あの一言が言えなくて
一人称視点の練習をしてみようと思いまして。
「殿下、こちらの調印内容をご確認いただけますか」
騎士が差し出した書状を受け取りながら、僕はそっと目を通す。
国境沿いの小国と新たに結んだ交易協定の最終案だった。
「文言は問題ありません。こちらで了承の旨を記して返しましょう」
手早く署名を済ませると、周囲の者たちが安堵の息を漏らすのが分かった。
……まあ、よくあることだ。
「王子」としての僕は、少し“冷静すぎる”と思われているらしい。
けれど、それが今の僕の役割だと分かっているし、務めるのに苦はない。
ただ――
「レックス、すごいです。私、先に読んでも意味が追いつきませんでした……」
すぐ隣で、ノアがそっと声をかけてきた。
その言葉に胸がふわりと揺れる。
「慣れだよ。ノアだって、もうすぐ追いつくさ」
努めて淡々と返したけれど、内心はどうにも落ち着かない。
……まただ。
政務では冷静にいられるのに、ノアが絡んでくると、まるで歯車が狂う。
このところ、ずっとそうだった。
彼女がエテルナに発つ朝、港で手を振ったあの日から。
戻ってきた彼女は一段と逞しく、そして眩しくなっていた。
「“好きだ”って、言えばいいだけだろ?」
いつだったか、ラクティス団長に冗談めかしてそう言われたことがある。
言うは易し。だが、それができたら苦労しない。
なにしろ、いざノアを目の前にすると、言葉が喉で詰まるのだ。
感謝も、励ましも、謝罪でさえ言えるのに――「好きだ」だけが言えない。
「レックス? その……よければ、今日の報告の後で、少しだけ話せませんか?」
その一言で、心臓が跳ねた。
「話せませんか?」なんて。
そんな言い方、何を期待すればいいんだ。
まさか――まさか、それは。いや、でも、きっと違――いやいや、でも!
「う、うん。もちろん。……どこで?」
「えっと、あの……詰所の裏庭に、少しだけ花が咲いていて。そこ、静かなんです」
ああ。
それってつまり、ふたりきりの空間じゃないか。
僕はなんとか頷き、時間と場所を約束した。
けれど、そのあとに提出された報告書の内容なんて、ほとんど頭に入ってこなかった。
王子としての顔と、ひとりの青年としての顔。
その間で引き裂かれそうな気分だった。
* * *
日が落ちるころ、僕は約束の場所へと足を運んだ。
春先の空気はまだ少し冷たく、頬を撫でる風が心を落ち着かせてくれる……ようで、全然落ち着かない。
少し遅れて、ノアが現れる。
手には小さな包み。何か甘い香りがした。
「……今日、お菓子をいただいて。レックスにも、って思ったんです」
照れたように差し出された包みを受け取り、僕は「ありがとう」とだけ言うのが精一杯だった。
話は、何てことのない世間話だった。
訓練中にモコが転がって邪魔だったこと。
近衛隊の新兵がイストに泣かされたこと。
今朝見た夢の話まで、彼女は少しずつ話してくれた。
そのどれもが、愛おしかった。
けれど、愛おしいと思えば思うほど、言葉が出てこない。
そろそろ、言おう。
そう思った時だった。
「……レックスって、時々、すごく静かになりますよね」
ノアが首をかしげる。
「ごめん、聞いてたよ。ただ、……」
言いかけて、言葉が霧散した。
今じゃない、まだ無理だ。
彼女を困らせたくない。関係を壊したくない。
そんな言い訳が、頭の中をぐるぐる回る。
「……ううん。話してくれて嬉しかったよ」
結局、また逃げてしまった。
だけど、ノアはにこっと笑って「そう言ってもらえると、嬉しいです」と答えた。
その笑顔に、また一歩、恋が深まってしまう。
言えない。けれど、見ていたい。
それでもいいと思ってしまう、今の僕は――
「……ほんと、僕って、弱いな」
誰にも聞こえない声で呟いた言葉に、ノアが不思議そうに首をかしげる。
「何か言いましたか?」
「いや、独り言。あ、きれいな夕焼けだなぁ」
そのまま、空を見上げるふりをした。
でも、視界の端にノアの笑顔がある。それだけで十分だった。
言えないくせに、ずっと見てる。
そんな自分に少し呆れながら、それでも今日もまた、僕は彼女の隣にいた。