第35話:病院の少年
病院の廊下は、いつも静かだった。
足音を立てないように、人々は自然と歩幅を小さくする。
声も、感情も、ここでは少し抑えられる。
その一室に、少年はいた。
年は、まだ幼い。
窓の外を眺めることも、最近は減っていた。
息をするたびに、胸が上下する。
それだけで、今日は「よい日」なのだと、大人たちは言った。
「……」
アメリアは、病室の入り口で立ち止まった。
医師から長い説明はなかった。
助かるかどうかは、誰にも分からない。
ただ――
会ってもいい、とだけ言われた。
彼女は、そっと一歩踏み出す。
ベッドの脇に近づき、小さな包みを取り出した。
それは、人形だった。
手のひらに収まるほどの、編み物の人形。
目も、口も、はっきりとは編まれていない。
表情があるのかどうかも、分からない。
少年は、ゆっくりと視線を動かした。
「……それ」
声は細い。
けれど、確かに、興味を向けている。
アメリアは、うなずいて、人形を差し出した。
「……よかったら」
それだけ。
説明もしない。
励ましもしない。
少年は、少し時間をかけてから、指を伸ばした。
震える手で、人形を掴む。
そして――
胸のあたりに、引き寄せた。
しばらく、何も起きなかった。
看病する大人たちも、アメリアも、息をひそめる。
やがて。
少年が、ぽつりと呟いた。
「あったかいね……」
その声は、とても小さくて、
でも、不思議と部屋に残った。
彼は、人形を抱いたまま、目を閉じた。
眉間にあった緊張が、ゆるむ。
歯を食いしばっていた口元が、少し開く。
「……」
アメリアは、何も言えなかった。
言葉をかける理由も、資格も、見つからなかった。
ただ、そこにいる。
それだけでいいと、初めて思えた。
しばらくして、少年がもう一度、口を開いた。
「……こわく、なかった」
誰に向けた言葉なのかは、分からない。
病気に対してなのか。
夜に対してなのか。
それとも――これからに対してなのか。
アメリアは、そっと目を伏せた。
生きるかどうかは、描かれない。
答えは、ここにはない。
ただ、この瞬間。
少年は、ひとりではなかった。
恐怖だけの場所にも、いなかった。
小さな人形と、
あたたかさと、
静かな時間の中で。
彼は、自分の人生に、
確かに触れていた。
結果は、語られない。
けれど、ひとつだけ――
確かなことがある。
その夜、少年は、
「怖くなかった」。
それだけで、
世界は、ほんの少し救われていた。




