第5話:噂 ― 小さな違和感が広がる
昼休みの中庭は、穏やかなざわめきに満ちていた。
ベンチに腰かけ、アメリアは膝の上で本を開いている。
けれど文字は、ほとんど頭に入ってこない。
(……静かにしていたはずなのに)
理由は、分かっていた。
少し離れた場所から、
自分の名前が聞こえてくる。
「ねえ、知ってる?
アメリア・ローゼン嬢って……意外と優しいらしいよ」
「え? あの、いつも大人しい?」
「そう。ほら、この前――」
声は小さく、ひそひそとしたもの。
決して、悪意はない。
むしろ、困惑に近い。
「下級生に、寒いからってマフラー渡したんだって」
「え……それ、本当?」
「うん。でも本人は何も言ってないらしい」
アメリアは、思わず本の端を指で強く押さえた。
(……どうして、知ってるの)
あの日のことは、
誰にも話していない。
感謝も、報告も、望んでいなかった。
それなのに。
噂は、いつの間にか“形”を持って歩いている。
廊下ですれ違うと、
視線が一瞬だけこちらに向く。
けれどすぐ逸らされる。
呼び止められない。
礼も言われない。
「ありがとう」も、「すごい」も、ない。
ただ――
空気が、ほんの少しだけ変わっている。
(目立ちたくないのに……)
アメリアは胸の奥で、そう呟く。
誰かに認められたいわけじゃない。
評価されたいわけでもない。
むしろ、その逆だ。
評価は、期待になる。
期待は、裏切りにつながる。
(……それに)
頭の奥に、嫌な記憶がよぎる。
――“悪役令嬢は、周囲から注目を集めたあと、転落する”。
ゲームで何度も見た流れ。
善行を積んだからといって、
破滅が消えるわけじゃない。
むしろ――
“目立ったこと”自体が、フラグになりかねない。
その日の午後。
教室の後方で、アメリアは静かに座っていた。
前の席の生徒が、ちらりと振り返る。
けれど声はかけてこない。
ただ、ほんの一瞬、迷うような視線。
(……近づかないで)
心の中で、そっと距離を取る。
誰も、無理に踏み込んでこない。
誰も、彼女を持ち上げない。
それが、逆に不安だった。
評価が定まっていない。
善人とも、悪人とも、まだ決められていない。
宙に浮いたままの“違和感”。
アメリアだけが、その中心に立たされている。
放課後。
寮に戻る途中、
あの下級生の少女とすれ違った。
目が合う。
少女は、何も言わず、
ただ少しだけ、ぎこちなく微笑んだ。
アメリアは、軽く会釈を返す。
それだけ。
感謝は押し付けられない。
好意も、義務も、要求されない。
だからこそ――
この変化は、静かで、止めようがなかった。
(……もう、戻れないのかな)
“何もしない”選択肢から。
誰にも知られず、
誰にも期待されず、
ただ空気として生きる――
その未来が、
ほんの少しずつ、ずれていく音がした。
遠くで、鐘が鳴る。
授業の合図。
アメリアは深く息を吸い、歩き出す。
(まだ……大丈夫)
そう言い聞かせながら。




