第93話
しばらくあちこち歩いているうちに、薄葉夕夏は突然激しい腹痛を感じた。十中八九、食べ物が悪かったせいだろう。秋山長雪と冬木雲に声をかけて、急いで洗面所へ走った。
洗面所から出てきた薄葉夕夏は、秋山長雪と冬木雲がいた場所にもういないことに気づいた。あちこち探し回りながら焦りが募る。音楽声、笑い声、売り声が次々と耳に届き、鼓膜を刺激し続ける。
薄葉夕夏は歩きながら二人の名前を呼びかけたが、騒がしい環境の中、彼女の声はすぐに消されてしまい、まるで小さな石を海に投げ込んだように、さっと波がなくなってしまった。
学園祭の会場を出て、ようやく静かな教室棟の影に覆われた側面で二人を発見した。
ここは学園祭のにぎわいと鮮明な対比をなしており、陽光も大きな影に遮られていた。地面の落ち葉が微風にそよぎ、さらさらと音を立てた。隅っこに生えている何株かの名も知らない小さな花が風の中で震え、これから起こる出来事を予感しているかのようだ。周りは静かで、少し心が荒れるほどだった。
薄葉夕夏が声を出そうとした瞬間、二人の会話が聞こえてきた。
「雲……」秋山長雪の声は微かに震え、言いたいことを封じ込めたような葛藤が込められていた。「このことはもうすぐ隠せないと思うの。学園祭が終わったら、夕夏に話すのがいいんじゃない?」
冬木雲の表情は一気に重くなり、眉をひそめ、深い無力感が眼差しに滲んでいた。
彼は無意識に手を上げて、秋山長雪をなだめようとしたが、途中で止まり、力なく下ろした。「小雪、やっぱり……」言葉が喉に詰まって、後半が出なくなった。ただ、その語調に込められた罪悪感が、薄葉夕夏に「何かが起こっていて、全く気づかないフリはできない」と思わせた。
まるで食べた昼ご飯が必ず消化されるように、勉強した知識が脳に刻み込まれるように、誰かのせいで高鳴る心臓は「好き」の証拠だった。
その瞬間、薄葉夕夏の頭は「ゴン」と鳴り、全身の血液が凍り付いたように感じた。すぐに血液の循環は再開したが、背中に冷たい汗が止まらずに滲み出し、服を濡らしてしまった。
彼女の唇が微かに震え、目に涙があふれ、心の中の最後の希望も完全に潰えてしまった。薄葉夕夏の認識の中で、秋山長雪の口に出た「このこと」とは、間違いなく二人が恋愛関係を結んだこと。ただ、彼女の気持ちを配って隠しているだけだと思った。
あふれ出る涙が視界をぼやけさせ、彼女は振り返らず思い切り人ごみの中に飛び込んだ。周りの同級生たちの歓声は今では耳障りなノイズに変わった。彼女の心の中にはただ一つの考えしかなかった。それは、逃げること。誰もいない場所で思い切り泣きたいと思った。
彼女は冬木雲の後半の言葉「君たちが引っ越すこと」を聞き逃がし、秋山長雪が変えられない現実に紅くなった目を見ることもなかった。
それ以来、薄葉夕夏は苦しみに陥った。彼女は秋山長雪と冬木雲を意図的に疎遠にし始めた。
二人の友人がいなくなって、彼女は本物の独行者になった。何をしても独りで、人生の中に「友達」という言葉がもうなくなったかのようだった。
不思議なことに、独りで過ごす時間が増えるにつれ、元々慣れなかったことが次第に無意識の習慣になっていった。最初は同級生たちの悪口に傷付いたり鬱陶しかったが、何度も聞くうちに、もはや心に波瀾を巻き起こさなくなった。
薄葉夕夏は日々がこのまま地味に続くだろうと思っていた。しかし、運命は時間よりも捕らえにくく、理解しにくいものだった。
ある平凡な日、休憩時間。薄葉夕夏はいつものように席に座って真剣に勉強していたところ、突然同級生たちが物議を醸し始めたのを聞いた。
「聞いた?秋山長雪一家が海外に引っ越したんだって!」
「本当に?突然だよ!最近よく休んでいたのは、引っ越しの準備をしていたんだ!」
「本当だよ!今日のフライトらしい。父親の仕事が海外に拡大したから、家族全体で引っ越すんだって。」
「引っ越してもいいわ。ある人と顔を合わせることなんか、毎日熱い顔を冷たい尻尾に貼るなんて、どんだけつまらないの。」
これらの言葉が一語一語、薄葉夕夏の耳に染み込んだ。彼女の体が一気に硬直し、手に持ったペンが思わずノートに鋭い墨の線を引いてしまった。
彼女は自分の耳を信じられなかった。悲しみよりも、心の中には怒りと失望がより多く湧き上がってきた。
秋山長雪が引っ越すことを、なんと彼女に直接告げる勇気さえなかったのか?彼女は同級生たちの雑談からその事を知ったのだ!
