第5話 獅子は谷底に
唇が触れる――
そう思った瞬間、ぶわりと熱風が吹き荒れ、咲良の眼前で小さな火竜が猛々しい咆哮をあげ、朱璃を威嚇した。
「王子よ、戯れはそれくらいにせよ」
美しい黒髪をなびかせて、片手を前に差し出した巫女装束の紅葉が凛とした声音で言い放つ。
腕の中の少女が顔を真っ赤に染め、目元を潤ませていることに気づいた朱璃は、すっと身を引き、優雅に腰を折り一礼する。
「申し訳ありません、美しい人――あなたの甘い香りに魅せられて、自分を制御することを忘れていました……」
悩ましげな顔で甘い吐息をもらした朱璃は咲良の手をすくい上げると、そこに触れるか触れないかのキスを落とし、その瞳にうっとりするほど甘やかなきらめきを宿す。
「私は朱華国第一王子、朱璃と申します。よろしければあなたのお名前をお聞かせ下さい」
真摯な微笑みを向けられて胸がきゅっと締め付けられると同時に、咲良は口に手を当てて大声をあげていた。
「王子様……ええっ――!?」
耳に響く絶叫に紅葉は顔を顰め、蘭丸はくすりと忍び笑いする。
動転して振り返った咲良は紅葉が頷くのを見て、そういえばさっき大ばば様も王子と言っていたような……と思い出して、自分でも分かるくらいかぁーっと顔が赤くなってしまう。
いきなり目の前に美麗の王子が現れて、咲良は何度も目を瞬かせる。
自分を見つめる少女に微笑み返した朱璃は、紅葉の前に進み、胸の前で腕を組み、頭をわずかに下げる。
「大巫女様、ご無事な様子で安心いたしました」
「王都よりはるばるご苦労だった。攻めてきた隣国の兵は逃げてしまったが、王子自ら近衛隊をひきつれて救援に来られたこと、民にとって心強い励みになるだろう」
「恐れ入ります。もう少し早く駆けつけることができれば……」
悔しそうに美しい顔を歪めた朱璃に、紅葉は凛とした輝きの瞳を向ける。
「よい、気にするな」
静かな紅葉の呟きの、本当の意味を理解した者はここにはいなかった。
朱璃は残兵の捜索と村の被害調査、怪我人の手当て等近衛隊に指示を出し、村長に挨拶を済ませ、部下の報告を待つために紅葉の館へと向かった。
玄関脇の応接室へと案内された朱璃は二人掛けのソファーに優雅に腰掛け、使用人が運んできた紅茶に口をつけてから、もどかしげに部屋の隅に控えていた咲良に視線を投げかけながら、テーブルを挟んだ向かい側のソファーに座る紅葉に声をかけた。
「大巫女様、そろそろ、そちらの方を私に紹介して下さいますか?」
気品あふれる強い眼差しを咲良に向けたまま言われ、紅葉は涼やかな瞳をすっと細め、苦笑する。
「この者は私の元で巫女の修行をしている娘だ。咲良、挨拶なさい」
いきなり自分の方に話をふられた咲良は目を大きく見開き、それからその場で両膝をつき汲んだ腕の間に顔を沈め、最高礼の形をとる。
「咲良と申します――」
「咲良……美しいそなたに似合いの名前ですね。巫女見習いということはいずれは巫女になるのでしょう。それならば――」
そこで言葉を切った朱璃は、ふっとその瞳にうっとりするほどあざやかなきらめきを彩る。
「王子の花嫁として身分に申し分はありません。咲良、私の花嫁になりませんか――?」
夜空を切り取ったような漆黒の瞳に妖艶な輝きを宿し、甘い微笑みを浮かべた朱璃に求婚され――
咲良は思わず顔を上げて、朱璃を振り仰いだ。
「どうかな?」
くすりと優しげな笑みを浮かべた朱璃は、理想の王子そのものの美貌を輝かせ、熱い眼差しで見つめてくる。
「そなたには将来を約束した者がいるのですか――?」
その言葉に、側に控えていた柚希がぴくっと眉を動かす。
「いませんが……」
「では、私の元に来てくださいますね?」
咲良の言葉にぱっと顔を輝かせた朱璃に対し、咲良ではなく紅葉が困ったような吐息をもらす。
「それはならぬ――」
紅葉の制止の言葉に、朱璃はわずかに眉をひそめる。
「なぜですか? 大巫女様」
「いずれは私の後継者に――と考えておる。大巫女になる条件は知っておろう?」
凛とした眼差しにまっすぐ見据えられて、朱璃は困ったように肩をすくめる。
「神に純潔を捧げる清き乙女……ですか」
「そう、乙女でなければならない。したがって、結婚は許されない――」
※
思いもよらない紅葉の言葉に咲良は、もうこれ以上無理――と言うほど大きく目を見開き、口をかぽっと開ける。
私が大ばば様の後継者――?
