疑惑
ナオが働き初めて丸2年が過ぎようとしている。
今まで働いたバイト先が、どこも1年ももたなかったナオにとっては未領域である。
『あんた、今回はいつまで続くのかしらね~。 あら? まだ首にならずに済んでるの? 彼氏出来た?』
そんな事ばかり言っていた母親だが、今は『なかなか頑張ってるじゃない?』に変わった。
ナオにも少しは忍耐力が付いたと言う事か。
その年の会社の暑気払いの日。
飯野は、体調があまり良くなかったらしく、飲み会の席を中座した。
ナオは心配になり、飯野の後を追い、様子を見に来た。
「飯野さん……。大丈夫ですか? 顔色良くないみたいですね? 今日はあまり飲んでないみたいだし……」
「ああ……。朝から少し調子悪くて、飲めば治るかと思ってたけど、ダメみたい。夏風邪でも引いたかな~?」
「飲んでひどくなってるんじゃないですか~?」
そこへ社長が来た。
「今、早苗さんから電話があってな~。お前の事心配してたぞ。うちの主人、朝から気分悪そうだったからってさ。お前に連絡したって、どうせ大丈夫だ! とか言って無理しそうだから、わたしにかけてきたらしいんだ。お前、ほんとに体調悪そうだな? 無理すんな。接待じゃないんだから、今日はもう帰れ!」
「社長……。申し訳ありません……。じゃあ、今日は退席させてもらいます」
ナオがタクシーを呼び、社長と見送った。
「良い奥さんを持って、幸せなやつだな~」
「飯野さんの奥さんって、早苗さんって言うんですか?」
「ああ、わたしの妻とは高校の同級生なんだよ。偶然なんだがね」
………………。
奥さんの名前は早苗さん……? じゃあ、あの時、寝言で言ってた‘きょうこ’とは誰の事? 今日は無理だとか明日しようとか、営みの事じゃないの?
奥さんの事だとばかり思っていたナオは、胸騒ぎを覚えるのだった。
ナオは、飯野が回復してから、改めて自分から誘った。
どうしても‘きょうこ’さんの正体を確認したかった。
知ってどうする気だよ。ナオにもわからない。ただ自分の気持ちを試したかったのかも知れない。
ナオは、飯野と話しながら、聞き出す言葉を探していた。
「そう言えば飯野さん? きょうこさんとはその後も、うまく行ってるんですか?」
ナオの言葉に、機嫌良く話していた飯野の顔付きが一変する。
飯野の目がナオの瞳の奥を探っている。
「ナオ……ちゃ……ん……? それはどうゆう意味かな?」
――そのままの意味です。
「意味? 飯野さん、あたしに話した事、何も覚えてないんですか?」
――ただ名前を呼んだだけ。大したこと事は聞いてません。
「……? 僕……。ナオちゃんに話しちゃったのか? ……まずいな。それは非常にまずいよ……。それで、どこまで話しちゃったのかな?」
――どこまで? どこまで行ってるの?
ナオはふたりの関係を知りたいだけなのだ。
「どこまでって言われても……。あの時、飯野さんは立てないほど酔ってたし、ろれつも回ってませんでしたけど、しきりにきょうこさんの名を呼びながら、営みについて語ってましたから、こっちが恥ずかしくなりましたよ……」
ナオは話を誇張して、飯野の反応を見る。
「僕が……そんな事を? 自分が信じられん……」
「私も信じられませんでしたよ。その女性が奥さんじゃないって知った時は……」
――ああ、あの具合が悪くなった時の社長の言葉で知られたのか。
「ナオちゃん……。もしかして、矢城も聞いてるのか?」
「えぇ……。でも彼はきょうこさんと言う女性は、奥さんだと思ってますよ」
飯野は項垂れ、何か考えているようだった。
ナオは、ほんの少しでいいから、飯野の心の中を覗きたかった。
「飯野さんもお辛い事情を抱えてるんですね……。あたしになら話してもいいんじゃないですか? 聞くだけしか出来ませんけど……」
飯野は、ポツリポツリ話始めた。
きょうこ(鏡子)さんとは5年間も続いているらしい。お互いに家庭の負担にならないよう、時々密会しては英気を養っているのだと。
飯野は事実関係だけを話すと、頼むからあまり深くは追及しなでくれと言ってきた。
ナオは『やっぱりそうだったのか』と思いながらも、鏡子さんが羨ましかった。
その日を境に、しばらくの間、飯野からの誘いがなくなった。
週末。珍しく雅樹が誘って来た。
「飯でも行かないか?」
「あら? 今日は真由ちゃんとこ行かないの?」
「ま、まあな……」
「いいよ。今日はパスタな気分だな~。」
「わかった。わかった。合わせるてやるから」
ナオと雅樹はイタリアンレストランに向かった。
「真由ちゃんと上手く行ってるみたいね。あたしを全く誘わなくなったし」
「……。実は……、その真由の事なんだけど……」
「ん~? またかい? 今度はどーした?」
「それがさ……。俺、どうやら二股かけられてたっぽいんだ」
「へっ!? っぽい? 確信したんじゃないわけ?」
「あ、いや、かけられてたんだ」
「マジで? 何でわかったの?」
「わかったんじゃなくて、告げられたんだ……」
「告げられた?」