薄葉夕夏は秋山長雪が故意に逃避し、二人の間の矛盾に直面するのを恐れて、このように静かに去ろうとしたと確信した。
上昇する感情に理性を失った彼女は、暇を持て余すことを恐れた。暇さえあれば、脳裏には秋山長雪と冬木雲のことを思い浮かべてしまう。そこで彼女は全ての精力を勉学に注ぎ込んだ。毎日一番早く教室に着き、一番遅く去る。まるで本の世界に浸ることで、心の痛みを一時的に忘れることができるかのようだった。
かつて、3 人は力強く約束した。首都のあのトップ大学に一緒に入ろうと。しかし今、薄葉夕夏は 4 年間の大学生活で、彼女に傷を与えた人と向き合うことを嫌っていた。この思い出に満ちた場所から逃れ、誰も知らない街で新しい人生を始めたかったのだ。
大学入試の日が日に日に迫る中、薄葉夕夏は問題の海で必死にもがいた。驚くべき毅力と決意を頼りに、彼女の成績は飛躍的に上がった。やがて冬木雲はかつて 3 人が共に憧れた大学に思う存分合格し、薄葉夕夏も隣接する都市にある文学科で有名な大学に合格することに成功した。
2 月末のキャンパス、早春の気配がつい初めて枝に現れた。空気にはわずかな暖かさが漂っていたが、2 人の間に広がる濃い隔たりを吹き飛ばすことはできなかった。
「夕夏、僕らの約束を忘れたのか?」冬木雲の声には疑問と怒りが込められていた。
実は彼は誰よりもはっきりと、3 人が道を分かつ原因を知っていた。それはすべて、彼のためらいのせいだった。誰も傷付けたくなかったのに、結果的に全員を傷つけてしまった。
秋山長雪が海外に引っ越して以来、冬木雲は意図的に薄葉夕夏を訪ねなくなった。彼の姿が薄葉夕夏に不愉快な思い出を思い起こさせるだけだと考え、静かに離れることを選んだ。そうすれば彼女がゆっくりと心を癒すことができるのではないかと思っていた。しかし、受け入れられない結果がもたらされた。
彼にとって 3 人の約束は最も貴重な絆であり、無数の日々を乗り越えるための信念だった。しかし、堅固な信念はあっという間に崩壊し、たちまち粉々になってしまった。
「夕夏、どうして… どうして…」冬木雲の声には思わず震えが入り、目の周りも次第に赤くなった。「本当に決めたの?」彼の口調には、薄葉夕夏の心の中に残る約束の思い出を呼び起こそうとする懇願の気持ちが込められていた。
薄葉夕夏は冬木雲の複雑な表情を見て、口を開こうとしたが、誤解や不満、そして痛みが、絡み合った麻のように、言葉にすることができなかった。陽光が彼女の顔に差し込んだが、その顔に映り出されたのはただの寂しさだった。「あの大学の文学科は全国で最高だ。行かない理由はない」
彼女の表情は平穏で、眉ひそめることすらなかった。しかし、彼女だけが知っている。何事も起こらないような安寧は、嵐の前奏曲なのだ。
冬木雲は薄葉夕夏の冷たい態度を見て、心の中の最後の希望も失った。何度も深呼吸をして冷静になろうと努力したが、失望の気持ちが言葉の中に溢れ出てしまった。
「分かった。君がそう決めたなら、もう何も言うことはない」
