第31話:触れてしまった重さ
療養棟の廊下は、昼間でも静かだった。
窓から入る光は柔らかく、白い壁に反射して、時間の感覚を曖昧にする。
剣の音も、号令も、ここにはない。
アメリアは、案内されるまま小さな部屋の前で足を止めた。
「……ここです」
騎士が小声で告げる。
中にいるのは、重傷ではない兵士だという。
傷は癒えつつある。歩けるし、話もできる。
それでも――戻れない何かがある、と。
アメリアは一瞬だけ迷ってから、扉をノックした。
「……失礼します」
部屋の中は、整っていた。
清潔な寝台。窓際の椅子。
そして、寝台の上で横になっている青年兵。
彼は、眠っていた。
呼吸は浅いが、乱れてはいない。
ただ――両手が、胸元に引き寄せられている。
ぎゅっと。
指の間にあるのは、見覚えのある編み目だった。
アメリアの喉が、ひくりと鳴る。
それは、特別なものではない。
療養院に渡した中のひとつ。
柔らかさを重視して、少しだけ太めの糸で編んだ、小さなマフラー。
青年は、それを離さない。
眠っている間も、指先に力がこもっている。
アメリアは、声を出さずに近づいた。
(……どうして、こんなふうに)
そのとき、青年のまぶたが微かに揺れた。
ゆっくりと目が開き、焦点が合うまでに、少し時間がかかる。
「……あ」
掠れた声。
アメリアは反射的に一歩下がりそうになり、踏みとどまった。
「ご、ごめんなさい。起こしてしまって……」
青年は首を横に振る。
それから、胸元の編み物を見て、また握り直した。
「……これ」
言葉を探すように、しばらく沈黙が落ちる。
「……これが、あったから」
アメリアの胸が、きゅっと縮む。
「眠れたんです。
何日も……目を閉じるのが、怖かったのに」
彼は、天井を見つめたまま、続けた。
「剣を振るのも、命令を聞くのも……平気でした。
でも、何もない時間が……一番、耐えられなかった」
握る力が、少しだけ強くなる。
「これを触ってると……戻ってこられる気がして」
アメリアは、言葉を失った。
ありがとう、とは言われない。
救われた、とも言われない。
ただ――そこに事実が置かれただけ。
(……触れてしまった)
胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。
これはもう、
「落ち着く」だけじゃない。
「気休め」でもない。
人が、生き延びる理由に――触れてしまった。
「……編んだ人に、伝えてください」
青年が、静かに言う。
「……助かりました、って」
アメリアは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
部屋を出たあと、廊下で立ち止まる。
膝が、わずかに震えているのに気づく。
(……戻れない)
何から?
どこへ?
わからない。
ただ、はっきりしていることがひとつだけあった。
――もう、軽い気持ちでは、編めない。
アメリアは、両手を胸の前で握りしめる。
その手は、
知らないうちに、
誰かの「生」を支える重さを、覚えてしまっていた。




