想いの始まり~秘密~
―矢城―
矢城は、高校を卒業して直ぐにアサカワ印刷で働いていた。
人見知りでおとなしい性格。仕事は真面目で、一見弱そうにも見えるが、意外と力持ち。休まず働いてくれるから、社長に無理をお願いされる事も多かった。
ナオが働き始めてから、矢城の表情も少し柔らかくなった気がする。
それもそのはず。
女性とは話すのも苦手だった矢城が、初めて心をときめかせた相手だったからだ。
だが、奥手な矢城は、ナオを見ているだけで幸せな気分になれた。
明るくてかわいい。誰にでも気軽に話しかけてくれる気遣いの出来る女性。
雅樹とふざけあうしぐさも、羨ましいと言うよりは、スクリーンを見ているようで、現実感がない。
1度だけ帰道で一緒になった事があった。ほとんど会話にならない状態だったが、ナオはひとりで喋り続け、別れ際には、自分だけ喋っちゃったみたいでごめんね、とまで言ってくれた。
矢城が無口なのを悟ったかのような優しさに、矢城はどんどんナオに惹かれて行く。
しかし、その想いは矢城の胸中に仕舞われたままだ。
ある日、飯野と一緒にタクシーに乗り込むナオを目撃する。
矢城はふたりがどこへ行くのか気になり、いけないと思いながら、自分のバイクで後をつけた。
ふたりが入ったのは、焼き鳥屋だった。矢城はカウンターに座り、離れたところからふたりを見ていた。
俺は何をやってるんだ。自分が情けなく思えた。
俺にはナオさんをどうにか出来る資格なんてないのに……。
帰ろう……。矢城がトイレに向かったその時、ナオと出会してしまったのだ。
矢城はどうしていいかわからなかったが、あまりにナオが気軽に話すので、その場で出た言い訳をしてしまったのだ。
その日は本当に楽しかった。
飯野とナオの会話が面白くて、聞いてるだけで満足だったし、ナオが隣にいると思うだけで、ドキドキして、なかなか酔えなかった。
帰り際になって、矢城は自分がバイクで来た事を思い出す。
飯野が、後で代行に届けさせるから先に帰れと言うので、そのままタクシーで帰ってきた。
矢城は、タクシーから降りる際、運転手さんに「…………します。お釣りはいいですから」と何か言っているようだった。
部屋に入る。
ナオさん……。ほんとに素敵なひとだなぁ。
矢城は一気に酔いが回り、眠りについた。
店の前では、ナオが困り果てていた。
飯野は矢城を帰らせたものの、すぐにしゃがみ込み、歩ける状態ではなかった。
新橋で良く見かけるオヤジさんよりひどいわ。時々寝てるし。
困ったなあ~。飯野さん家知らないしな~。
ナオは仕方なく、飯野の上着を探り始める。
あった。財布の中の免許証を見つけ、住所を確認する。
「えっ! 緑区?」
ここからだと、40分はかかるだろう。
参ったな。
飯野は店の前でいびきをし始めた。
このままタクシーに乗せたら、運転手さんに迷惑がかかる。
ナオが、しばらくの間飯野のいびきを聞きながら迷っていると、1台のタクシーが止まり、運転手さんが降りて来た。
「あの~、先ほど、お連れの方を家まで送って行ったのですが、その男性から頼まれ事をされましてですね~」
矢城くんに?
「は……あ……。彼はなんて?」
「それが……。おふたりがまだ店の前にいて、女性が困っているようなら、自分の家に連れて来て構わないから、と伝えて欲しいと……」
「矢城くんが……。そんな事を……」
運転手さんは小さなメモを渡してくれた。
そこには、アパートと思われる部屋番号と、携帯電話の番号が記されていた。
ナオは少し考えたが、ここは矢城の言葉に甘える事にした。
「運転手さん! 往復させて申し訳ないですが、彼の家までお願い出来ますか?」
「もちろんです。じゃ、この方を乗せましょうかね!」
「す、すみません……。お願いします」
タクシーはふたりを乗せ走り出した。
飯野はナオの腿に頭を乗せ、気持ち良さそうに寝ている。
「まったく……。あたしと勝負なんかするからよ。勝てるわけないじゃんか。……ふっ、でも飯野さん……、かわいい……」
ナオは飯野の頭から頬にかけて手を当て、そっと撫でた。
「う、う……ん、きょうこぉ……」
飯野が寝言を言ってる。‘きょうこ’って、奥さんかな? 寝言で呼ばれるなんて、幸せな奥さんだな。飯野さん、なんだかんだ言っても、愛してるんじゃん! ナオはそんな飯野を見て、自分も睡魔が襲って来た。
「……さん! お客さん! 着きましたよ!」
ナオは運転手さんに呼ばれてハッとした。
「す、すみません! ついウトウトしてしまって。有り難うございました」
ナオは支払いを済ませ、飯野を降ろすと、矢城のアパートの前まで来た。
インターホンを押す。反応がない。もう1度押す。出て来ない。
「あれ~? 寝ちゃったのかなぁ~? どうしよう……」
ナオが携帯電話を取り出し、かけようとしたその時、ゆっくりドアが開いた。
ガチャッ……
「あ、矢城くん。今、電話しようと思ってたとこだった。ごめん。寝ちゃってたよね……」
「ナオさん! ……。す、すみません。眠ってしまいました」
「謝る事ないわよ。とりあえずさ、このオジサンを中に入れてもらえるかな?」
「あ! は、はい!」
ふたりは飯野を抱え、ソファーに座らせ、水を飲ませる。
飯野は、虚ろな目を半開きにすると、戯言を呟いた。
「きょうこ~、僕はきょう、ここで寝ます! なんつって~」
