第86話
その夜、大介は自転車の改造に拍車をかけた。「チンチンカラン」という音が夜の中で特にはっきりして、より効率的に配達できるようにしたのだ。一方、薄葉夕夏と秋山長雪は朝早々からキッチンに入り、煙と火の中を忙しく動き回り、翌日の代購注文用の料理を丁寧に準備していた。
太陽が高くなるにつれ、楓浜街は一日で最もにぎやかなランチタイムを迎えた。
時間になると、正樹と智也がいつものように急いで店に入ってきた。先週末は両人とも休みだったので、2 日間「福気」の料理を食べられなかったため、もうすでに口が渇いていた。
秋山長雪が特別に接待する必要もなければ、メニューを見る必要もなく、自覚的に常連席に座って注文した。「小雪店主、辛い炒め粉干と麻辣拌をください！」
「今日新登場のメニューを試してみませんか？間違いなく美味しいですよ」と秋山長雪はメニューをテーブルに置き、新追加のページを指して熱心に説明した。「蓋澆飯を聞いたことありますか？半分料理と半分ご飯を混ぜて食べると、味が抜群なんです！甘口が好きならコーラ手羽先の蓋澆飯をオススメします。1 人分に手羽先が 4 個入っていますよ！お肉好きなら肉餅の蒸し卵蓋澆飯、これはお肉と卵があってとても栄養満点です。野菜好きなら塩卵黄南瓜かガーリックキャベツ、新鮮な炒め物の『鍋の香り』を味わいたいなら、唐辛子炒め肉とニラの花茎と挽肉の蓋澆飯が間違いないですよ！」
秋山長雪は早口で長い説明を終え、正樹と智也を期待して見た。
「こんなに多くの新メニューがあるの？2 人で少し相談して注文します」と正樹は頭を掻いて、悩んだ表情で智也を見た。しかし相手も彼と同じ表情だった。明らかに突然の新メニューに困惑していた。
「いいですよ。ゆっくり検討してください。蓋澆飯以外に、夏季限定のデザートも準備しています。数日後にぜひ来て味見してくださいね」
「デザートも販売しているの？」と智也は驚いて秋山長雪を見た。詳しく聞こうとしたところ、店のドアが開かれた。
「いらっしゃいませ。空席は自由にお座りください」と秋山長雪は智也たちに手を振って「後で話そう」と合図し、新しく入店した客に向かった。しかし彼らの顔を見た瞬間、なんだか見覚えがあることに気付いた。以前店で食事をしたことがある人たちだった。
電光石火のように思い起こした。この人たちは前回智也と正樹に付いて来たのに、今はなぜ......
振り返って智也たちを見ると、どちらも驚いた後の尷尬な表情だった。刹那間、店内のにぎわいが一時停止されたかのように、空気が粘稠になった。足の指で床をかいたような緊張感が周囲に漂った。
この人たちが皆沈黙して口を開けない様子を見て、前回の不愉快な出来事を思い起こした秋山長雪は、「福気」の店内で静かに友情の舟が転覆したことを鋭敏に察知した。
そして彼らが智也たちから遠くも近くもない位置に座ったのを見ると、意図的なのか偶然なのか分からない。
客同士の摩擦は「福気」と関係ない。秋山長雪はビジネスマンの笑顔を浮かべて、落ち着いて彼らを見た。「何を召し上がりますか？本日新たに複数の蓋澆飯を追加しましたので、ぜひ味見してくださいね」
この人たちはどうしても彼女の視線を避け、それぞれメニューをめくったり、何度も水を飲んだりしていた。まさにネットの有名なセリフが当てはまる ——「人は尷尬な時、忙しそうに振る舞う」のだ。
「小雪店主、相談が終わったよ。コーラ手羽先の蓋澆飯と唐辛子炒め肉の蓋澆飯を各 1 人分」と正樹が手を挙げて知らせた。
