再熱
ナオは飯野のマンションの部屋にいた。
「飯野さん? ひとり……なんですか?」
「ああ……。また出て行かれちゃった」
「えっ!? ……。今度は何したんですか?」
「やだなぁ~。何もしてないよ。1度は戻って暫く一緒に居たんだけど、あの人(鏡子)を抱いた身体で、私に触れられると思うとゾッとする。って言われちゃってね。このままだと、自分のイライラが子供にあたってしまいそうで怖いって言って……。まぁ、そのまま別居状態ってわけ」
「そんな……。あれほど覚悟を決めたのに……」
「僕が甘かったんだよ。家内はおとなしくて優しい人だったからね。彼女ならすぐに許してくれるだろうって思ってしまってたんだ……。僕を信じきってた彼女にとっては、ダメージが大き過ぎたんだと思うよ……。さすがに彼女の両親も、ただの夫婦喧嘩じゃない事に気付くよね。暫くは息子を実家から通わせるから、って言われたよ……」
「飯野さん……。大丈夫? ……じゃないよね? 大変そう……だね……」
「仕方ないよ。悪いのは全部僕なんだし。あ! 僕の事よりナオちゃんだよ。せっかく僕を頼って来てくれたのに、自分の事話しちゃった。ごめん、ごめん。ちゃんと聞くよ。どうしたの?」
ナオは飯野の深刻な状態を聞いて、話すのをためらってしまった。
「でも……飯野さんの事情知ったら、あたしの悩みなんてすごく小さい気がして……。それに、飯野さんは奥さんと仲良く暮らしているとばかり思ってたから、ちょっと動揺しちゃってます……」
「そうだよね。僕もだよ」と苦笑いしながら「でも、今は距離を置くしかないと思ってるんだ。それより、ナオちゃんの方が心配だよ。悩みに大きさなんて関係ないし、本人にとっては悩みなんだから、僕に話すだけでも、気が楽になるんじゃない? 僕は今までもナオちゃんにそうやって助けられて来てるからね。僕で役に立つ事があれば力になるから」
ナオは、飯野とふたりきりで居ることに、心が熱くなるのを感じた。
飯野さんへの気持ちは断ち切ろうとしたんじゃないの? いけない……。彼の顔見たら、気持ちが揺らいでしまう。しかもふたりきりだよ。やばい、やばいよ。どうしよう。このままじゃ、冷静さを失っちゃう……。
「ナオちゃん? 大丈夫?」
ダイジョウブジャナイ!!
「ゆっくりでいいから話してみて」
飯野がナオの顔をのぞく。
ドッキン!
ナオは動揺しながら話した。二人の男性から好意を持たれていて、二人とも愛情には発展しない気がする事を告げた。もちろん名前は伏せて。
「なるほど~、贅沢な悩みだねぇ」と飯野が笑った。「彼らとは、いろいろ話しとかした上で、迷ってるんだよね? もちろんナオちゃんとふたりきりで。それなりの時間は経過してるってことでいいのかな?」
ナオが頷く。
「そうか……。ん~、男ってのはね、気持ちが伴わなくても、抱きたいと思うと抱けちゃうような、動物性本能を持った生き物なんだよ。それを行動に移すか移さないか、人に寄って違うだけ。でも女性は、その人に心から抱かれたいかどうか、なんじゃないのかな?」
「心から……抱かれ……たい……か、どうか……?」
「あ、いや、あくまでも、判断基準のひとつとしてだよ! 気持ちが伴った上での話。求められたから抱かれるんじゃなくて、自分からもいけちゃうような」
抱かれたい? そう思えるのは、まさに今、目の前にいる男性だよ。
「あたし、二人に抱かれても、イヤじゃないんです……。身体だけの事を言えば……。でも、自分から求めたいとは思わない」
その言葉を聞いた飯野は、何故かその二人の男に嫉妬めいたものを感じてしまう。ナオの身体を自分の他にも奪ったやつがいるんだと。そんな事は当たり前じゃないか。しかし、心が落ち着かない。ナオの身体は魅力的だった。一度関係を結んでしまえば、暫く離れないであろう。飯野だって例外ではなかった。
飯野の中で何かが起き始めていた。
飯野が暫くナオを見つめたまま、沈黙しているのを見て、ハッとした。
しまった! つい抱かれたなんて言ってしまった! どうしよう……。飯野さん、絶対あたしを軽蔑してる……。やだ! 嫌われたくない!
