、古川君の事例が、そうならないとも言えない状況だったのです。私たちが、分も弁えず、学校に押しかけて、知識も経験も豊富な先生に、生意気なことや失礼なことを申し上げてしまいましたが、少なくとも、その理由はわかっていただけるんじゃないでしょうか?」
「いや、失礼だったのは私の方だったと言わせてもらうしかない。まことにお恥ずかしい・・・いや、お恥ずかしい、などという言葉では足りない醜態だったと言うしかありません。古川がいじめの対象になる可能性があることはわかっていたつもりですが・・・」
「いじめの対象になる可能性があった、というのはどういうことでしょう?」
平川が、興味深げに、訊いた。
「古川は、頭の回転がいいものだから、口が達者で、一言多いのです。これは、古川の身体的な弱点を補う長所になるはずのものなのですが、中学生のレベルで使い方を誤ると、生意気で空気が読めないことになります。嫌われて、いじめの対象になる可能性があったのです。米山との一件のときにも、それを感じたのですが、その後、朝倉や米山と親しくしている様子を見て、表面だけのことだったことを見抜けず、油断していました。古川は、身障者ですから、同情されこそすれ、いじめられることはない、そう思い込んでいたことが、結果的に、こういう事態を招いたことになります。担任としては、申し開きのできない失態です」
野村が述懐するように、しみじみ、そう言って、唇を噛むのを見て、平山は、今さらながら、野村を見直した。
野村は、社会科教師として、三学年にまたがって複数のジャンルの授業に出ていた。学級担任、学年主任の他に、種々の会議や研修に関わっていた。それに、部活の指導が加わり、精神的にも、時間的にも、余裕のない状態で仕事に追われていたのかもしれない。
野村を責めるのは酷なのか。
しかし、それではすまない。
古川の事例は極めて深刻な段階に達していた。
平山は、野村の立場や感情を傷つけても仕方がないと思った。
「学級内で深刻ないじめが続いていたにもかかわらず、結果的に、それが放置される形になっていたことをどう思われますか? 生徒たちの個性や性格を見る目をお持ちのようですから、その目を活かして、生徒たちの日頃の言動をよく観察して、目の届かないところで起こっていることにも注意や気配りが必要だった・・・そうはお思いになりませんか? それに、ホームルームや授業中に、生徒たちの前で、不用意なことを口にされ、今回のようないじめを誘発することになった・・・こんなことも、経験豊富な先生には考えられないようなことだったんじゃありませんか?」
平山は、この二年二組の担任が凡庸な教師であれば、色をなして、釈明するか、反論してくるだろうと思った。
ところが、野村は、深刻な顔をして、考え込んでいる。
平山は、野村の、教師としての、優れた能力を見たような気がした。多忙な日常に、その力が殺がれていただけなのだろうと思った。
野村が本気で指導すれば、朝倉祥治や米山直也のいじめはなくなる、野村はその気になっている、平山は、そう確信した。
野村は、ベテラン教員としての矜持を捨てて、聞く耳を持ってくれている、そう見て取った平山は、朝倉、米山を日常的に指導する必要があることを指摘してから、生意気なことを申し上げるようですが、と前置きして、こういう意味のことを言った。
古川昌弘の長所や美点を見つけて、あるいは、引き出して、それを生徒たちにも気づかせ、古川の尊厳を守ってやる必要があると思うので、そうしてほしい、先生なら、わざとらしくなく、そんなことが自然にできるはずだと思う、釈迦に説法かもしれないが、朝倉と米山の指導を誤って、古川が逆恨みされるようなことがあってはならない、その可能性が少しでもあれば、指導してほしくない、と。
ベテラン教師としての誇りを根こぎにされるほどの屈辱だったはずだが、野村は、決意を込めた眼に、誠意を漲らせて、深く頷いた。
了