第18話 側近の忠告
部屋に残された蘭丸は眉間に皺を寄せ、なんとも不安げな顔を朱璃に向ける。
「あの~、本気ですか?」
柚希のように後ろめたい気持ちのない蘭丸は、朱璃の言葉にすぐに従うことは出来なかった。
「ああ」
短く答えた朱璃に、呆れたような吐息をつく。
「朱璃様、病人の看病なんてできるんですか?」
幼い頃から朱璃の遊び相手として長く時を過ごしてきた蘭丸は、朱璃が病人の看病をするところなど見たことがなかった。
王族として厳しい教育を受け、なんでも要領よくこなす朱璃だが、王城では身支度、食事の準備、そのすべてを使用人にしてもらっている生まれながらの王子である。
“看病”などされたことはあっても、したことはない。それが出来るとも、蘭丸には思えなくて、不安げに眉尻を落とす。
「したことはないが、私がしてもらったことをすればいいのでしょう?」
でしょう――って、そんな簡単にはいかないと思うけど……
そんなふうに思いながらも、蘭丸は言葉にはせずに吐息をもらした。
朱璃が一度言いだしたことを曲げない性格だと知っているから、これ以上、説得するのは時間と労力の無駄だと簡単に諦める。
「じゃあ、何か分からないことがあれば聞いて下さいよ」
「ああ」
咲良のベッドの前に居座った朱璃は、ゆったりとした調子で蘭丸に背を向けたまま頷く。
蘭丸はふぅーっとため息をつき、扉に向かって歩き出す。天井を仰ぎ、取っ手にかけた手を止め、朱璃を振り返る。
「それから――俺は扉の外で待機していますからね。いくら気持ちを自覚したからといって、病人相手に変な気は起こさないでくださいよ~」
その言葉にぴくりと肩を動かした朱璃は、にやにやと意地悪な眼差しを向ける蘭丸を一睨みした。
パタンと閉じた扉に厳しい眼差しを向け、視線を前に戻して悩ましげに眉を寄せる。
ベッドに横たわった咲良は長い睫毛を伏せ、頬は赤みを帯びている。今は落ち着いた呼吸を繰り返しているが、時折、苦しそうに息をもらしていた。
咲良がわずかにみじろぎ、乱れた髪が額にかかる。
反射的にその髪を掻き上げようと手を伸ばした朱璃は、はっとして手を引っ込め、戸惑いがちに眉根を寄せて吐息をもらした。
宿屋の部屋に、咲良と朱璃の二人きり。いまならば、朱璃を王子という肩書に縛られて行動を制限されることも、監視されることもない。
降りしきる雨の中、愛おしいという気持ちを認めて朱璃は自分の気持ちに正直になろうと思った。
封じ込めた気持ちを解放して、見守るだけだという誓いを破って。
王子ではなく、一人の男として、自分の気持ちに素直になろうと思った。
それなのに、今こんなに近くにいる咲良に、ほんの少し触れるだけで勇気がいる。
もっと触れたいという欲求と、もっと側に行きたいという欲求が渦巻き、駆り立てる。だが、簡単に触れることができなかった。
常に先の先を見据えるように教育を受けてきた朱璃の脳裏によぎるのは、未来のこと。
この旅が終われば、この恋をもう一度封じ込めなければならないことを悟って、一歩を踏み出す決意が揺らぐ。
感情を凍結させ、このまま王子として紳士的に接し続け、よい関係を築く未来もある。
激情を解き放ち自分の感情に素直に行動した場合、咲良に嫌われてしまう可能性もある。そんなことになったら、立ち直ることはできそうになかった。
そう考えると、咲良に触れるだけでも躊躇ってしまう。
だけど――
激しく惹かれて、心が切なく締め付けられる。
嫌われることになってもいい――
それでも、今自分の気持ちを閉じ込めることは出来なかった。
ふらりと漂う甘い香りに、強く引かれるように、朱璃はゆっくりと腕を伸ばす。咲良の額に乱れてかかる艶やかな髪を優しくかきあげ、そのまま頭をなでた。
ほんの少し触れただけなのに、心が激しく脈打ち、体の奥から甘い痺れが広がる。言い知れない幸福に満たされて、ゆっくりと顔を傾けた朱璃は、咲良に口づけを落とした。
※
寒さに体を震わせた咲良は、目の前に広がる白い靄に首をかしげる。
あれ――? 私、確か洞窟にいたはずじゃ……
周りを見渡すが、山もなければ洞窟もなく、自分以外に人の気配もない。ただ、一面に白い靄が続いているだけ。
急に体の内側に熱いものが駆け廻り、咲良はきゅっと眉根を寄せる。
閉じた目を開けると白い靄が引き、その間から黄金に輝く竜が大きな赤い瞳を咲良に向けていた。
『――の乙女よ、目覚めの時は来たり』
その声は、殴られたような激しい衝撃を与えながら頭の奥に直接響いた。咲良は苦痛に顔を顰め、耳鳴りと頭痛に頭を抱える。
高いところから突然落とされたような衝撃にひゅっと喉の奥で声をもらし、ぐるぐると回る視界に声はあまりよく聞こえなくて。
『我が力を解き放ち、そなたを求める者に――……』
咲良の意識はそこで途切れた。