後編
ガラガラ、と建付けの悪い引き戸を開けて、店内へと足を踏み入れる。といっても、一歩はいればそこはカウンターであって、丸椅子に腰を掛けるしか動きようがない。何しろ狭い店なのだ。
「――いらっしゃい」
店主のぶっきらぼうな声が聞こえる。私はいつもの決まり文句を言った。
「いつものやつ、お願いします」
「あいよ」
いちいち注文しなくても、ここで食べる私のメニューはいつもの辛口チャーシューメンと分かってくれているのだ。常連の強みってやつである。
黙々とラーメンを作る店主。店内を見回すと、珍しく客の姿はまばらだった。中年のサラリーマン風の客が二人、飲み屋のホステスであろう華やかな雰囲気を漂わせたかわい娘ちゃんが一人。サラリーマンたちは酔っているのか、会社の愚痴を言いながらラーメンを口に運んでいる。そしてかわい娘ちゃんは、店主の動作に見とれているようでもあった。
やっと私の前にいつものラーメンが差し出される。香りといい、見た目といい、私の主食である辛口ラーメンに違いない。私はカウンターに置いてあるゴマと胡椒、そして特製にんにくをどんぶりの中に振り入れた。こうすることで最高のラーメンプラス、私のオリジナルラーメンが出来上がるのだ。
いつものようにレンゲを手に取ると、ピリ辛のスープをすくい取る。しかし口に持って行ったところで、私の手が止まった。このスープは、猫の……。
「――なあおやじ、このラーメン、ほんとに旨いなあ」
私がためらっていたとき、サラリーマン風の、定年に近い方の男が言った。
「ぶ、部長、やめてください。叱られますから」
若い方のサラリーマンがたしなめた。「ラーメンは日本一だけど、このおやじも日本一偏屈者なんですから」
そう、文句を言おうものなら、即刻叩き出される。これまで何度も、いや、何十回も見てきたことがあった。客と大将がけんかをすることは日常茶飯事なのだ。
「旨いものを『旨い!』と言ってるんだからいいじゃないか。なあ、おやじ?」
店主の目がキラリと光った。「黙って食え」と言いたい目である。
「これだけ旨いラーメンだ。何か特別な味付けってもんがあるんだろ」
部長と呼ばれた男はどんぶりに顔うずめながら言った。
店主は何か言いたげだったが、一人で座っている女性客をチラッと見てから、
「そんなことはないですよ」
と、怒るでもなく言った。
「もったいぶらんでもいいじゃないか。何か隠し味があるんだろ」
「そうですね……。あえて言えば、子猫ちゃんのおかげかな」
私が手に持っていたレンゲが、どんぶりの中にポトリと落ちた。
「子猫ちゃん? 何だそりゃ」
「いい味が出るんですよ」
店主はそう言うと、また黙々と仕事を始めた。
やはり……。噂は間違いではなかったのだ!
やめさせなくてはならない。そんな邪悪なラーメンなどあってはならない。そう、猫の主権(?)を守るのは私しかいないのだから。
私は勢いよく立ちあがった。わなわなと震える身体を何とか抑え、硬く握られたこぶしを突き出そうと身構えた。
店主がジロッと睨みつける。常連であろうとも、食べている最中に席を立つことは許されないのだ。
ところが、
「どうしたの?」
珍しく店主が口を開いた。しかも優しい口調で……。
「こ……この……ご……ごちそうさま!」
私は店を飛び出した。猫のラーメンなんて食えるわけないじゃないか!
裏の公園へと走りながら、首を絞められ、皮を剥がれている猫の姿を私は思い浮かべていたのだった……。
いつまでそうしていただろう。公園のベンチに腰を掛けたまま、私はいつまでも立ち上がることができなかった。
辺りは闇に包まれ、公園の照明も鈍い光を放っているだけ。明け方に近いといっても、まだ陽が昇るまで一時間近くあるはずだ。
足下を一匹の猫が横切って行った。
「この猫も、スープにされるのかな……」
私は苦い思いをかみしめながら、茂みの中に消えていく野良猫を見つめていた。
たとえ猫骨スープだったとしても、今まで美味しいと思って食べていたのである。研究に研究を重ね、その味を追求していたのはあの店主なのだ。たとえ公言できない隠し味があったにせよ、それで日本一のラーメン屋へと成長させたのである。私に何が言えるだろう。
私はやっとの思いで立ち上がった。もう帰ろう。そして、あのラーメン屋のことは忘れてしまえばいいのだから……。
タクシーを停めようと公園から出る。この時間、タクシーは少ないだろうから、表通りまで出るしかない。――そのために、私はあのラーメン屋の前を通り過ぎようとした。
もちろん店は閉まっている。看板は消えているし、店内も真っ暗だ。しかし……。
何か聞こえる。暗い店内から、苦しく喘ぐような声が聞こえていたのだ。
まさか……。いや、空耳かもしれない。と思っていると、その瞬間、雄叫びのような悲鳴が店内から聞こえた。
間違いない。今この中で猫をつぶしているところなのだ!
