第13話:ミラベルの変化 ― 笑顔の練習
それは、本当に些細な瞬間だった。
中庭のベンチで、ミラベルはひとり座っていた。
祝祭の喧騒から少し離れた場所。
人の声は届くが、話しかけられることはない距離。
膝の上には、見覚えのある小さな膝掛け。
柔らかくて、軽くて、
抱えると不思議と呼吸が深くなる――
アメリアが、何も言わずに渡してくれたもの。
ミラベルは、ぼんやりとそれを指先でなぞっていた。
(……今日は、胸が苦しくならない)
そう思った瞬間、
彼女の口元が、わずかに動いた。
――ふっと。
自分でも気づかないほど小さく、
でも、確かに。
「……え?」
ミラベルは驚いて、片手で口元を押さえる。
今のは、なんだったのか。
笑った?
いま、わたし……?
胸の奥が、ざわりと揺れた。
けれど、それはいつもの痛みではない。
戸惑いと一緒に、
少しだけ、あたたかいものが混じっている。
(……練習、してたわけでもないのに)
笑おうとした覚えはない。
楽しい出来事があったわけでもない。
ただ、座っていただけだ。
膝掛けに触れていただけ。
なのに。
「……変なの」
そう呟いた声は、思ったよりも柔らかかった。
そのとき、視線の先にアメリアの姿が見えた。
祝祭の人混みの向こう。
編み物の机に座り、相変わらず静かに針を動かしている。
誰とも話していない。
誰にも囲まれていない。
なのに、そこだけ空気が違う。
ミラベルは、立ち上がりかけて――
そして、やめた。
(……何を言えばいいのかわからない)
ありがとう、と言えばいいのだろうか。
助けられた、と言えばいいのだろうか。
でも、理由が説明できない。
アメリアは何もしていない。
慰めたわけでも、励ましたわけでもない。
それなのに。
ミラベルは、胸に手を当てる。
(……理由がわからないのに、苦しくない)
その事実だけが、はっきりとそこにあった。
言葉は出なかった。
感謝も、告白も、まだ形にならない。
だからミラベルは、
もう一度、ゆっくりと息を吸って――
今度は、意識して、少しだけ口角を上げてみる。
ぎこちない。
上手くはない。
それでも、それは確かに「笑顔の練習」だった。
誰にも見せない、小さな変化。
だがその一歩は、
彼女自身が思っているよりも、ずっと大きな意味を持っていた。
救われた側が、
ようやく、自分の足で前を向き始めた瞬間だった。




