第29話:夜明け前の手 ― アメリアの迷い
工房の窓の外は、まだ夜の名残を引きずっていた。
空は群青色のまま、
東の端だけが、かすかに白み始めている。
アメリアは一人、作業台の前に座っていた。
灯りは落としていないが、糸の色がよく見えるほど強くもしていない。
この時間が、一番落ち着く――
はずだった。
けれど今夜は、指が止まっている。
針を持つ手が、ほんのわずか震えていた。
(……これ)
アメリアは、編みかけの防寒具を見つめる。
丁寧に揃えられた目。
いつも通りの、慣れた編み方。
何一つ、変わっていない。
それなのに、胸の奥がざわつく。
(……私が、やっていいこと?)
小さな声が、心の中で響く。
これまでは、
寒い人がいた。
疲れている人がいた。
だから、編んだ。
理由は単純で、迷いはなかった。
でも今は違う。
その糸が、
人の心を支え、
立ち上がる力になり、
生き延びる理由に触れ始めている。
(そんなの……)
アメリアは唇を噛む。
嬉しくないわけじゃない。
誇らしくないわけでもない。
けれど、同時に怖かった。
(私が、もし……間違えたら?)
癒やしは、優しい。
けれど、優しいからこそ、深く入り込む。
軽い行為じゃない。
「ちょっと役に立った」では済まない場所に、もう来てしまっている。
(私なんかが……)
思い出すのは、前世の記憶。
決められた結末。
どんなに足掻いても、待っていた破滅。
(もし、これも……)
“物語”の一部だったら?
善意が積み重なった先で、
もっと大きな絶望が用意されていたら?
針を持つ手が、きゅっと強張る。
アメリアは、そっと膝の上に作品を置いた。
逃げたい、と思った。
一度、全部やめてしまえば楽かもしれない。
けれど――
(……それでも)
思い浮かぶのは、
安心したように眠る子どもたち。
言葉少なに、防寒具を握った兵士の手。
何も言わず、ただそばに立ってくれたミラベルの背中。
誰も、強制していない。
誰も、命じていない。
それでも、必要としている人がいる。
アメリアは深く息を吸い、吐く。
(……怖い)
正直な気持ちだった。
でも、その恐怖は――
もう「やめる理由」にはならなかった。
彼女は再び針を手に取る。
夜明け前の静寂の中、
糸が、かすかに擦れる音が響く。
その手つきは、まだ迷いを含んでいる。
けれど、止まってはいなかった。
光が差し込むまで、あと少し。
アメリアは、自分の選択の重さを噛みしめながら、
それでも一目一目、糸を紡ぎ続ける。
この迷いこそが、
彼女が“ただの善意”を越えた証だった。




