第92話
今でも薄葉夕夏は、その胸がドキッとする瞬間を鮮明に覚えている。
あれは雨の日だった。傘を持たずに学校に来てしまい、春雨の中で思わず酔い痴れていた頃のことだ。
冬木雲は制服の外套を脱いで彼女の頭にかぶせた。これはもともと風流な気持ちを込めた紳士的な行為ではなかったが、彼の体温が生地を通じて伝わり、細雨を遮った瞬間、薄葉夕夏はふと気付いた。そう、春雨には香りがあった。それは冬木雲がいつも纏っていた淡い雪松香だった。
その瞬間、彼女自身の胸の鼓動が恐ろしいほど大きく聞こえた。
雨上がりの空気は格別に清新で、久しぶりに青空が広がった。
薄葉夕夏は洗面所の個室の中に立ち、指先が無意識に制服のスカートをなでなでしていた。彼女はその場にとどまり、扉を開けて出るべきかどうか、じれったく考えていた。
前方から水の流れる音がバシャバシャと聞こえ、女子学生たちの興奮した囁き声が混ざり合っていた。
「ねね、見た?!今朝、秋山長雪と冬木雲が一緒に学校に来たんだ!秋山さんが新しく買った風呂敷を着て、めっちゃ高そうだったし、冬木君が彼女のかばんを持ってたの、まるでドラマの撮影中みたい!」
「外見だけでも、あの二人はまったくのドラマの男女主人公そのままよ!しかも両家が代々の付き合いだって聞く?だからいつもチャンスが合うんだろう。女の子は美しく男の子は格好いいし、成績もいいし、まさに天作之合よ!」
「そりゃそう!男神と女神は運命的に一緒になるはずだし、私たち凡人は CP を応援するだけでいいわ!」
「その通りよ。でもあの二人のそばにいつも電球が付いてるのがイラだわ。美男美女の恋愛シーンだけを見たいのに!!電球って全然自覚ないの?気持ち悪いことを知らないの?!」
「あなた薄葉夕夏のこと言ってるの?彼女は私たちのクラスの人で、冬木君と秋山さんとは子供の頃から一緒に育ったらしいから、いつも二人の後に付いて回ってるの。」
「高校生になってもずっと子供の頃の友達と遊ぶなんて、她に友達がいないの?人気がそんなに悪いの?本当に情けないわ。」
......
女子たちが笑いながら洗面所を後にした。彼女たちはまったく、個室の中で薄葉夕夏が下唇をしっかり噛み、爪を掌に深く刺し込んで、涙をこらえるのに必死だったことを知らなかった。
彼女は自分の平凡さを知っていたし、多くの同級生が彼女を嫌っていることもよくわかっていた。なぜなら、彼女が彼らの心の中の男神と女神と親しい関係にあるからだ。また、秋山長雪が非常に優れていて、冬木雲が確かに輝いていて、彼らが本当に似合っていることも理解していた。しかし、そういう話を他人の口から聞くと、心は針で刺されるように痛くなった。
薄葉夕夏が洗面所から戻ると、廊下には春ならではの香りが漂っていた。窓の外の桜の木が微風に揺れ、花びらが時々廊下に舞い落ちた。
なんて素晴らしい天気だろう。さながら懵懂とした乙女心もピンクに染まり、明るくなったようだ。
彼女が教室の入り口にやっと着くと、中から笑い声が伝わってきた。
扉を開けると、午後の陽光が窓から差し込み、教室の中に金色の光斑を撒いた。秋山長雪と冬木雲が窓際に肩を並べて座っており、まるで暖かい光に包まれているかのようだ。秋山長雪は少し体を横に傾けて、冬木雲に英語の文法を説明していた。彼女の細やかな指が教科書の上を軽くなぞっていき、耳の後ろから幾筋の髪が落ち、格別に優しく見えた。
「この問題のポイントは時制の変化に注意することよ……」秋山長雪の声は柔らかく澄んでおり、吹き抜ける春風よりもさらに沁みるようだった。冬木雲は真剣に頷き、彼の瞳は深く集中しており、たまにノートにポイントを書き留めていた。その真剣な姿は周りのすべてを引き立たせるほどだった。
