第87話
風波は薄葉夕夏が予想した通り静かに収まった。
幾人の当事者は会計をする際、黙々と頭を下げて話をせず、素早く金を出して支払った。2 人の店主が「後始末」を始める前にでも早く店を出るよう、1 秒でも長く滞在することを恐れていた。
「あなた方、本当に面白いわね。会計する動作が驚くほど一致しているの、事前に話し合ったの？」と秋山長雪は仲間を悪くするのを楽しんで、明るい目で幾人の顔を観察し始めた。彼らが尷尬になるまで笑いながらお金を受け取った。
「彼らをからかうのはやめてよ。元々友達だから、默契があるのは当たり前よ」と薄葉夕夏は幾人の矛盾を知らないふりをしながら、釣り銭を渡しながら笑って言った。
「数日後、店で数種類のデザートを新発売する予定よ。その時、キャンペーンも行うわ。例えば、2 品目半額、3 品目無料など。その時一緒に来てね。人数が多ければこそお得よ」
「誰が彼らと友達だ！」と正樹が鼻で笑って、智也を引っ張って 2 歩離れ、故意に幾人と距離を置いた。
「我々が彼らと友達になりたいと思ってるとでも思ってるの？」
「そうだよ、我々は彼らと疎遠だ」
「そうそう、同じ通りで働いているだけで、友達とは言えない」
幾人が次々と口を開き、正樹 2 人との関係を断ち切りたがっていた。
秋山長雪と薄葉夕夏が互いに見合わせ、同じく無奈な笑顔を浮かべた。「小学生同士の喧嘩」と見るに耐えないほどだった。
「もういいわ。2 言葉合わなければすぐに喧嘩になるの、あなた方の精神年齢は小学生と何が違うの？幼稚だわ！」
秋山長雪にしかられて、幾人はもう話をする勇気がなく、互いに顔を見合わせた。その様子はまるでいたずらをして先生に叱られた生徒のようだった。
「まず正樹と智也だけど、前回彼らが適当でない言葉を言って謝らなかったことに腹を立てているのよね？でも、あなた方が彼らに対して皮肉を言ったことにも謝るべきじゃない？」と秋山長雪は両手を胸に抱え、正樹と智也の顔を行ったり来たり見た。
堂々と教育を受けて、2 人の顔は真っ赤になり、頭を下げ、足で不安に床をかいていた。
しばらくして、正樹が決心したように小声で言った。「我々の悪いことだ。こんなに気に入れるべきではなかった」と智也もすぐに同意した。「そうだ、我々は先ほど衝動的だった。皮肉を言うべきではなかった」
秋山長雪はもう一方のテーブルの幾人を見て、眉をひろげた。「あなた方は？」
「前回は我々が悪かった。通りで流れる噂を信じて、『福気』と 2 人の店主に偏見を持ったのだ。事実が示すように、先入観を持っていたのだ。ここで 2 人の店主に謝ります。すみません。それに正樹、智也、あなた方が我々に不満を持ったのは『福気』と 2 人の店主を守るためだ。我々は一時的な意地を張って喧嘩するべきではなかった。すみません」
「我々が噂を信じてしまったのが悪い。本当にすみません、正樹、智也。もし許してくれるなら、以前のように付き合いたい」
「そうだ、正樹、智也。これから一緒に『福気』と 2 人の店主を守ろう。そんな噂は飛ばして！」
他の幾人も次々と謝罪し、声には誠意が満ちていた。
薄葉夕夏が笑いながら前に出て、すでに準備していた持ち帰り用の箱を渡した。「もういいわよ、話を明らかにすればいいの。ね、これは店で近日新発売するデザート —— チーズグラタンサツマイモよ。合計 3 人分、あなた方で分けて」
正樹が驚いて受け取り、興奮して叫んだ。「わあ、小店長、デザートも準備してあったの！」
「店の中で喧嘩をしてしまうのを心配して、美味しい物で落ち着かせようと思ったの。和解したら、持ち帰ってゆっくり食べてね。食べる前に温めれば、チーズが引き伸ばせるよ」
「ありがとう小店長。でも 3 人分は分けにくいな。こうしよう、今夜は私が当番で、店に私一人だ。あなた方が退勤したら、私のところに来て一緒に食べない？」