秋山長雪が注文を取り始めた途端、もう一方のテーブルの客たちも手を挙げた。
「私たちも決めました。合計 4 人分注文します。私は肉餅の蒸し卵蓋澆飯を」
「私は塩卵黄南瓜、それにニラの花茎と挽肉、ガーリックキャベツの蓋澆飯を各 1 人分」
「かしこまりました。少々お待ちください」と注文を取り終えた秋山長雪は、気まずい空気が漂う 2 テーブルを振り返り、「喧嘩しないで」と心の中で祈った。
彼女の姿が前庭から完全に消えると、正樹は我慢できなくなり、大声で智也に向かった。「智也、最近ネットで流行ってる『真香定律』知ってる？あれはある人が前後で意見を 180 度変えて、自分で自分の主張を否定する行動を指すんだ。この定律は人が誘惑に直面した時、最初の決定を破ることを反映しているよ。例えば『まずは食べない！』って言っていたのに、結局誰よりもたくさん食べるっていうケース」
彼は話しながら、もう一方のテーブルを斜めに睨み、「真香」「自分で顔を殴る」という言葉を力強く発音した。
「知ってるよ。だって多くの人が立てた目標を破るものだ。この定律には科学的根拠があると思うよ。例えば当店で新メニューを出すたびに、『旧メニューの方がいい』と文句を言う客がいるんだ。嫌いなら買わなければいいのに、結局新メニューの売れ行きはその文句を言う客たちが担ってる。本当に口では嫌だと言っても体は正直だね」
一見雑談のように聞こえるが、実は皮肉を込めた言葉だった。その場の客たちはすぐに腹を立てた。
「福気」の店主たちは何も言っていないのに、正樹と智也が何を文句言っているのか？
中でも気が短い男が箸を置いて、反論した。「正樹、その言葉の意味は？側から批判するなんて、言葉の意味が分からないと思ってるの？はっきり言え！」
本来なら無視すれば済んだのに、ここまで明言されて正樹の短気がさかった。「何を言ったってどうする？言ってはいけないの？前回、『福気』の料理を見下していたのに、出されたら皿まで舐めるほど食べたのはお前たちだろ！何だ、やったことを認めないの？集団で記憶喪失を装ってるの？私ははっきり覚えてる！」
公の場で素底が剥がされた客たちは面子を失った。瞬間、空気が緊張し、火薬味が漂い、もう少しで手を出すところだった。
秋山長雪が蓋澆飯を運んできて、両者が対峙する場面を見た。彼女は鋭い目で客たちを見渡し、厳しく言った。「何をしているの？ここは食事をする場所だ。喧嘩したいなら外に出て行け！」
「来て、注文の蓋澆飯ができましたよ。熱いうちにどうぞ」と薄葉夕夏が後ろからやって来て、食器をテーブルに置いた。彼女の優しい笑顔は隣のお姉さんのようで、数言で固まった空気を打ち破った。「昼休みは貴重だよ。何があってもまず食べてから話そう」
2 テーブルの人々は突然の割り込みに驚いて、一時期間、怒りが消えた。
正樹は気まずそうに座り、目が前のコーラ手羽先の蓋澆飯に止まった。赤く光る瑪瑙のような手羽先が、蜜のように濃厚なタレの中にのっていた。タレは灯りの下で魅力的な光を放っていた。粒々揃ったご飯は優しく誘惑的な暖かい色に染まっており、ご飯独自の清香と手羽先の香りが完全に融合していた。
彼はスプーンを取り、手羽先とご飯が混ざる瞬間、豊かで甘い香りが口の中に広がった。コーラ独自の甘香と鶏肉の濃厚な旨味が完璧に融合し、鼻を突いて、唾液を分泌させそうになった。