誰かが口笛を吹いて、この静けさを打ち破った。「女神と男神がまた愛を披露してる!」すると教室の中には一斉の笑い声が上がり、同級生たちの顔には青春の活気とゴシップな興奮が溢れていた。
「うふふ!美男美女が恋をしているのは目にやすい!」
「わあ!まるでファッション誌の写真を撮っているみたい!このフィーリング、最高!」
「男神と女神、じっくりと恋をして、卒業後は結婚して、同級生に披露宴を開くのを忘れないでね!」
……
秋山長雪が頭を上げ、困った表情を浮かべて、なでしこいくつか言った。「いい加減にしてよ、私たちは勉強してるの」と言ったが、口調には同級生たちにからかわれて不機嫌な様子はまったくなかった。
冬木雲は少し眉をひそめ、大いに騒ぐ人々を見渡した。その眼差しには少しの威圧感があったが、彼の視線が入り口の薄葉夕夏に向かうと、その冷たい眼差しは氷が解け雪が融けるようにすぐに柔らかくなった。「夕夏、この問題も分からないの?一緒に勉強してくる」
薄葉夕夏は頭を振り、教科書を抱く手が思わず力を入れ、指の関節が白くなった。「いや、手元のテスト問題を先にやらなければ」
席に戻ってから、彼女は目の前のテスト問題を見たが、頭の中は真っ白だった。心の中は五味が入り乱れていた。
彼女はこんな気持ちを持つべきではないとよくわかっていた。秋山長雪は彼女の最高の友達で、冬木雲もずっと世話になっている幼なじみだ。しかし、あの渋い感覚は思いがけなく湧き上がってきた。まるで夏の突然の豪雨のように、湿気がこもり、気分を煩わせるようだった。
薄葉夕夏の眼前には、さっきのシーンが思わず浮かんだ。秋山長雪が優雅に長い髪を掻き上げる様子、冬木雲が真剣に聞く様子、そして自分がさっと避ける狼狈した姿。
劣等感が心の中に広がっていった。
秋山長雪は天の骄子で、名前さえも美しすぎる ——「長雪」と聞くと、冬の中で最も純粋で永遠な雪景色を思い起こさせる。
では彼女、夕夏 —— 夏の夕陽を意味する名前に、暗に遺憾と寂しさが込められている。
時は白駒過隙(はくきょ過せき)のように、静かに前に進んでいった。
同級生たちのからかいが増えるにつれ、秋山長雪と冬木雲の間の距離もうっすら変化し始めた。彼らは思わず互いの一挙一動に気を配るようになり、たまに視線が合うと、頬に微かな紅潮を帯びるようになった。誰も口に出しはしないが、その曖昧な空気が二人の間で次第に広がっていった。
心動の瞬間を経て、秋山長雪は薄葉夕夏の口に出さない片思いにも気付いた。三人で過ごした数えきれない日々を思い返し、彼女はやはり現状を壊すことを忍びなかった。
平凡な放課後、秋山長雪はいつものように薄葉夕夏の家に駆け寄り、二人は狭い部屋で何となくおしゃべりをしていた。
「夕夏、この漫画、本当に上手く描いてるよ。私が読み終わったら貸してあげるね」
秋山長雪はベッドに横たわり、漫画を両手で掲げながら、まるで偶然のように口を開いた。「あら、この片思い、あまりにも美しい!作者、本当に上手だわ!そうそう、夕夏、好きな人がいる?いないって言わないで!私たちの年齢はちょうど恋心が芽生える頃よ」
薄葉夕夏は机の前で今日の宿題を整理していたところ、秋山長雪の質問を聞いて一時動作を止め、頬が微かに赤くなった。頭の中には自然と冬木雲の姿が浮かんだ。彼女は軽く咳をして慌てを隠そうとしたが、乱れた本をめくる音が彼女の動揺を暴露してしまった。