ただでさえいきなり美麗の王子に求婚されて思考が上手く回らないっていうのにその上、後継者だ、結婚は出来ない、乙女でなければいけない――などと次々に衝撃的なことを言われて、咲良の思考回路は完全に停止してしまう。
なになになになに――どういうことぉ――……!?
※
膝をついたままの恰好で固まっている咲良にちらりと視線を流した紅葉は、ふぅーっと大きな吐息をもらし、言葉を続ける。
「だが――咲良はまだ巫女見習い。巫女になり、ある程度の実践を積まなければ大巫女には慣れぬ。そのために、まずは咲良を黄山に行かせようと思う」
「黄山――ですか」
紅葉の言葉にいち早く反応したのは、朱璃だった。その言葉だけで、すべてを理解したように強く頷き返す。
「黄、山……?」
ようやっと口を開くことの出来た咲良の声と柚希の掠れた声が重なる。
「そうだ。咲良よ、お前は黄山に赴き、黄帝より巫女の宣旨を受けてくるのだ」
黄山とは――世界を創造し支配する黄帝がおわす神山。小華国の北、世界の中央に天高くそびえ立つ。
巫女は神力を使うことが出来るため、王族に次ぐ地位を持つ。そして巫女になるためには、黄山にいるといわれる黄帝より巫女としての資質を認められ、宣旨を受けなければならない。そうなって初めて、一人前の巫女となることができるのだ。
今年で十六歳になった自分にもようやくその機会が来たのかと、咲良は期待に胸をふくらます。
「はい――っ」
力強く頷いた咲良を見て、一瞬、紅葉の凛とした眼差しに憂いが帯びたことに気づく者はいなかった。
朱璃に向き直った紅葉は、冷静な口調で告げる。
「そういうわけだ。王子の花嫁にさせることは出来ない」
今はまだ――
心の中で紅葉は呟き、真摯な瞳を朱璃に向ける。
「わかりました」
一瞬俯き、そして顔を上げた朱璃は、その瞳に強い意志を宿して気品あふれる微笑みを浮かべる。
「花嫁として迎えるのは諦めましょう。その代わり、黄山行きの旅に私も同行させていただきたい」
「おっ、俺も一緒に行くっ」
朱璃の言葉にはじかれたように叫んだ柚希に、みんなの視線が集まる。それまで隅に控えていた柚希の存在をすっかり忘れていた朱璃はその目を細める。
柚希はその頬をわずかに染め、自分を見つめる咲良からふっと視線をずらした。
「咲良のお守役は俺しかできないだろう……」
そんな理由しか思いつかず、柚希はぎゅっと唇をかみしめる。
一緒に行くことは許されないか……
そう思ったが。
「いいだろう、咲良一人ではなにかと心配の種は尽きぬ。柚希と、それから王子の同行を認めよう。咲良も異存はないな?」
自分の意見を求められるとは思っていなかった咲良は、慌てて首を縦に振った。
「はい……」
正直、知華村から出たことのない咲良は、一人旅に不安を抱いていた。だから、幼馴染の柚希が同行を願い出てくれたことに安堵していた。なぜか、王子も一緒に行くことになっていたが――
かくして、巫女見習いの咲良、幼馴染の柚希、朱華国第一王子朱璃の黄山行きの旅が決定した。