私は我慢できなかった。さっき公園で見た猫が殺されているのかもしれないのだ。見逃すわけにはいかない。私の怒りは頂点に達し、その店のドアを勢い良く開けたのだった。
「た……大将! やめてください!」
カウンターの中に、店主の姿がぼんやりと浮かび上がった。そして、その腕の中にいた「それ」が、ボソリと言った。
「――誰、この人?」
「うん……いや……まあ……」
と、店主はたじたじである。それもそのはず、腕の中にいた「それ」とは、さっきカウンターに座っていたあのホステス風の女だったのだ。しかも、上半身裸といういでたちで……。
「あ、あの……」
「ああ、お兄ちゃん、今日はもう閉店だよ」
女の肩に手を回したまま、店主は言った。「それとも、何か用だったの?」
「いや……あの……」
どうやらスープを作っているのではないらしい。そんなことは分かっても、状況的に何も言わないわけにはいかない。
「実は、お願いがあります。猫を殺すのはやめてください」
「は? 何のことだね?」
「僕、知ってるんです。ラーメンのスープに猫の骨を使ってるって事を。調査団がなたのことを調べました。閉店後、あの公園から猫を連れ去っているってことも。さっきも言ってたじゃないですか、旨さの秘訣は子猫ちゃんのおかげだ、って。猫の骨でスープをとるなんて最低です。あなたにラーメンを作る資格なんてない!」
私は一気にまくしたてた。ここでためらっていたら、この店主はいつまでも猫骨ラーメンを作り続けていくかもしれないのだ。
店主はしばらく私の顔を見つめていたが、プッと吹き出したと思うと、勢いよく笑い始めた。そして、
「俺が猫の骨を使ってラーメンを作ってるって? ははっ、確かに猫からはいい味が出るらしいね。でもね、うちのラーメンの旨味を出す猫ってのは、子猫ちゃんだけなんだよ。しかも脂ののったピチピチの子猫。たとえば――」
と言って、抱いていた女を引き寄せる。「この子なんて、今までで一番いい味が出るんだ。ねえ、子猫ちゃん」
「やめてよ。ボーヤが見てるじゃない」
「そんなこと言うなよ。明日の活力のために、俺に元気をつけてくれるんだろ?」
「もう、ほんとに好きなんだから」
そう言いながら、二人ははばかりもなく絡み合い始めた。
「あ、そうだ。お兄ちゃんに言っとくけど、猫骨スープの噂は俺も知ってるよ。でも言いたい奴には言わせとけばいい。所詮真似できないからやっかんでいるだけ。うちのスープは正真正銘のトンコツスープ。隠し味があるとしたら、それは俺の<やる気>と<根性>かな。それを引き出してくれるのが、子猫ちゃん。つまり若い女の子のエネルギーを吸収すること。だからこうして、明日のための準備運動をしてる、ってわけさ」
そう語った店主の目は、人生の勝負師のような眼光をたたえていた。
「でも、公園の猫たちが――」
「野良猫ってのは、所詮そこらで死んでいく。それがあいつらの運命なんだよ。だから俺は、飢えている猫には残飯を与えるし、死んでしまった猫は弔ってやることにしているんだ」
そうだったのか……。
猫骨スープは、やはり単なる噂だけだったのだ。いや、考えてみれば分かることである。いくら旨いだしが出るとしても、こんな平和な日本で猫を食材に使うなんてことはありえないのだから。
私は恥ずかしくなって、深々と一礼してからその店を出た。もちろん店主は女と絡み合ったままで、私のことなど見ていない。
しかし、もうそんなことはどうでもいい。私はこれからも主食であるこの店のラーメンを食べることができるようになったのだから。
通りに出ると、空が白々と日の出の瞬間を迎えるところである。
ぼんやりとタクシーを待っていると、あの店から何かしら悲痛な叫び声が聞こえたような気がした。
猫の声だろうか。それとも「子猫ちゃん」の歓喜の声だろうか。
どうでもいい、と私は思った。旨いラーメンを作るための手段であるのなら、女だろうが猫だろうが、何でも好きなものを使ってくれ。
おいしいラーメンを作るために……ね!
このラーメン屋は、私が以前通っていた店をモデルに書いています。本当に頑固なオヤジで、よく客とけんかしていました。
でも、ラーメンは本当に美味しかった。現在は若い人に店を譲り、ご自身は隠居されているそうです。
最近その店にラーメンを食べに行きました。相変わらず美味しかったけど、何かが物足りない。店員さんの笑顔は爽やかだったけど、やはりあのおやじが作ったラーメンの方が美味しかったかな。
さて、この作品は、その店の親父が書いた「ラーメン読本」なるものに寄稿したものです。
もう一つ、さて、ですが、この作品はどのジャンルになるのでしょう。推理でもない、文学ともいえない、またコメディーといえるのかどうか……。