ハンケチと自転車
三内にはどうにも気になる人がいる。名は知らない。
流行り柄の着物に袴。高い位置で髪を結い流し大きなリボンの色は朱。自転車に乗って毎朝すれ違う女学生。
恐らく隣町の高等女学校に通うどこぞのお嬢様だろう。この辺で自転車なんて高級品に乗れる女子なぞ華族か豪商のお嬢様かご夫人くらいのものだ。
貧乏学生の三内は自転車なんて独逸語の湯沢が毎日乗って来る中古のぼろか、いけ好かない川村が校舎の玄関横に立てかけて自慢げに磨いてるのを見たことがある程度だ。三内より成績が悪い癖に。顔の良い金持ちなんぞ嫌いだ。
「おい、サンナイ、今日は女神と会えたのか」
「ミウチだ、馬鹿者。何だ女神って」
「あの子だよ。朱のリボンのハイカラさん」
「会ったぞ。今日もこけてたな」
「そうか、まだ駄目そうか」
「ああ。いい加減、自転車を止めた方が良いと思うんだがな」
「そういうお前はいい加減、女神の名前は聞いたのか?」
「必要が無いだろう」
三内の通学路には少々長くゆるい坂がある。三内の学校は坂を下った先、女学校は坂を上がった先にある。ゆえに朝は三内が坂を下っていると件の女学生が坂を上がってくるのだ。
そうして三内が坂を下っていると、上って来た女学生は坂の途中で必ずこける。必ずだ。桜が咲く頃から木枯らしが吹き始めた今日まで、女学生は欠かさずこけている。
「だが、ほぼ毎日助けてるんだろう?」
「そうなるな」
「名前を聞かれたりしないのか?」
「特に無いな」
初日は女学生も派手にこけた。がしゃりと大きな音を立てて横倒しに倒れた。
流石にあの時は三内も慌てて駆け寄り助け起こした。手の平を怪我していたのでハンケチを巻いてやり、自転車を持って坂の上まで一緒に行ってやった。「すいません…」と泣きそうに顔を真っ赤にしていた。
それからしばらくは同じように派手にこけていたので三ヶ月くらいは手伝ったが、あまりにこけるので自転車を止めるように勧めた。「それはできません…」と泣きそうな顔をされたのでそれ以上言わなかったが。
その日からは自転車ごと横倒しになることは無く倒れる寸前で足をついて止まるようになった。今も自転車は器用に転がるが、三内は自転車を起こしてやるだけで女学生もその後は自力で上がっている。
「変な関係だよなぁ」
「そうだな、意味が分からんな」
首を傾げた悪友に、そういえばほぼ毎日会っているのにハンケチを返してもらっていないなと三内も首を傾げ、大きなくしゃみをした。




