第33話:揺れる手 ― アメリアの疲弊
工房には、いつもと同じ朝の光が差し込んでいた。
窓辺の埃が、ゆっくりと舞う。
糸車の影が、床に細い線を描く。
――なのに。
アメリアの手だけが、いつもと違っていた。
カチリ。
カチリ。
一定だったはずのリズムが、途中で止まる。
アメリアは、糸を引いたまま、しばらく動けずにいた。
(……あれ?)
自分でも理由がわからない。
疲れている、という感覚はある。
でも、どこがどう疲れているのかは、はっきりしない。
指先に、力が入らない。
糸が、ふるりと揺れる。
「……」
もう一度、回そうとする。
けれど、指が言うことをきかず、糸車が空回りするだけだった。
アメリアは、そっと手を膝に下ろした。
指が――震えている。
目に見えるほどではない。
けれど、本人にははっきりとわかる、小さな揺れ。
(……あ)
胸の奥が、きゅっと縮む。
怖さでも、痛みでもない。
もっと曖昧で、もっと逃げ場のない感覚。
「……わたし」
何を、どこまで、背負ってしまったのだろう。
そのとき。
工房の扉が、静かに開いた。
「アメリア?」
ミラベルだった。
差し込む光を背に、彼女は一歩足を踏み入れる。
そして、すぐに気づいた。
糸が途中で止まっていること。
アメリアの手が、膝の上で動かないこと。
「……どうしたの?」
ミラベルは近づき、何も言わずに隣に立つ。
アメリアは、笑おうとした。
いつものように、軽く。
でも――できなかった。
「……止まっちゃって」
それだけ言うのが、精一杯だった。
ミラベルは、何も聞かなかった。
理由も、経緯も、問いたださない。
ただ、アメリアの手を見る。
震えを、見逃さなかった。
ミラベルの表情が、少しだけ変わる。
怒りでも、焦りでもない。
心配と、決意が混じった顔。
「……ね」
静かな声だった。
「休まなきゃ」
その言葉は、命令じゃない。
提案でもない。
“当たり前の事実”を、そっと置いただけ。
アメリアは、反射的に首を振りかけて――止まった。
「……でも」
言いかけて、続けられない。
“でも”の先に、何があるのか。
自分でも、もうわからなかった。
ミラベルは、アメリアの前にしゃがみこみ、目線を合わせる。
「ねえ。
あなたがいなくなったら、困る人はたくさんいる」
アメリアの胸が、きゅっと締まる。
「でもね」
ミラベルは、やわらかく続けた。
「あなたが壊れたら、もっと困る」
その言葉は、重かった。
誰かを救う話じゃない。
未来を語る言葉でもない。
“今のアメリア”だけを、真っ直ぐに見た言葉。
アメリアは、俯いた。
視界が、少し滲む。
(……ああ)
善は、剣のように振るえない。
魔法のように、無限でもない。
善は――人の体を通って、外に出る。
だから、削れる。
削れて、摩耗して、
それでも続けてしまうから、気づくのが遅れる。
「……少しだけ」
アメリアは、かすれた声で言った。
「少しだけ……休んでも、いい?」
ミラベルは、微笑んだ。
それは祝福の笑顔じゃない。
勝利の顔でもない。
親友の顔だった。
「もちろん」
そう言って、アメリアの手を、そっと包む。
温かかった。
糸よりも、
どんな言葉よりも。
アメリアは、初めてその日、深く息を吐いた。
善は、力になる。
でも――力は、消耗する。
その現実を、
彼女はようやく、受け入れ始めていた。