彼は早急にスプーンを口に運ぶと、柔らかいご飯がまず歯の間で広がった。続いて、しっとりした手羽先が味覚の饗宴をもたらした。鶏肉の柔らかさ、コーラの甘さ、タレの濃厚さが、瞬間的に口の中で爆発した。1 粒 1 粒のご飯が濃厚な汁を含んでいた。噛む間、甘さと旨味が絶え間なく衝突し、融合し、素晴らしい味覚の交響曲を奏でた。この豊かな食感に、正樹は瞬時に没入し、すべての不愉快な思いが雲の上に飛んでいった。
智也が友人がそんなに美味しそうに食べているのを見て、一緒に座り込んだ。彼が注文した唐辛子炒め肉の蓋澆飯は別の風味があった。
鮮やかな緑のピーマンは薄切りにされ、新鮮なサクサク感を持ち、油鍋で爆香して独特の辛香を漂わせ、柔らかくて弾力のある肉片と密接に絡み合っていた。
肉片は適度に焦げ香りが出るまで炒められ、表面が誘惑的な油光を放っていた。この二者を熱々のご飯と混ぜると、キッチンの炊きたての香りが口の中に広がった。
彼はたっぷりと一さじ挟んで口に入れる瞬間、唐辛子の辛さがまず舌で踊り始め、まるで火が味蕾の情熱を点けたかのようだった。続いて、濃厚な肉の香りがご飯の甘みと共に押し寄せ、三重の味が口の中で衝突し、彼は「美味しい！正樹、これも食べて！」と叫びながら食べ続けた。
2 人が料理を入れ替えて大いに食い物を楽しむ様子に、もう一方のテーブルの人々はますます空腹を感じ、我慢できなくなって座り込み、眼前の美食に専念し始めた。
肉餅の蒸し卵蓋澆飯を注文した客は、手のスプーンを軽く蒸し卵に差し込んだ。その蒸し卵は羊脂玉のように繊細で、震えるように揺れながらも驚くほどの韌性を持っていた。軽くかき取ると、その下にしっかりとした肉餅が現れた。肉餅の食感は手作りで叩いた後のしっかりとした質感だった。
ご飯と混ぜて口に運ぶと、蒸し卵の滑らかさ、肉餅の噛みごたえ、ご飯の甘さが、層層と深まり、喧嘩なんて、眼前の蓋澆飯ほど重要ではなくなった。
塩卵黄南瓜の蓋澆飯の皿の中で、金黃色の塩卵黄が細かい砂金のように、柔らかい南瓜の塊を均等に包んでいた。南瓜は調理の過程で塩卵黄の塩香を十分に吸収し、綿密で味が染み込んだ。
客が混ぜる時、塩卵黄の「サラサラ」という音がはっきり聞こえ、まるで美食の魅力を語っているかのようだった。一口ごとに塩卵黄の独特の粒感を感じられ、南瓜の甘さと柔らかさと混ざり合い、ご飯も塩卵黄の濃厚な風味を帯びた。美食が前にあれば、誰が止められるだろう？
ニラの花茎と挽肉の蓋澆飯のニラの花茎は均等に短く切られ、熱い油で炒めることで、そのままの甘さとサクサク感を保っていた。挽肉は鍋で香り高く炒められ、ニラの花茎にしっかりと付着していた。
ガーリックキャベツの蓋澆飯はもう一つの清新な風景だった。キャベツはガーリックの香りに染まり、甘くて美味しくなり、葉 1 枚 1 枚がガーリックの香りと野菜本来の汁をたっぷりと含んでいた。
前庭では誰も話をしなくなり、みんながむさむさと食べるのみで、食器がたまにぶつかる音だけがするようになった。
「これでもう喧嘩しないだろう？」と秋山長雪がフロントで小声で訊ねた。
「みんな食べるのに忙しいから、喧嘩しようとしても食べ終わってからだろう。でも、喧嘩にならなかったら、その気分が過ぎたらもっと喧嘩にならない」と薄葉夕夏が前庭を見ながら言った。「後で様子がおかしくなったら、チーズグラタンサツマイモを持って行こう。人は食べ物をもらったら手を焼くし、店の中で騒ぐ道理はない」