「うん！涼太、このアイデアはいい！じゃ、あなたが持ち帰り用の箱を持って、退勤後ビールを買って行くね」と正樹は言い終わると、涼太の手に持ち帰り用の箱を押し付け、「分かるだろ」という笑顔を浮かべた。
「私は店で売り残りのデザートを持って行く！」
「私はおつまみを持って行く！」
「私は何を持って行く？小店長に蓋澆飯を何品か買って持って行こうか？ビールだけではダメだし」
幾人が次々と話し合い、間もなく訪れるディナーパーティーに興奮していた。以前空気に漂っていた隔たりはすでになくなり、友情の舟は自然に肩を組んで再び出航した。
彼らが去っていくのを見送った後、秋山長雪が薄葉夕夏のそばに寄り添い、好奇心をそそられて目を瞬かせた。「夕夏、も明明每人にチーズグラタンサツマイモを用意していたのに、なぜ『3 人分しかない』って嘘をついたの？」
「そうしなきゃ、彼らの心の中に残った最後の少しの隔たりが消えないでしょう。一緒に食べ物を分けることで、人と人の距離を効果的に縮められるの。見ててね、今夜のディナーパーティーを経て、明日彼らは間違いなく手をつないで店に来るよ」
「そう言うとおもうわ。あ、でも余った分はどうするの？私たち 2 人で解決？」と煮えた鴨が口に入ることを思うと、秋山長雪は喜んで手を搓るようにした。
「すみませんが、残りは君が引き寄せた 3 人の末弟たちと晴美が食べるわ。君が食べたいなら、数日後にデザートが新発売されたら、君の分を多めに用意するわ」
「わかったわ。子供たちと食べ物を争うのはやめとく。でも彼らはいつ来るの？何日も会ってないから、会いたいな」
静かな午後、陽光がのんびりと「福気中華料理店」の入り口に差し込んだ。秋山長雪はカウンターにつか伏せ、眠気に襲われていた。薄葉夕夏も携帯電話を見つめながら、だんだんと目が重くなってきた。
その時、車のエンジン音がこの静けさを打ち破った。2 人がぼんやりと顔を上げると、桃おばさんの車がゆっくりと店の前に停まった。車のドアが開き、いくつかの見覚えのある姿が次々と飛び降り、「雪姉ちゃん！夕夏姉ちゃん！我々が来た！」と興奮して叫びながら、店の中に飛び込んできた。
高らかな歓声で 2 人は一気に目覚め、急いで立ち上がって新たなにぎわいを迎えた。
「みんな来た！早く手を洗って、今日は美味しいものを作るよ！」と秋山長雪が子供たちをキッチンに連れて行った。
薄葉夕夏は入り口に向かって桃さんとあいさつした。「桃おばさん、最近は元気ですか？今日は彼らを送っていただいて、お疲れ様です。早く中に入って休んでください」
「はい、すぐ来ます。ちょっと待っててください」と桃おばさんは言い終わって後座に向かい、体を車の中に突っ込んだようにして、何かを取ろうとしていた。
「桃おばさん、荷物を運んでいるの？手伝いましょう」
「いいえ、いいえ」
しばらくすると、桃おばさんが慎重に後座から体がやせ細った女性を引き出した。
薄葉夕夏が見上げると、女性は痩せていて、背骨が少し丸くなっていて、見えない圧力で腰が曲がったようだった。
猛暑の夏なのに、彼女は暑さを知らないかのように、洗いざらしになってデザインの古いキャラクターのパーカーを着ていた。パーカーの版型がゆったりしているのか、それとも彼女があまりに痩せているのか、全体的にゆるふわと体に掛かっており、まるで子供が大人の服を盗んで着ているように、言いようのない違和感を抱かせた。
彼女の素毛は元々はよさそうだったが、手入れが行き届いていないため、少しごたごたしていた。今はヘアーゴムで適当に低い马尾に束ねられており、何本かの碎け毛がばらばらに頬の両側に落ちていて、さらに彼女の顔色が紙のように白く見せた。
薄葉夕夏が気付いたのは、彼女が髪を束ねているヘアーゴムには既に割れ目が入っており、もうすぐ切れそうだが、彼女はそのことを知らないようだった。