「好きな人か……」彼女は少しためらったが、結局冬木雲の名前は口に出さなかった。「もしいたとしても、大学に入るまでは恋愛はしないつもりよ。分かってるでしょ?今一番大事なのは勉強だし、私たちの年齢で恋愛してもどうなるの?一時的な好意が何を支えられるの?未熟な感情はあまりにも不安定だから」彼女はできるだけ気軽な口調を装ったが、頭はずっと秋山長雪の方を向けなかった。
「私が読んだ漫画の主人公は、好きな人に出会うと自分を抑えきれなくて、毎日その人と一緒にいたいって思うのよ。それは普通だと思うわ。それに、この時期の恋愛って好奇心が原因だろ?恋愛に対して、本当に少しの興味もないの?」秋山長雪は体を返して座り上がり、片手で顎を支え、漫画をめくるように見えたが、実は薄葉夕夏の表情の変化をよく観察していた。
「私は漫画の主人公のように衝動的に行動しないわ。まずは勉強に集中したいし、良い大学に入ってから考えれば間に合うと思うの。親も先生も『大学に入れば優れた青年がたくさんいる』って言うでしょ?今恋愛して、最後に別れたら、どんなに悲しいことか。そんな苦しみは味わいたくないの」と言いながら、薄葉夕夏は問題集を取り上げて開き、秋山長雪に自分の決意を証明するかのようだった。
「その通り!甘い恋愛を味わってから別れるのは最悪!私もそんなことはしたくない!」秋山長雪は深く息を吸った。なぜか、突然勇気が湧き上がった。「夕夏、実はずっと言いたかったことがあるんだ。あの…… 好きな人がいて、その人は……」
冬木雲の名前が口に出る前に、薄葉夕夏が急いで彼女を打断した。
「パッ」という音が、静かな部屋の中で際立って響いた。問題集を閉じた音だった。薄葉夕夏は胸の鼓動が急激に加速するのを感じ、全身の血液が頭に上ってくるようだった。
彼女は秋山長雪の目を見る勇気がなく、ベッドの上の漫画に視線を向けた。「小雪、もう言わないで。早く宿題をしようよ。今日、先生がたくさん宿題を出したわ」
この瞬間、彼女の脳裏には秋山長雪と冬木雲が一緒にいる画面が次々と浮かんでくる。想像の中の親密な場面は針のように彼女の心を刺して痛む。秋山長雪の口からこのまま冬木雲の名前が出るのを恐れていた。口に出す機会もなかった片思いが、このまま完全に粉々に砕かれるのを恐れていた。そして、この二人の彼女にとって無比に大切な友達を失ってしまうのを、最も恐れていた。
秋山長雪は薄葉夕夏の緊張した様子を見て、元々の三分の疑いが十分な確信に変わった。彼女は軽くため息をついて、納得した表情を浮かべた。「夕夏、緊張しないで。私が好きな人が誰であれ、大学に入るまでは絶対に恋愛しないと約束するわ」
「私たちはずっと最高の友達だよ。恋愛なんかよりも、同じ大学に入ることの方がもっと重要だし、そう思うでしょ?」
薄葉夕夏はゆっくりと頭を上げ、まだ不安が残る瞳で秋山長雪の目をじっと見つめた。彼女の言葉の真実性を確認するかのようだった。秋山長雪の瞳の中に見えた誠実さに、薄葉夕夏の心の中の重い石がようやく下りた。「そうね。私たちは同じ大学に入って、その時に存分に恋愛の素晴らしさを楽しもう」
あっという間に、夏は去り秋が来て、のんびりした夏休みの後、新しい学期が幕を開けた。
秋の暖かい陽光がキャンパスのすべての角落に差し込み、空気の中には淡い金木犀の香りが漂っていた。一年で最もにぎやかな学園祭の時期がまたやって来た。
三人は何の活動にも申し込まないことを暗黙に了解し、観光客のように賑わう人ごみの中を自由にさまよっていた。時にはある屋台の前で立ち止まり、時には素晴らしいパフォーマンスに引き付けられた。冬木雲はずっと微笑みを浮かべて、二人を辛抱強く付き合っていた。たまに小さな冗談を言って、彼女たちを大笑いさせる。その瞬間の心配事のなさは、本当のことであり、儚いものでもあった。