彼の重い足音は、希望に満ちた初春と共に消えていった。
草が茂り鶯が鳴くような春の季節も過ぎ去り、時はいつの間にか流れた。大学生活は想像以上に多忙で、あっという間に四年が過ぎ去った。未だ解けない誤解は、彼らの間に横たわる溝のように広がり、最終的に彼らの青春時代を、もう組み合わせることのできない欠片に分割してしまった。再び会った時、すでに物も人も変わり、もう元には戻れない。
薄葉夕夏の指が日記帳の最後のページに止まり、指先がかすかに震えた。封印されていた誤解と痛みが潮水のように再びやって来て、意図的に埋めていた感情が何年も後になって再び蘇った。
彼女は深く息を吸い、自分を落ち着かせるように努力して、ゆっくりと日記帳を閉じ、再び段ボール箱の底にしまった。まるで、もう触れたくない過去を封印するようだった。違うのは、立ち上がった時、彼女の目にはもう少し決意が見られたことだ。
思い出が蘇った以上、もう逃避することはない。この全てに向き合う時が来たと彼女は決めた。
薄葉夕夏が階下に降りてきた時、ちょうど秋山長雪がマガジンになったようにソファーに仰向けになっていた。無造作な姿には、自然な雰囲気が漂っていた。彼女は片手にグラスを持ち、片手でスマホの画面を滑らせ続け、口にはアイスキャンディの半分がくわえてあった。前のテレビでは深夜ドラマが放映されていて、何をやっているのか分からず、少しうるさいようだった。
「夕夏、どうして階下に来たの?」秋山長雪の視線が林相旪の顔から下に移り、彼女の手に持った空の皿と空のグラスに触れた。「あ、皿とグラスは流し台に置いておけばいいよ。後で私が片付けるから、一日中疲れただろう?早くシャワーを浴びて休んで」
言いながら、彼女はアイスキャンディの半分を飲み込み、グループ牛乳をグーグーと半分飲み干した。「爽快!まさに爽快だ!」
薄葉夕夏は彼女の食いしん坊な様子を見て面白く思わず、そのまま彼女の隣に腰を下ろした。「久しぶりに深夜ドラマを見ないな。最近、面白いのがある?」
秋山長雪はアイスキャンディを一つ口に入れ、言葉がはっきりしないまま答えた。「うん、今見ているこのドラマはまあまあだよ。男の主役がかっこいいんだよ、ふふ!夕夏、このアイスキャンディ、ものすごく美味しいよ!一気に何人前も食べられそうだ。それにグリンピーナッツミルク、本当に最高!夏に 100% 合う!店に取り入れることを考えてみて?」言い終わったら、満足げにくしゃみをした。
薄葉夕夏は秋山長雪の満足そうな様子を見て、口を閉じて笑った。「いいよ、あなたが適当だと思えば取り入れよう。そういえば、先ほど部屋で古い段ボール箱をめくっていた」
秋山長雪の動作が瞬間的に止まり、疑惑を抱いた表情で薄葉夕夏を見た。「古い段ボール箱?どんな古い段ボール箱?」
「前回、あなたが物置を整理して見つけたものよ」
「あ~~それか。中にはいくつかの雑誌などが入っているだけじゃない?どうしたの?宝を見つけたの?」秋山長雪は適当に聞いて、全く気にしなかった。
「うん、私の日記帳を見つけた。いくつかの往事も思い出した」