「ああ……。あいつ、急に外国行くって言い出してさ。旅行かと思ったら、永住するって言うんだ。彼について行きたいからって言われてさ……。真由のやつ、俺と会えない寂しさを彼で埋めて行くうちに、本気で好きになったらしくてさ。そいつ、国籍がイギリスにあるとかで、日本での仕事が終わって、ロンドンに帰る事が決まった時にプロポーズされたらしいんだ」
ナオは言葉に詰まった。
「……。なんて衝撃的な展開だよ……。真由ちゃんはそいつを選んだってことか……。雅樹も頑張ってたのにね~。真由ちゃんの気持ちまでは取り戻す事が出来なかったってわけか~。で? 雅樹は引き下がって来たの?」
「仕方ないだろ? 彼女が決めた事なんだし。それに、俺、結婚とかまだ考えてなかったからな。けどさ~、もっと早く言えっつんだよ! 二股かけられてた俺って、滑稽だよな……。引き止める気持ちもなくなってたよ」
「じゃあ、やっぱりあの時からずっとだったの?」
「恐らくな。あの日ナオに言われてから、俺が会いに行く回数が増えたろ? 真由のやつ、そんなに無理しなくていいからって、しきりに言ってたんだ。今思えばさ、その男と会う時間が減るからだったんだよな……」
「うゎ……。ごめん……。あたしが煽るような事言ったばっかりに、傷が深くなっちゃったみたいだね」
「それは違うよ。逆に後悔しなくて済んだんだ。あのままでいたら、真由は、俺と会えないからやつのところに行ったと思うだろ? 未練がましい男になるとこだったよ。だから、ナオには感謝してるんだぜ」
「うほっ、そりゃどうも。後悔させなくて良かったわ」
「あ~あ。とは言ってもよー、へこむよなー。俺の3年間は何だったんだ」
「3年か~。長いね。それで結婚考えてないとか、そりゃ、真由ちゃんだって痺れ切らすわよ! 彼女の選択は間違っちゃいないわ」
「そうだな……。俺が悪いよな……。だからって、二股はねーだろ! まぁ、いいさ。未練はねーし」
「おっ、なかなか潔いじゃん!」
「まあな! あ……。そう言えば、話は変わるんだけど」
「おい! 切り替え早すぎ!」
「いや、そーじゃないよ。こう見えて、俺だって相当凹んでるんだぜ。それより、ちょっと気になる事思い出したんだ」
「気になる事? 何、何?」
「飯野さんなんだけどさ……」
ナオは心臓がドキドキしてくるのを感じ、顔が固まった。
「飯野さんが……、どうか……したの?」
「俺さ、真由と神戸で会ってる時、飯野さんを見かけたんだ。女の人と一緒で、最初は人違いかと思ったけど、3ヶ月の間に2回も見たからさ、間違いないよ」
「見かけたからって何? 神戸の知り合いかも知れないじゃん?」
「違うよ。だってさ、俺達が利用してたラブホだぜ! 知り合いと入るとこじゃないだろ? しかも奥さんじゃない人とだぜ!」
雅樹は、入社時に奥さんに会っているから、顔は知っている。明らかに奥さんとは別人だ。
ナオは呼吸が荒くなってくるのがわかった。
ついに目撃者が出てしまった。本当なんだ! 飯野さんは本当に鏡子さんと…………。
知っている事とは言え、やはりショックだった。
ナオの目から大粒の涙が溢れてきた。
「ナオ? どうしたんだよ! おい! ナオがそんなに泣くことないだろう?」
ナオは、自分でも溢れ出す涙を止める事が出来ない。
「おい……。俺が泣かしてるみたいになってるじゃないか。どうしたんだよ、一体……」
雅樹はナオのあまりの尋常のなさにピンと来てしまった。
「……ナオ? …………。お前……まさか飯野さんの事……」
ナオは答えなかった。
雅樹もそれ以上言葉を発する事はしなかった。
雅樹はナオを連れ、駐車場に戻った。
ナオが落ち着くまで、駐車したまま、車内でボリュームを下げて、音楽を流した。
~~~~~~
「……ごめん……。もう大丈夫だから……」
「俺の方こそごめんな……。他人の秘密を軽々しく言っちゃて……。それに……、ナオの気持ちを傷付ける事になったみたいだし……」
「ううん……。違うんだ。……。あたし知ってたから。飯野さんに奥さん以外の女性がいるって……」
「えっ! 知ってた?」
「う……ん。でも受け入れたくなくて。だから、ほんとなんだ、って思ったら、何故か涙が止まんなくなっちゃって……。だから、大丈夫だよ」
「ナオ……。まさかとは思うけど、飯野さんと付き合ってるわけじゃないよな?」
「ふっ……。まさかだよ。飯野さんは、あたしの気持ちさえもまだ知らないんだから」
「そうか……。なんか、俺が真由に掛かりっきりになってる間に、ナオもいろいろあったみたいだな~」
「また保護者みたいな事言ってるう~」
「はは……。だけどさ、何で飯野さんの事知ってるんだよ」
「ん~、それは……、後で追々話すよ」
「ま、いいけどよ。俺が知ったところで、どうにもなんねーし。ナオもあんま、思い詰めんなよ? 俺の力が必要な時は遠慮なく言えよな」
「うん。必要な時があればね」
いつものナオの顔に戻っていた。
雅樹は、深く深呼吸をすると、ゆっくり車を発進させ、ナオの家まで送って行った。
ナオの家から数十メートル離れた位置に1台のバイクが止まっていた。
そのバイクはナオが会社から家に着くまで、ずっと後を付けていた。
ふたりの一部始終をずっと見ていたのだ。
そして、そのバイクの主は、ナオと雅樹との仲に疑惑を持ち、嫉妬心が湧き上がるのだった。