車を降りた瞬間、彼女の視線が薄葉夕夏と一瞬合ったが、すぐに頭を下げ、地面にのみ焦点を合わせた。彼女の眼差しは暗く光りがなく、深い疲れと距離感を帯び、まぶたが少し垂れ、周囲のすべてに興味を持てないかのようだった。全体が抑圧的な陰りに覆われ、病気の弱さと憔悴を余すところなく表に出していた。
桃おばさんが女性を支えながら紹介し、目立たない無力感を含んだ口調で言った。「夕夏、こちらが真凛です。以前に隣人の子供だと話したことがあります。前回お店の紫蘇の桃生姜を食べたり、私があなたの話をたくさんしたりしたら、『福気』にとても好奇心を持っていて、今回私たちがお店に来ると聞いて、積極的に一緒に来ることにしました」
薄葉夕夏が真凛に偏見を持つことを恐れたかもしれない、桃おばさんはすぐに補足した。「彼女はただ一緒に来て見学したいだけです。後で場所を探して座らせればいいだけで、あなた方は自分たちの仕事に集中してください。お店の仕事を妨げることはありません」
薄葉夕夏は聞いて、依然としておなじみの優しい笑顔を顔に浮かべ、眼中には少しの異様感や嫌悪感もなく、自然に前に出迎えた。「あなたが真凛さんですね？桃さんから話を聞いていました。私と小雪はずっとあなたに会いたいと思っていたのに、桃おばさんが連れて来てくれたなんて、縁があるということですね。さあ、早く入って、一緒に美味しいものを準備しましょう」
3 人が店の中に入ったとたん、秋山長雪がちょうど晴美、晴英、美桜と優羽を連れてキッチンから手を洗いに出てきた。「桃おばさん、来てください！早く座って、この時期の太陽は最も照りつけますから、しばらくクーラーを浴びて涼んでください。え？この美人は？」
秋山長雪の視線が 2 人の間にいる弱々しい女性に止まった。彼女のような賢い人は、この初めて見る女性が真凛であることをすぐに思い当てた。
彼女は少し眉をひろげ、友人に目で質問した。「彼女が真凛？」という意味だった。薄葉夕夏が軽く頷いて、目で返答した。「はい、そうです」
秋山長雪はすぐに意を汲んで、冗談を言った。「夕夏、どこでこの美人を勧誘して来たの？」そして真凛に向かっていつものように熱心な笑顔を浮かべた。「美人さん、お名前は？今日は私たちの任務が少し重いので、芋圓の作り方を覚えてください。後でデザートができたら、たくさん食べてくださいね～」
真凛は驚いて頭を上げた。秋山長雪が彼女の名前を聞いたり、彼女の弱さを全く気にせず、直接彼女を美桜たちと同じグループに分類したり、甚至に任務を与えたりしたことを思いもよらなかった。彼女は彼女の体調を心配してそばに座って休ませるのではなく、そうしたのだ。
彼女の心の中には思わず波紋が広がった。これまで、人々は彼女の外見を見るだけで彼女がうつ病を患っていることを推測でき、彼女に対する態度も気を遣うようになり、話す口調さえ格外に柔らかくなった。まるで彼女が触れると割れる磁器の人形であるかのようだった。そのような特別扱いを受ける感覚は、彼女を周囲の世界から隔離させ、言いようのない劣等感を抱かせた。
彼女は相手に悪意がないことをよく知っている。ただ彼女に力を与え、生き下去る勇気を与えたかったのだ。彼らは彼女がうつ病の鎖から逃れ、再び生活を抱きしめることを望んでいた。しかし、この重たい善意は、彼女にとって耐え難い重さとなったのだ。
このため、彼女は自分の病気を憎み、同時に他人の善意を受け入れることがますますできなくなった。
彼女にとって、一つ一つの関心を表す言葉、一つ一つの気を遣うような視線は、すべて鋭い匕首のようだった。彼女が隠そうとした傷を思い切って切り開き、彼女と普通人との間の溝を情けなく眼前に暴露したのだ。
この繰り返される刺痛の中で、彼女はますます脆弱になり、ますます心を閉ざすようになった。そして病気は思いっきり彼女をしっかりと縛り付け、無尽蔵の暗い深淵に陥れたのだ。