どうやら、‘きょうこ’と‘今日ここで’をかけてるらしい。
こんな時でさえ、オヤジギャグ健在。
しかも、ナオを奥さんと勘違いしている。
ナオはひと芝居してあげた。
「ハイハイ、あなた~、ベッドに行きましょうね~」と声を高くして言いながら、矢城に飯野のシャツとズボンを脱がせるように、ジェスチャーで伝えた。
すると、飯野は矢城に抱きつき「今日は無理だよ~。明日しようね~」と言ったかと思うと、ベッドに倒れたまま寝てしまった。
ナオと矢城は顔を見合せ、クスクス笑った。
「飯野さん、完全に自分家と勘違いしてるね。起きた時が楽しみだわ」ナオは更に笑った。
「矢城くん、あなたが気転を利かせてくれたお蔭で、本当に助かったよ~。ありがとう。でも、ごめんなさい。迷惑かけてしまって……」
「め、迷惑だなんて……。それに、ナオさんが謝るなんておかしいですよ」
「あ、そうだよね~。悪いのは、あのいびきのオッサンだもんね!」
「でも……。嬉しかったです……。ナオさんが俺を頼ってくれて……」
「あたしだって、矢城くんが言ってくれなかったら、今頃路上で寝てたかも知れないよ」と言って笑った。
「俺、飯野さんに先にタクシー乗って帰っていいって言われましたけど、実は気になって仕方なかったんです。飯野さんは酔っぱらってましたけど、もしかして、……その……、ナオさんとどこかに入り込んでしまうんじゃないかって……」
「どこか? あんな酔っぱらってたら、意識もなくて何も出来ないでしょ! ……! そっか! その手があったのか! ホテルの一室に置き去りにしてくりゃ良かった! 頭回らなかったなー。目覚めた時の飯野さんの驚いた顔を想像すると、マジ笑える」
ナオはゲラゲラ笑った。
「置き去りって……」
矢城は、ナオと話している自分が、不思議でならなかった。
「あ! ……。あの……。ナ、ナオさん?」
「ん?」
「飯野さんは俺んちで寝てても構わないんですけど……。ナオさんは……、い、いいんですか?」
「えっ? 何が? まさかこれから家まで帰れって言うの?」
「い、いえ、そんな事は……。そ、そうですよね……。でも……、良く考えたら、ベッド占領されてるし、寝るとこがないんですよ……。すみません……」
「このソファーでいいじゃん。少し休めればいいんだし。あっ、そうすると矢城くんが寝られないか……」
「お、俺は大丈夫です! 床にでも寝ますから」
「じゃあさ~、朝まで話してよっか?」
「えっ、で、でも……、俺……、話すのあんま得意じゃなくて……」
「あたしだって得意じゃないよー。じゃあ矢城くんは何が得意なの?」
「得意なものなんて……特に……」
ナオは、矢城を一緒にソファーに座らせ、更に質問して来た。
「じゃあさ、好きな事は? お休みの日とか何してるの?」
「休みの日は……、本読んだり、ゲームしたり、バイク走らせたり……。たまに写真撮ったりします。ひとりで出来る事ばかりですね」
矢城は照れ笑いした。
ナオは、どんな本が好きなの? ゲームは何系をやるの? バイクのふたり乗りに憧れてる~、とか、撮った写真が見てみたいとか、矢城の話しに興味を示してくれた。
ただ合わせてくれただけかも知れないが。
それでも矢城は嬉しかった。ナオと話しをしているだけで満足だった。
ナオは話しながら、段々頭がふらつき、いつの間にか眠ってしまっていた。
矢城は、顔にかかったナオの髪をそっと耳にかけると、ソファーに寝かせ、その寝顔をしばらく見つめていた。
ナオのかわいい寝顔を目の前にした矢城は、吸い込まれるように、自分の唇をナオのおでこに当てる。
ハッ! なにやってるんだ俺は。無防備なのをいい事に。
そう思いながらも、矢城は、ナオのこの柔らかい唇は誰のものになるんだろう。ナオのすべてを知り尽くす男はどんなやつなんだろう。と、ナオの事ばかりを考えていた……。
結局、矢城は一睡も出来なかった。
明け方。
飯野はふたりに迷惑をかけた事を詫び、飲みすぎた事を頻りに後悔している様子だった。
「今回の醜態は、会社の人間には言わんでくれ。頼むから!」
「どーする? 矢城く~ん?」
「お、俺は、特に話す相手もいませんから……。言いようがないです……」
「と、言うことで、ふたりだけの秘密にしてあげます!」
「助かるよ。口の堅いふたりでほんとによかった!」
「その代わり、3人で飲む時は、いつも飯野さんのおごりですからね」
「おいおい、毎回か? ならもう誘わないぞ」
「こっちから誘いますから、ご安心ください。ねっ? 矢城くん?」
「えっ、あ、は、は……い」
矢城は、ナオと秘密を共有した事に少しばかりの優越感を覚えた。
「あの~、飯野さん? 俺のバイク、まだ届いてないんですけど……」
「……!! うわわ……忘れてた……」
結局、矢城は自分で取りに行く羽目となった。
それから、ナオは時々矢城を誘って出かけるようになっていた。
それは、友達と遊びに出かける感覚だったのだが、矢城は秘密を持った事で、ナオが自分を意識してくれているものと勘違いしてしまっていた。
その一方で、ナオは飯野にも時々誘われていた。
矢城がナオを思う気持ちとは裏腹に、ナオは会う度に飯野の人柄に惹かれてゆく…。
いけない。このままでは、また同じ事の繰り返しではないか。
しかし、飯野に対する気持ちは、日を追う毎に深くなる。それは、今までとは何か違う感情のように思えてならなかった。