「あ……、あの! 抱かれったって言うのは、その……、ちょっと抱きしめられたってゆうか、か、身体が……その……負けたって言うか……あ、いや、えっと……」
「ハハハッ。ナオちゃん? 今更何言ってるの? 隠さなくたっていいよ。そんなあわてちゃって、ナオちゃんはまだまだかわいいな~」
「……飯野さん? あたしを軽い女とは思わない?」
「何で? 思うわけないじゃない。何年ナオちゃんを見てきてると思ってるの? きっと二人とも、ナオちゃんを好きな気持ちが止められなかったんだろう? 違う? 僕だって……、あの時、ナオちゃんの身体を目の前にして、欲望を止める事が出来なかったんだから……」
ナオは心臓がドキドキしてくるのを感じた。
ダメだ……。熱が戻った……。
「飯野さん……。今はどうですか? ナオは目の前にいますよ?」
「だめだよ。僕は対象外でしょ」
「どうしてですか? 奥さんがいるから? でも好きになっちゃったんだもん。どうしようもないよ! あたしが心から抱かれたいと思ってるのは、貴方だけなんです!」
「ナオちゃん! それは言ったらだめだよ! ナオちゃんにはもっと……」
「もっと、何ですか!? 相応しいひとがいるとでも言うんですか? あたしは……。あたしは……、飯野さんじゃなきゃだめなんです!」
「ナオちゃん! 僕じゃだめだ! あきらめてくれないと困るよ。僕だって、あの時からナオちゃんに会いたい気持ちをずっと堪えて、家族に目を向けてきたんだから」
「あきらめようと思ったよ……。何度も。だから二人と向き合おうと思った。でも、いつも心に飯野さんがいるんだよ。出来ないの……。飯野さんが鏡子さんをあきらめられなかったように、あたしも、貴方をあきらめきれない!」
「ナオ……ちゃん……」
飯野はナオの気持ちが痛いほど良くわかる。ナオを抱きしめて、欲望のまま、ナオを自分のものにしたかった。だが、受け入れてはいけない。また妻を裏切るのか? しかし、目の前にいる女性を押し倒してしまいたい衝動に駆られる…。飯野は必死で自分の気持ちと闘っていた。
「ナオちゃん。僕も君を抱きたい。今、無性にナオちゃんを欲しいと思ってる。二人の男達に抱かれたと思うと……、それだけで……、気が変になりそうだよ……」
「だったら、抱いて! あたしの中から二人を追い出して!」
「ああ……。ナオ……。君が欲しい……」
飯野はナオを強く抱きしめ、手で頭を撫でると、髪に頬を何度も擦り付けた。
ナオは激しく飯野を求める。
「でも……、それはしちゃいけないんだ。これ以上、深入りしちゃいけない。君を傷つけてしまうことになる……」
飯野は必死で耐えていた。
「あたしは傷つかないよ。自分の気持ちにウソはついてないもん。ナオは飯野さんが好き!! 飯野さんだって、ナオが欲しいでしょ?」
ナオは飯野が上司である事など忘れ、子供のように喋り始めていた。
飯野もナオが愛おしくてたまらない。呼び捨てにしている事など忘れている。
「僕だって……、ナオの事、ずっと気にしてきた。そしていつの間にかナオに惹かれていく自分に気づいたんだ。さっきの告白話を聞いて、年甲斐もなく嫉妬してる……。こんな気持ち……、今まで味わったことがないよ……」
「だったら……」
「ナオ……。聞いて欲しい」
飯野はナオを抱きしめたまま続けた。
「僕は今、間違いなくナオを好きになってる。ナオも僕に好意を抱いている。お互いの気持ちは伝わったよね? それだけで十分じゃないか? 君が僕を好きでいてくれるだけで、強い気持ちになれる。今の状態のまま、欲情に負けて君を受け入れてしまったら、ナオの心の中に深く穴を開けてしまうだろう……。ナオには幸せになってもらいたいんだ。わかって欲しい……」
「いや! あたしは飯野さんと一緒に居たいの! 抱いてくれるまで帰らないから!」
「抱けば帰るのか? ナオは僕としたいだけなの?」
「したいよ! 飯野さんだってナオが欲しいって言ったじゃん!」
「ナオ……。人を好きになるって、それだけじゃないだろう? 君は今、僕がひとりでいるから、甘えてるだけでしょ? 僕は、ナオを幸せに出来る条件に当てはまらないんだよ。わかるよね?」
「わがままな事言ってるのはわかってる……。でもこの気持ち、止まんないよ……。飯野さんの中に入りたい……」
「入りたいのは、僕の方だよ!」
はい。確かに。
「僕も我慢するから、ナオも耐えて欲しい。お願いだから!」
「わからないよ……。なんでお互いに好きなのに愛し合えないの?」
「君は……わかってるはずだ……」
ナオはこれ以上言っても、飯野を困らせるだけなのはわかっていたが、なかなか引き下がれないでいた。
「飯野さんはナオが好き?」
「ああ、好きだよ」
「もう一度言って!」
「僕は、ナオが、好きだ!」
「愛してる?」
「……その言葉は……簡単に口に出しちゃダメ!」
「いじわるぅ」
「ナオ……。心の中で叫ぶよ。思いっきり」
「……。嬉しい……。その言葉、忘れないよ。ありがとう。……。わかったよ。飯野さんをこれ以上困らせたら、嫌われちゃうもんね。でも……、ちゃんといい恋愛が出来るまで、ずっと飯野さんを想い続けてもいい? 簡単にはあきらめられないもの……」
「僕だってそうだよ。だけどわかってる? 僕の方が、罪は重いんだぞ」
そう言ってナオを見つめる飯野。
「飯野さん? キスして……」
「ナ……オ?」
「お願い。キスだけならいいでしょ?」
いいわけはない。
飯野はナオの顔を手で押さえると、唇を重ね、その手を頭の後ろと腰に回し、しっかりと抱きしめながら、長いキスをした。
ナオは、とろけてしまいそうな身体を必死に堪えて、腕を飯野の背中に回してしがみつき、飯野の唇から身体まで、彼の感触を自分の脳裏に焼き付けるのだった。
飯野は思った。
『今日ほど独り寝が寂しい夜はないだろう……』と。